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子爵様からのお誘い
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アリアの部屋に戻って来たら、心配そうな今にも泣き出しそうな顔が待ち受けていた。
ちくり、とイザベラの心を棘が刺す。
「酔っ払い相手に何もされなかった? 」
またしてもイザベラの胸が痛んだ。
「え、ええ。何も問題なかったわ」
問題なら、ありありだ。
憎たらしい子爵に易々と唇を許し、あろうことか自分も醸し出す雰囲気に飲み込まれてしまったのだから。
男性に対する免疫がないのも困りものだ。つくづく自分の経験のなさに呆れ、イザベラはこっそり溜め息をつく。ルミナスの友人のフィオナまでとはいかないが、あれくらい男性に負けず劣らずの余裕があれば。
「あら、イザベラ。眼鏡はどうしたの? 」
アリアの指摘に、ハッととイザベラは両手で顔を覆った。
キスに夢中になるあまり、本来の目的を失ってしまっていた。
今更、取り戻しに行くわけにもいかない。憎々しいルミナスに、今しがたの出来事をほじくり返されてしまったらと思うと。ニタニタ笑いが甦る。絶対、今は駄目だ。今晩中に問答を想定して、明日の朝にそつなく振る舞えるように整えた方が得策だ。
悶々とするイザベラを横目して、察しの良い齢八歳の少女は、しっかり空気を読んだ。それきり眼鏡の件は持ち出さず、再び書取りを始める。
ドアをノックされたのは、そんなときだ。
「イザベラ様」
レディースメイドの声だ。アリアの身の回りを専門とするメイド。勉強中は用事を控えるよう言いつけてあったのに。レディースメイドは、屋敷の使用人の中でも上位におり、場をよく弁え、他の使用人とは一線を画すほど出来た者でしかなれない。
その彼女が、自ら言いつけを破るとは。
「何事ですか? 」
只事ではないと察して、すぐさまドアを開ける。
途端にヒッとイザベラは退いた。
ほうれい線の目立つレディースメイドの真後ろには、白々しいくらいに笑顔のルミナスが控えていたからだ。
「私が呼んでも、君は理由をつけてドアを開けてくれないだろう? 」
レディースメイドは申し訳なさそうにイザベラに一礼すると、そそくさとその場を去る。
屋敷の頂点に位置する者に命じられれば、レディースメイドも従わないわけにはいくまい。
ルミナスの読み通り、彼自身がドアをノックすれば、間違いなくイザベラは開けなかった。むしろ、鍵さえかけた。
彼の方が上手だ。
「何か御用でしょうか? 」
まんまと罠にかかったイザベラは、悔し紛れに早口で問いかけた。
「忘れ物だよ」
言いながらイザベラに眼鏡をかける。
耳朶にルミナスの指先が触れ、カッと全身の血が逆流した。広間での情熱的にキスを交わした姿が脳内でいっぱいになる。
「で、では。失礼します」
ルミナスに赤面を詰られる前にさっさと引っ込んでしまおう。
が、閉めかけたドアの隙間に素早く足を入れたルミナスに、阻止されてしまった。
「まだ話は終わっていないよ」
不気味なくらいの笑顔に、イザベラの嫌な予感が働く。
「君、パノラマ館に行ったことはあるかい? 」
「パノラマ館? 」
寄宿学校で勤めていた際に、誰とは言わずその単語を聞かされたことがあったかも知れない。果たしてそれが何であるかはわからないが。
「知らないのか」
「申し訳ありません。生憎と、今まで俗世と離れていたもので」
嫌味ったらしい返答にも、ルミナスは笑顔を崩さない。むしろ、どことなくうれしそうだ。
「丁度良かった。チケットを手に入れたんだ。明日、行ってみないかい? 」
紙片を顔の前でひらひらさせる。
「いえ。私は」
「さっきのお詫びだよ」
「ですから私は」
「命令だよ。ミス・シュウェーター」
有無を言わさぬ声は、使用人を一発で黙らせる強さを持っている。例に漏れず、イザベラも口を引き結ぶしかなかった。
「私は遠慮しておくわ」
真後ろから口を挟んだアリアは、意味ありげにルミナスにウィンクした。
「何故? アリア? 」
「だって明日、読んでしまいたい本があるの。それにパノラマ館は去年三度も行ったから。もう良いわ」
「そんな……」
アリアがいれば、どうにか平静は保たれる。そう考えていたイザベラは、絶望感に苛まれた。
ルミナスと二人きりなんて、ぞっとする。
ルミナスは目を輝かせ、幾分頬を紅潮させて、アリアに頷き返した。
