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番狂せの恋人
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ファーストキスを奪った憎たらしい男なんて、さっさと忘れるに限る。
あれは事故だ。
夢だ。
だから自分の初めてのキスはまだ奪われてはいない。
記憶から忌々しい出来事がようやく抹消されたのは、ついに恋人をお披露目する夜のことだった。
アニストン邸は、隣国との境界線すれすれに位置する、貴族の屋敷が集まった一角にある。
上流貴族らが中央の広大な敷地を陣取っているから、身分の低い者らは端へと追いやられていく。自然の理だ。
赤煉瓦の積まれたアニストン邸は、何代にも渡って受け継がれてきたのだが、あまり手入れはなされず、窓枠が今にも外れそうだし、屋根は剥げているし、ところどころ壁はひび割れし、薄汚れが目立つ。掃除も行き届かず、蜘蛛の巣まで。アニストン家の経済状況が顕著に表れていた。
そんなアニストン邸の門前に、三頭だての豪奢な箱馬車が停止した。
御者が身につける衣装も仕立て良く、立派な刺繍が施されている。
漆塗りの海老茶色の箱に、金の細工が装飾されている。馬の毛並みはいづれも艶々で、筋肉が素晴らしい。アニストンの屋敷には場違いな、いかにも上流の貴族が使用する馬車。
「き、来たわ」
ハラハラしながら待っていたマチルダは、約束の時間きっかりに到着したそれに、胸を撫で下ろすよりも圧倒されて仰け反ってしまった。
自分のうちより階級が上と示したが、これはやり過ぎだ。何事かと、隣家の主人が門の隙間から覗いているではないか。
マチルダはその箱馬車から現れた人物に、ひっくり返りそうになった。
「オ、オルコットさん? どうしてここに? 」
燕尾服を着こなすその姿は、王都で一番の人気を誇る俳優すら及ばない。寝起きでバサバサだった漆黒の髪は、嘘のようにすっきり整えられている。ライオンの顔がついたステッキの、その目玉の部分に嵌め込まれたエメラルドは複雑なカットがなされて、一目で高級な品だとわかる。
うっかり見惚れてしまったが、すぐさま首を振って邪念を散らす。
どうして彼がこの場に現れたのか。
約束していた偽の恋人の姿はない。
ひやり、とマチルダの心が冷えた。
「も、もしかして。急にキャンセルするつもり? 」
彼は何も答えない。
ただ、門の先にある屋敷を見据えている。
「困るわ。今更、別の方なんて手配出来ないでしょう? 」
「君は赤が良く似合うな。豊満な胸を強調するデザインは、まさに妖艶だ」
半泣きになるマチルダには構わず、呑気に彼は感想を述べた。
マチルダは可愛らしいデザインを好むが、別に胸を強調しているわけではない。選んだドレスのどれもに、胸元にリボンやレースがあしらわれているだけだ。
妖艶に思えるのは、母親の家系から受け継いだ豊満な胸と、ほっそりした腰つきのせいだ。それから、ほとんど化粧しなくとも派手さのある目鼻立ちのせい。
この容姿ゆえに、悪役令嬢だなんて不名誉な称号を賜っている。
「オルコットさんてば」
ロイは不気味なくらいの好青年ぶりを発揮して、極上の笑みを寄越してきた。
「ロイ、だよ。マチルダ」
「オルコットさん? 」
「ロイ」
「ロイさん? 一体全体、どうなっているの? 」
「ロイ」
「ロイ。これはどうなっているのかしら? 」
「どうもこうも、依頼を果たしに来たのだよ。お嬢さん」
恭しく一礼する。
「も、もしかして……あなたが、今夜の相手? 」
「やっと察したか? マチルダ? 」
彼はあくまで好青年ぶりを崩さない。
