【完結】婚約破棄された悪役令嬢は童貞公爵様の恋愛指南役となる

氷 豹人

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思い迷う夕暮れ

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 サーフェスがわざわざ炊事場に来た意味がわからない。
 結局のところ彼は、水差しを寝室に持って来るようにとマーレイに頼んだ。
 彼のおかしな行為は、熱に浮かされていた一時の後遺症だったのだと、マーレイの中で結論づけた。
 およそ、ロマンス小説の夢でも見て、頭の中がお花畑のまま、ふらふら屋敷を徘徊していたのだろう。
 たまたまいたマーレイを、ロマンスの相手役に姿を重ねただけ。
 深い意味はない。
 そうでなければ、素面であのような臭い台詞など吐けるわけがない。
 マーレイは耳朶の白珊瑚を指先でいじる。
 まるで恋愛小説のワンシーンのようだった。
 果てしなく違和感しか湧かない行為ではあるものの、未だにチリチリと耳朶が熱く燃えている。


「駄目だわ」
 マーレイは不安いっぱいに独りごちた。
 盆を運んで来たものの、寝室のドアをノックする気にはなれず、廊下を行ったり来たりを繰り返して靴底を擦り減らした。
 従業員の誰かに見られでもしたら、きっとマーレイの気が狂ってしまったのだろうと、早とちりされたはずだ。
 幸いにも午後五時に終礼となり、六時の今は誰の姿もない。
 ケアランはビスケットとチョコレート、それからホットミルクといった軽い夕食を取って、今は早々と客間の自分の布団に入ってしまった。
「お嬢様。ケアランは今夜は早く寝ますからね」
 などと、宣告までして。
 今夜、サーフェスに夜這いをしろ。
 私は何も見ていない。聞いていない。
 ケアランは口には出さず、そう背中を押してきたのだ。
 サーフェスとの最後の思い出のために。
 マーレイの初恋を締め括るために。
「くれぐれもお立場をお忘れないように」
 避妊を忘れないようにと、釘を刺して。
 そうやってケアランに煽られたものの、十回目の往復を越えても、まだ決心はつかない。
 夜這いをかけろとしても、まだ夕方だ。
 いや、そんなことより、サーフェスは自分を抱く気すら起きない。
 彼の心はジゼルにしかない。
 何があろうとジゼルへの愛を貫くと決めたのだ。
 挫けそうになりながら、マーレイはウロウロとしている。
 どんどん時間が迫ってきている。
 恋愛指南など出来っこない処女であったと、明るみになってしまった。そんな女など、最早、用済み。さっさと立ち去らなければ。
 これが彼との最後だ。
 明日、朝一番に公爵邸を発つ段取りをつけた。
 ハンスは何か物言いたげに顔をしかめていたものの、了承してくれた。
 愚図愚図しているうちに、水差しの表面に露が浮いてきてしまっている。
「……迷っているヒマはないわ」
 マーレイは大きく息を吸うと、一旦、止めた。
 今夜が最後だ。
 長く長く息を吐き出す。
 マーレイは思い切ってドアをノックした。
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