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キスはお断り
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イザベラは自分の耳がうまく機能していないのかと疑った。
子爵たるもの、このような愚かな閃きを堂々と口にするばずがない。
「な、何を仰ったのかしら? 」
戦慄きを抑えようにも無理だ。動揺はしっかり声に出てしまっている。
ルミナスは内緒話をするように、イザベラの耳に口を近づけて、低音でその鼓膜を揺する。
「だから、私にキスをするんだよ」
イザベラの希望は砕かれた。
「君、物欲しそうな目でいつも私の唇を凝視してくるだろ」
「何ですって? 」
「言い合いの最中、いつも、唇から目を離さないじゃないか」
「とんだ自惚れ野郎ですね」
「反発しているのは、本心を誤魔化すためか? 」
「都合の良い解釈ですこと」
ルミナスの胸板を両手でつく。鍛えられたルミナスの胸筋は硬く、びくともしない。
「呆れて物も言えないわ。馬鹿馬鹿しい」
このままでは埒が開かない。
会話の幕引きは自分だと判断する。
「返してください。アリアの勉強を見なくちゃ」
「なら、とっとと私にキスしたまえ」
ルミナスは譲らない。
ルビー色の真っ赤な瞳が、チリチリと燃えているような錯覚。
その瞳の中に己の姿を見て、イザベラはビクッと痙攣した。
「……正気? 」
「勿論」
心なしかルミナスの声が一オクターブ低い。
「酔っ払いになんか付き合っていられないわ」
このままでは、本当にキスされかねない。
酒で理性を失った愚か者は、何を仕出かすかわからない。巻き込まれるのは御免だ。
イザベラはルミナスの壁からするりと抜け出すと、速足で扉へと向かった。
ドアノブに手をかけたとき、生温かい熱が被さる。ルミナスの大きな手がイザベラの手を包み込んでいた。
「眼鏡は諦めるのかい? 」
男性に肌を触らせるなんて、実に十年ぶりだ。面接での握手は、あまりにも頭に血が昇り、冷静さを失った結果だから、カウントしない。
「か、買い直します」
免疫のない熱に、頭がくらくらしてしまう。このままでは倒れてしまいそう。さっさと自室に引っ込んでしまうに限る。
イザベラはガチャガチャとドアノブを前後させた。何故か鍵がかけられている。
「おい、待て。ノブが壊れるだろう」
イザベラは聞かない。
先程よりもさらに力を込めて、ノブを引っ張る。開かないなら、鍵を壊すまでだ。
「待てと言っているだろう」
ルミナスの命令に真っ向から背くイザベラに、いい加減にイライラを募らせたのだろう。
「ミス・シュウェーター」
我慢の限界に来ていたルミナスは、口中で何事か罵ると、勢いよくイザベラを引っ張り、体の向きを返させる。
贅肉のついていないほっそりした体は、おもしろいくらいクルリと反転し、至近距離で視線がぶつかった。
イザベラの喉が上下する。
子爵に雇用されて間もなく一年。
この男の真剣な眼差しを目にしたのは、これが初めてだったから。
いつものイザベラならすぐさまこの愚かな行為に対処していたはずだが、何故か今は金縛りにあってしまったように動けない。もしや子爵は魔法使いではあるまいか。そんな馬鹿馬鹿しい考えが過ぎったときだ。
唇に得体の知れない柔らかさが密着した。
引き結びを割り、火傷しそうなくらい熱くてぬるぬるしたものが、口内に侵入する。その正体不明の異物は縦横無尽に粘膜を蹂躙し、歯の裏を舐め、唾液を吸い上げ、好き勝手振る舞った。
苦味のあるワインの名残を乗せたその侵入物を、もっと味わってみたい。柔らかさを共有したい。
イザベラの好奇心が沸き立つ。
イザベラは本能に従い、その侵入物に舌を絡めてみた。
一瞬、ビクッとその侵入物が強張ったものの、すぐさま柔らかさを取り戻し、イザベラの舌に纏いつく。
ぴちゃぴちゃと次第に大きくなっていく水音。時折混じる吐息。侵入物との絡みはさらに激しく、イザベラの舌が別の個体になってしまったような感覚。
えもいわれぬ心地良さ。
それがルミナスにもたらされたと知ったのは、彼が一旦顔を離し、ぬらぬらと光る唇を舌舐めずりしたときだ。
キスされた!
本からでしか知識を得ていないから、イザベラがそのことを理解するのに、かなりの間を要した。
「どうだい? 本だけでは得られない知識だろう? 」
丸きり諭すような言い方。己の経験豊富さを誇示している。
たちまちイザベラは陶然とした夢から、生々しい現実に引き戻された。
子爵とキスしてしまった!