却ってそれがマチルダの怒りに着火する。
「ふ、ふざけないで。何だって、あなたみたいな人が」
「私ほど条件にピッタリ合う男はいない」
マチルダは頭が痛くなり、もう、こめかみを押さえる他ない。
彼に伝えた条件は、ハンサムだったか。第一条件は清潔な男性。
彼は確か、それに関して当てがあると言い切った。
「自分のことをハンサムだなんて。大した自惚れ屋ですこと」
「自分の容貌はちゃんと把握している」
「おまけに自信家」
彼の意見に異論はない。ないが、やはり気に障る。
「私はブライス伯爵家三男で通すから。設定を忘れるなよ」
「ブライス伯爵家、三男ね。了解」
「君のことは、先だっての夜会で、私が一目惚れして口説いたことにしておこう」
「私があなたに一目惚れじゃなくて? 」
「何だと? 」
「い、いいえ。何でもないわ」
マチルダは俯いて、赤らむ顔を誤魔化す。
たとえ演技だろうと、男性から一目惚れだなんて慣れない。しかもこんな格好良い男性から。性格はともかくとして。
「もう一度、キスくらいしておくか? 」
前言撤回。
有頂天になりかけた気分が叩き割られる。
彼とはあくまでビジネスだ。
「こんなときに悪い冗談はよして」
「本気だったんだがな」
残念そうなロイの呟きを、マチルダは聞かないふりでやり過ごした。
「肩の力を抜け。君はこの私を惚れさせた女なんだからな」
「いちいち気に障る言い方ね」
「わざとだ。いつもの調子が出ないようだから」
「いつもの調子って何よ」
「ヒステリックで、自信に溢れて。胸を張って。凛としているだろ」
「まるで、ずっと見ていたような言い方ね」
「不安そうに眦を垂れるな。君らしくないぞ」
「私らしいって何よ。知りもしないくせに」
「気の強さが戻ってきたな。その調子だ」
ロイの笑顔は毒だ。それも、かなり中毒性のある厄介なもの。
マチルダはくらくらする頭がどうにか正気に保てるよう、ずっと心の中で聖書の文言を唱えていた。
あれは事故だ。
夢だ。
だから自分の初めてのキスはまだ奪われてはいない。
記憶から忌々しい出来事がようやく抹消されたのは、ついに恋人をお披露目する夜のことだった。
アニストン邸は、隣国との境界線すれすれに位置する、貴族の屋敷が集まった一角にある。
上流貴族らが中央の広大な敷地を陣取っているから、身分の低い者らは端へと追いやられていく。自然の理だ。
赤煉瓦の積まれたアニストン邸は、何代にも渡って受け継がれてきたのだが、あまり手入れはなされず、窓枠が今にも外れそうだし、屋根は剥げているし、ところどころ壁はひび割れし、薄汚れが目立つ。掃除も行き届かず、蜘蛛の巣まで。アニストン家の経済状況が顕著に表れていた。
そんなアニストン邸の門前に、三頭だての豪奢な箱馬車が停止した。
御者が身につける衣装も仕立て良く、立派な刺繍が施されている。
漆塗りの海老茶色の箱に、金の細工が装飾されている。馬の毛並みはいづれも艶々で、筋肉が素晴らしい。アニストンの屋敷には場違いな、いかにも上流の貴族が使用する馬車。
「き、来たわ」
ハラハラしながら待っていたマチルダは、約束の時間きっかりに到着したそれに、胸を撫で下ろすよりも圧倒されて仰け反ってしまった。
自分のうちより階級が上と示したが、これはやり過ぎだ。何事かと、隣家の主人が門の隙間から覗いているではないか。
マチルダはその箱馬車から現れた人物に、ひっくり返りそうになった。
「オ、オルコットさん? どうしてここに? 」
燕尾服を着こなすその姿は、王都で一番の人気を誇る俳優すら及ばない。寝起きでバサバサだった漆黒の髪は、嘘のようにすっきり整えられている。ライオンの顔がついたステッキの、その目玉の部分に嵌め込まれたエメラルドは複雑なカットがなされて、一目で高級な品だとわかる。
