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第1章:オベール家の娘

プロローグ

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「ヌレバっ! 今夜はどんなお話を聞かせてくれるのっ?」

 ふかふかのベッドの上でシルクの寝巻に包まれた白い肌のハーフエルフの少女が手足をばたつかせて、ベッドの脇の椅子に座る屈強なる男に寝る前のいつものお伽噺をせがむ。

 筋肉の鎧をまとった男が剃り上げた頭を右手で撫でながら、やれやれとため息をつく。

 夜の21時を過ぎても寝ようともせずベッドの上で手足をばたつかせる齢6歳の少女が属するオベール家にこの屈強なる男が仕えるようになってから、早5年の月日が経とうとしていた。理由はよくわからないが、眼の前の少女は武人であるヌレバ=スオーによく懐くようになってしまった。

 少女は蒼穹の双眸をきらきらと輝かせて、まだかまだかとヌレバ=スオーに話をするように催促するのであった。ヌレバ=スオーは、ふむっと息を整えて、お伽噺を語り出す。

「昔々。この世界は混沌に包まれていたのでもうす」

「あっ、天地創造の話よねっ! わたし、その話は聞き飽きたっ!」

 少女の悪気の無い一言に、ヌレバ=スオーは、うぐっと喉を詰まらせる。幼い子供にこの手の話をするのは、このポメラニア帝国の歴史と宗教を理解してもらうのにはうってつけの話題であった。しかし、彼女は公然とそれを拒否するのであった。ヌレバ=スオーはまたしても、やれやれとため息をつく。

「では、今夜は別の話をするのでもうす……。今より100年ほど前に、火の国:イズモにて、若い男女が居たのでもうす」

「おおー。それは面白そうな話だねっ。もうその2人はキスを済ませてしまったの?」

 ませているでもうすな、ローズマリー殿は……。まだ6歳なのに、仲良き男女が接吻せっぷんを交わしあうことを知っているとは思っていなかったのでもうす。もしかして、その先のことも知っているのもうすか? とヌレバ=スオーは考えてしまうが、まあ、それは無いだろうと、話の続きをするのであった。

「このポメラニア帝国にはヤオヨロズ=ゴッドという神たちが君臨しているのでもうす。男女は婚約する際に、この神たちに誓約を宣言するのでもうす」

「知ってるー。男女が結婚するためには、まず婚約をして、そして、誓約を交わしあうってー。わたしも、誰かと結婚する時には同じことをするんだって、パパとママから聞いたよー?」

 ふむ。ローズマリー殿に入れ知恵をしたのは旦那さまと奥方さまでもうすか。しかし、接吻せっぷんうんぬんは他の者でもうすな? あとで犯人を見つけて、叱りとばさなければならないでもうすな? とヌレバ=スオーは考える。

 ヌレバ=スオーはオベール家に仕える従者・侍女をまとめ上げる筆頭執事であった。そのため、要らぬ知恵をオベール家の一人娘に吹き込んだやからを注意する立場にあるのだ。彼は武人であると同時に執事としての仕事にも忠実な男であった。

「さすがローズマリー殿でもうすな……。ごほん。さて……、その火の国:イズモの若い男女は、婚約をして、誓約を交わしたのでもうすが、その誓約が制約となり、接吻せっぷんが出来ない間柄になってしまったのでもうす」

「ほほー。それは難儀だねー? わたしなら、好きな男性とキスできないのは、つらいかもー?」

 少女の言いに、ヌレバは思わず、ガハハッ! と笑ってしまう。

「まだ6歳だというのに、ローズマリー殿はませているでもうすな? しかし、誓約は絶対なのでもうす。もし、それを破れば、最悪、婚約を破棄されてしまい、さらにはヤオヨロズ=ゴッドから『罰』を受けてしまうのでもうす」

「それは怖いなー。ヤオヨロズ=ゴッドって、融通が利かなすぎじゃないのー? 若い男女がキスしたがるのは仕方が無いって、チワさんが言っていたよー?」

(チワ=ワコール! お前かっ! 侍女たちをまとめ上げる役目にありながら、何をローズマリー殿に吹き込んでいるのでもうすかっ! あとできつく説教するのでもうす!)

「あっ。口が滑っちゃったー。チワさんが特にヌレバには言わないように。あのヒトは、そんな経験ありませんのでってー」

 少女の言いにヌレバはビキッ! とこめかみに青筋を立ててしまう。しかし、眼の前の少女を怖がらせてはならぬと、顔面の筋肉を操作し、顔を若干、引きつらせながらも努めて笑顔を作り出す。そして、ごほんと一度、咳払いをし

「ま、まあ、婚約時に誓約を交わすのは互いに責任をしっかりと取らせる意味があるのでもうすよ。神たちも心苦しいのでもうす。この帝国を守ってくれているヤオヨロズ=ゴッドたちは、帝国に住む民を愛しているのでもうす。そんな神たちが民に『罰』を与えるのは、神たちも嫌なのでもうす」

「ふーーーん。神様たちも大変なんだねー? もし、わたしが誓約を交わした時に、制約でキスを禁止しても、見逃してほしいところかなー?」

「それは無理でもうすな。ヒトが交わす『誓約と制約』は同時に『神とヒトとの約束』でもあるのでもうす。ローズマリー殿がもし、婚約中に相手の殿方とキスをしたいのであれば、『誓約と制約』の内容には十分に気をつけることでもうす」

 ヌレバの言いに、はーーーい! と元気よく応える少女であった。その色よい返事にヌレバはうんうんと満足気にうなずくのであった。

「ところで、そのイズモに住む若い男女はどうなったわけー?」

「さあ、どうなったのでもうすかなあ? まあ、我輩がこの世に生まれている以上、『誓約と制約』をきっちり守ったのではないのか? と想像するのでもうす」

「なんだー。ヌレバのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの話なんだねー? ロマンチックでもなんでもないじゃないのよー!」

「ガーハハッ! バレてしまったのでもうす。さて、そろそろ寝ないと、ローズマリー殿の母上が寝室に怒鳴りこんでくるのでもうすよ?」

 ヌレバがそう言うと、うげーーーとあからさまに嫌そうな顔をする少女である。6歳児にとって、夜21時就寝は遅いくらいだ。なかなか寝付かないローズマリーの身を心配して、奥方のオルタンシアが策を講じ、その結果がヌレバのお伽噺をローズマリーに子守歌として聞かせることになったのだ。

「ママが怒鳴り込んできたら大変だから、そろそろ寝ることにするー……。ヌレバ。わたしが寝るまで手を握っててねー?」

「わかったのでもうす。ローズマリー殿が怖い夢を見たら、すぐに起こすのでもうす。だから、安心して眠ってほしいのでもうす」

 少女は右手をヌレバに握ってもらい、そっと眼を閉じる。そして5分も経たない内にクークーと寝息を立ててスヤスヤと眠りにつくのであった。そんな少女の顔にヌレバは優しげな視線を送る。

「難儀な少女でもうすな……。我輩も幼き頃は、意味不明な恐ろしい夢を見たものでもうすが、ローズマリー殿は1カ月前から形容しがたい怪物に襲われる夢を見るようになったと言っていたのでもうす。我輩が側に居るから安心するのでもうすよ? 我輩がローズマリー殿の夢の中に入って、その怪物を退治してやるのでもうす」
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