何やら目だけで親子の会話が始まっているようだ。
イザベラはそんなことに構っていられず、呆然とその場に立ち竦んだ。
ちくり、とイザベラの心を棘が刺す。
「酔っ払い相手に何もされなかった? 」
またしてもイザベラの胸が痛んだ。
「え、ええ。何も問題なかったわ」
問題なら、ありありだ。
憎たらしい子爵に易々と唇を許し、あろうことか自分も醸し出す雰囲気に飲み込まれてしまったのだから。
男性に対する免疫がないのも困りものだ。つくづく自分の経験のなさに呆れ、イザベラはこっそり溜め息をつく。ルミナスの友人のフィオナまでとはいかないが、あれくらい男性に負けず劣らずの余裕があれば。
「あら、イザベラ。眼鏡はどうしたの? 」
アリアの指摘に、ハッととイザベラは両手で顔を覆った。
キスに夢中になるあまり、本来の目的を失ってしまっていた。
今更、取り戻しに行くわけにもいかない。憎々しいルミナスに、今しがたの出来事をほじくり返されてしまったらと思うと。ニタニタ笑いが甦る。絶対、今は駄目だ。今晩中に問答を想定して、明日の朝にそつなく振る舞えるように整えた方が得策だ。
悶々とするイザベラを横目して、察しの良い齢八歳の少女は、しっかり空気を読んだ。それきり眼鏡の件は持ち出さず、再び書取りを始める。
ドアをノックされたのは、そんなときだ。
「イザベラ様」
レディースメイドの声だ。アリアの身の回りを専門とするメイド。勉強中は用事を控えるよう言いつけてあったのに。レディースメイドは、屋敷の使用人の中でも上位におり、場をよく弁え、他の使用人とは一線を画すほど出来た者でしかなれない。
その彼女が、自ら言いつけを破るとは。
「何事ですか? 」
只事ではないと察して、すぐさまドアを開ける。
途端にヒッとイザベラは退いた。
ほうれい線の目立つレディースメイドの真後ろには、白々しいくらいに笑顔のルミナスが控えていたからだ。
「私が呼んでも、君は理由をつけてドアを開けてくれないだろう? 」
レディースメイドは申し訳なさそうにイザベラに一礼すると、そそくさとその場を去る。
屋敷の頂点に位置する者に命じられれば、レディースメイドも従わないわけにはいくまい。
ルミナスの読み通り、彼自身がドアをノックすれば、間違いなくイザベラは開けなかった。むしろ、鍵さえかけた。
彼の方が上手だ。
「何か御用でしょうか? 」
まんまと罠にかかったイザベラは、悔し紛れに早口で問いかけた。
「忘れ物だよ」
言いながらイザベラに眼鏡をかける。
耳朶にルミナスの指先が触れ、カッと全身の血が逆流した。広間での情熱的にキスを交わした姿が脳内でいっぱいになる。
「で、では。失礼します」
ルミナスに赤面を詰られる前にさっさと引っ込んでしまおう。
が、閉めかけたドアの隙間に素早く足を入れたルミナスに、阻止されてしまった。
「まだ話は終わっていないよ」
不気味なくらいの笑顔に、イザベラの嫌な予感が働く。
「君、パノラマ館に行ったことはあるかい? 」
「パノラマ館? 」
寄宿学校で勤めていた際に、誰とは言わずその単語を聞かされたことがあったかも知れない。果たしてそれが何であるかはわからないが。
「知らないのか」
「申し訳ありません。生憎と、今まで俗世と離れていたもので」
嫌味ったらしい返答にも、ルミナスは笑顔を崩さない。むしろ、どことなくうれしそうだ。
「丁度良かった。チケットを手に入れたんだ。明日、行ってみないかい? 」
紙片を顔の前でひらひらさせる。
「いえ。私は」
「さっきのお詫びだよ」
「ですから私は」
「命令だよ。ミス・シュウェーター」
有無を言わさぬ声は、使用人を一発で黙らせる強さを持っている。例に漏れず、イザベラも口を引き結ぶしかなかった。
「私は遠慮しておくわ」
真後ろから口を挟んだアリアは、意味ありげにルミナスにウィンクした。
「何故? アリア? 」
「だって明日、読んでしまいたい本があるの。それにパノラマ館は去年三度も行ったから。もう良いわ」
「そんな……」
アリアがいれば、どうにか平静は保たれる。そう考えていたイザベラは、絶望感に苛まれた。
ルミナスと二人きりなんて、ぞっとする。
ルミナスは目を輝かせ、幾分頬を紅潮させて、アリアに頷き返した。
何やら目だけで親子の会話が始まっているようだ。
イザベラはそんなことに構っていられず、呆然とその場に立ち竦んだ。
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