うっかり見惚れてしまったが、すぐさま首を振って邪念を散らす。
どうして彼がこの場に現れたのか。
約束していた偽の恋人の姿はない。
ひやり、とマチルダの心が冷えた。
「も、もしかして。急にキャンセルするつもり? 」
彼は何も答えない。
ただ、門の先にある屋敷を見据えている。
「困るわ。今更、別の方なんて手配出来ないでしょう? 」
「君は赤が良く似合うな。豊満な胸を強調するデザインは、まさに妖艶だ」
半泣きになるマチルダには構わず、呑気に彼は感想を述べた。
マチルダは可愛らしいデザインを好むが、別に胸を強調しているわけではない。選んだドレスのどれもに、胸元にリボンやレースがあしらわれているだけだ。
妖艶に思えるのは、母親の家系から受け継いだ豊満な胸と、ほっそりした腰つきのせいだ。それから、ほとんど化粧しなくとも派手さのある目鼻立ちのせい。
この容姿ゆえに、悪役令嬢だなんて不名誉な称号を賜っている。
「オルコットさんてば」
ロイは不気味なくらいの好青年ぶりを発揮して、極上の笑みを寄越してきた。
「ロイ、だよ。マチルダ」
「オルコットさん? 」
「ロイ」
「ロイさん? 一体全体、どうなっているの? 」
「ロイ」
「ロイ。これはどうなっているのかしら? 」
「どうもこうも、依頼を果たしに来たのだよ。お嬢さん」
恭しく一礼する。
「も、もしかして……あなたが、今夜の相手? 」
「やっと察したか? マチルダ? 」
彼はあくまで好青年ぶりを崩さない。
却ってそれがマチルダの怒りに着火する。
「ふ、ふざけないで。何だって、あなたみたいな人が」
「私ほど条件にピッタリ合う男はいない」
マチルダは頭が痛くなり、もう、こめかみを押さえる他ない。
彼に伝えた条件は、ハンサムだったか。第一条件は清潔な男性。
彼は確か、それに関して当てがあると言い切った。
「自分のことをハンサムだなんて。大した自惚れ屋ですこと」
「自分の容貌はちゃんと把握している」
「おまけに自信家」
彼の意見に異論はない。ないが、やはり気に障る。
「私はブライス伯爵家三男で通すから。設定を忘れるなよ」
「ブライス伯爵家、三男ね。了解」
「君のことは、先だっての夜会で、私が一目惚れして口説いたことにしておこう」
「私があなたに一目惚れじゃなくて? 」
「何だと? 」
「い、いいえ。何でもないわ」
マチルダは俯いて、赤らむ顔を誤魔化す。
たとえ演技だろうと、男性から一目惚れだなんて慣れない。しかもこんな格好良い男性から。性格はともかくとして。
「もう一度、キスくらいしておくか? 」
前言撤回。
有頂天になりかけた気分が叩き割られる。
彼とはあくまでビジネスだ。
「こんなときに悪い冗談はよして」
「本気だったんだがな」
残念そうなロイの呟きを、マチルダは聞かないふりでやり過ごした。
「肩の力を抜け。君はこの私を惚れさせた女なんだからな」
「いちいち気に障る言い方ね」
「わざとだ。いつもの調子が出ないようだから」
「いつもの調子って何よ」
「ヒステリックで、自信に溢れて。胸を張って。凛としているだろ」
「まるで、ずっと見ていたような言い方ね」
「不安そうに眦を垂れるな。君らしくないぞ」
「私らしいって何よ。知りもしないくせに」
「気の強さが戻ってきたな。その調子だ」
ロイの笑顔は毒だ。それも、かなり中毒性のある厄介なもの。
マチルダはくらくらする頭がどうにか正気に保てるよう、ずっと心の中で聖書の文言を唱えていた。
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