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第一章

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 間の悪い時というものは、確かにある。
 吉森の場合、まさしく今だ。
 森雪の部屋から母屋への渡り廊下をこそこそと歩いていると、目の前に現れたのは、妹の香都子かつこだった。
 森雪の実の妹で、今年で二十歳となる。
 女学校を優秀な成績で卒業した才女だが、職業婦人の道にさっさと見切りをつけ、現在は家業に携わり、吉森が店先に出られない際に、客の応対を遣わされている。
「あら、珍しい。今、森雪お兄様の部屋から出てこられましたね」
「き、気のせいだ」
「そうかしら」
 腰の辺りまである艶やかな黒髪。前髪は眉の上で切り揃えられ、透き通るほど澄んだ丸い瞳、木目細かい白い肌と、一見すると日本人形のようだ。
 女学校時代の影響から身につけるのは洋装が多く、今日も鮮やかな深紅のワンピースだ。
 兄の方の森雪も苦手だが、吉森はどうも義理の妹にあたる香都子も好ましくは思えない。
 ふふふ、と意味深な笑い方が癪に障る。
「森雪お兄様には気をつけた方がよろしいですよ。でないと」
「うるさい!」
 皆まで言わせず、怒鳴り声で中断させた。忠告ならとっくに手遅れだ。
「あらあら。もしかすると遅かったかしら」
 まるで見てきたような物言いに、もしや本当に盗み見していたのではあるまいかと疑いを持った。
「あら、まあ。怖い目ですこと」
 ふふふ、と目を細めると、香都子は手にしていた椿の枝を抱え直す。枝の先には白い花弁が開いている。部屋に引き籠る兄の様子を伺うのが、香都子の日課だった。

 全国的に知られた薬の町は、そもそも寛永の時分に豪商が薬種商を開いたのが始まりで、江戸時代に将軍のお墨付きをもらったことで発展を極め、明治以降も薬の製造や卸し、店舗が集まって、昭和になった現在に至る。
 石造りや煉瓦造り、コンクリート製のビルが立ち並ぶ近代的な建物群を過ぎ、車で走ること三十分。町は一気に様変わりする。
 白漆喰の塗り壁が延々と続き、格子塀の奥屋敷が立ち並ぶ、昔ながらの商家だ。瓦屋根の上には仰々しい看板が掛かって、どの店も薬の屋号だ。
 辰川清右衛門が開発した王宜丸によって、一代で大きく財を成した辰屋清春堂もその内の一つである。
 徳川の五代目の殿様の頃より細々とやっていた家業を大きく変えた滋養強壮の秘薬、王宜丸の配合を知るのは、定められた者にしか許されず、それを引き継いだのが吉森であり、即ち、当主として認められたことを意味する。
 それによって、誰も吉森に逆らえなくなった。
 丁稚が店の前に水を撒いて土間からの土埃を掃き出す頃、吉森がまず取りかかる仕事が、この丸薬調合である。
 階段を昇った右手の部屋に、擦り硝子を嵌め込んだ調合室が設けられている。
 当主以外の立ち入りを禁じられたその部屋の内鍵を掛けるなり、丸い輪に繋がれた数多の鍵の束を机に放り投げると、左手にある押し入れの扉を開けた。
 二段あるうちの下の、手前にある座布団やら、ばらばらに切断した人体模型やらを一旦外に出すと、最奥の麻袋を引き摺り出した。
 きつく縛った紐を解く。
 吉森はそこから黒い丸薬を掬った。袋の中身は、半分以下になっている。
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