否定しようにも、舌先に残る感覚はどうあっても現実的だ。
イザベラは手の甲で唇を拭いながら、これでもかとルミナスを睨みつける。
「放蕩者だなんて未熟な若者の呼び方も、今のうちよ」
「何だと? 」
「そのうち不品行な中年にピッタリの、好色漢て呼ばれるから」
酔っ払いの戯れにまんまと嵌まってしまったことが悔しい。
動揺するイザベラとは裏腹に、ルミナスは自分を見失いはしない。余裕綽々で、イザベラの睨みをかわす。
「成程。覚えておくよ」
扉の鍵が外すと、ルミナスは「どうぞ」とエスコートした。
子爵たるもの、このような愚かな閃きを堂々と口にするばずがない。
「な、何を仰ったのかしら? 」
戦慄きを抑えようにも無理だ。動揺はしっかり声に出てしまっている。
ルミナスは内緒話をするように、イザベラの耳に口を近づけて、低音でその鼓膜を揺する。
「だから、私にキスをするんだよ」
イザベラの希望は砕かれた。
「君、物欲しそうな目でいつも私の唇を凝視してくるだろ」
「何ですって? 」
「言い合いの最中、いつも、唇から目を離さないじゃないか」
「とんだ自惚れ野郎ですね」
「反発しているのは、本心を誤魔化すためか? 」
「都合の良い解釈ですこと」
ルミナスの胸板を両手でつく。鍛えられたルミナスの胸筋は硬く、びくともしない。
「呆れて物も言えないわ。馬鹿馬鹿しい」
このままでは埒が開かない。
会話の幕引きは自分だと判断する。
「返してください。アリアの勉強を見なくちゃ」
「なら、とっとと私にキスしたまえ」
ルミナスは譲らない。
ルビー色の真っ赤な瞳が、チリチリと燃えているような錯覚。
その瞳の中に己の姿を見て、イザベラはビクッと痙攣した。
「……正気? 」
「勿論」
心なしかルミナスの声が一オクターブ低い。
「酔っ払いになんか付き合っていられないわ」
このままでは、本当にキスされかねない。
酒で理性を失った愚か者は、何を仕出かすかわからない。巻き込まれるのは御免だ。
イザベラはルミナスの壁からするりと抜け出すと、速足で扉へと向かった。
ドアノブに手をかけたとき、生温かい熱が被さる。ルミナスの大きな手がイザベラの手を包み込んでいた。
「眼鏡は諦めるのかい? 」
男性に肌を触らせるなんて、実に十年ぶりだ。面接での握手は、あまりにも頭に血が昇り、冷静さを失った結果だから、カウントしない。
「か、買い直します」
免疫のない熱に、頭がくらくらしてしまう。このままでは倒れてしまいそう。さっさと自室に引っ込んでしまうに限る。
イザベラはガチャガチャとドアノブを前後させた。何故か鍵がかけられている。
「おい、待て。ノブが壊れるだろう」
イザベラは聞かない。
先程よりもさらに力を込めて、ノブを引っ張る。開かないなら、鍵を壊すまでだ。
「待てと言っているだろう」
ルミナスの命令に真っ向から背くイザベラに、いい加減にイライラを募らせたのだろう。
「ミス・シュウェーター」
我慢の限界に来ていたルミナスは、口中で何事か罵ると、勢いよくイザベラを引っ張り、体の向きを返させる。
贅肉のついていないほっそりした体は、おもしろいくらいクルリと反転し、至近距離で視線がぶつかった。
イザベラの喉が上下する。
子爵に雇用されて間もなく一年。
この男の真剣な眼差しを目にしたのは、これが初めてだったから。
いつものイザベラならすぐさまこの愚かな行為に対処していたはずだが、何故か今は金縛りにあってしまったように動けない。もしや子爵は魔法使いではあるまいか。そんな馬鹿馬鹿しい考えが過ぎったときだ。
唇に得体の知れない柔らかさが密着した。
引き結びを割り、火傷しそうなくらい熱くてぬるぬるしたものが、口内に侵入する。その正体不明の異物は縦横無尽に粘膜を蹂躙し、歯の裏を舐め、唾液を吸い上げ、好き勝手振る舞った。
苦味のあるワインの名残を乗せたその侵入物を、もっと味わってみたい。柔らかさを共有したい。
イザベラの好奇心が沸き立つ。
イザベラは本能に従い、その侵入物に舌を絡めてみた。
一瞬、ビクッとその侵入物が強張ったものの、すぐさま柔らかさを取り戻し、イザベラの舌に纏いつく。
ぴちゃぴちゃと次第に大きくなっていく水音。時折混じる吐息。侵入物との絡みはさらに激しく、イザベラの舌が別の個体になってしまったような感覚。
えもいわれぬ心地良さ。
それがルミナスにもたらされたと知ったのは、彼が一旦顔を離し、ぬらぬらと光る唇を舌舐めずりしたときだ。
キスされた!
本からでしか知識を得ていないから、イザベラがそのことを理解するのに、かなりの間を要した。
「どうだい? 本だけでは得られない知識だろう? 」
丸きり諭すような言い方。己の経験豊富さを誇示している。
たちまちイザベラは陶然とした夢から、生々しい現実に引き戻された。
子爵とキスしてしまった!
否定しようにも、舌先に残る感覚はどうあっても現実的だ。
イザベラは手の甲で唇を拭いながら、これでもかとルミナスを睨みつける。
「放蕩者だなんて未熟な若者の呼び方も、今のうちよ」
「何だと? 」
「そのうち不品行な中年にピッタリの、好色漢て呼ばれるから」
酔っ払いの戯れにまんまと嵌まってしまったことが悔しい。
動揺するイザベラとは裏腹に、ルミナスは自分を見失いはしない。余裕綽々で、イザベラの睨みをかわす。
「成程。覚えておくよ」
扉の鍵が外すと、ルミナスは「どうぞ」とエスコートした。
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