65 / 114
ブライス伯爵夫人マチルダ
しおりを挟む
彼の言葉通りにその日のうちに結婚証明書が発行されて、マチルダは「ブライス伯爵夫人」となった。
「急に両親と疎遠になるのも酷というものだから、アニストンに戻って別れの挨拶をすると良い」
前触れもなく親子が離れ離れになるのも可哀想だと思ったのか。渋々を隠せないものの、ロイは提案してきた。
「三日後に必ず迎えに来るからな」
ロイは名残惜しそうに、うなじを甘噛みした。
馴れ親しんだアニストン家は、マチルダにとって今日を境に他所様の屋敷へと変わってしまった。
伯爵家所有の海老茶色をした三頭立ての馬車により戻って来たマチルダを、涙を零して出迎えたのは母だ。
「ああ。何て素晴らしいご縁をいただいたのかしら」
誰しもが目を見張る美女だと言うのに、却ってその美貌が気後れさせ、社交界では男性陣からそっぽ向かれていたマチルダ。彼女の将来にかなり気を揉んでいたが、この日、母の悩みが報われた。
「伯爵から報せを受け取っている。最後くらい羽を伸ばしなさい」
上機嫌の父は、珍しく酔っ払っていた。
貧乏子爵が、財産家で名高いブライス伯爵家と懇意になるのだ。有頂天にならないわけがない。
「伯爵は身一つで来いですって。持参金すら必要ないって。気に入られたものね」
アニストン家で唯一、違った反応を見せたのは、姉のイメルダだ。
純白のウェディングドレスを想起させる蒲公英が銀糸で刺繍されたドレスを身につけ、サラサラした赤い髪も、愛らしい容貌も何ら変わりはないのに。
春の風のような柔らかさはなく、ブリザード並みに凍えた険しさ。隠しもしない。
「あなた、社交界では壁の花が定位置だったじゃない。一体、どうやってあの方に取り入ったのかしら」
不機嫌そのもので問いかけてきた。
「さあさあ、マチルダ。王都からここまで、なかなか距離があったから疲れただろう。ゆっくり休むと良い」
イメルダに渦巻く嫉妬に勘づいた父は、慌てて二人の間に滑り込むと、マチルダの背を撫でながら、未だに残る彼女の自室へと促した。
日和見主義の父。
そもそも、そうやって面倒事を避けているから、姉妹の溝は年を経るごとに深く、取り返しがつかないところまできてしまったのだ。
「まだ何か御用? 」
ノックすらせずにドアを開けたイメルダに、化粧台の鏡越しにマチルダは尋ねた。
「あら。嫁ぐ妹を名残惜しむ姉にその言い草? 」
マチルダの背後で鏡に映るイメルダの顔が、悔しさでくしゃくしゃになる。
夜会での繊細な容貌はどこにも見当たらない。
イメルダはずかずかと大股でマチルダに近寄るなり、彼女のすぐ背後で仁王立ちした。
「さすが、あの女の子供だけのことはあるわ」
甘ったれた裏声ではない。地声は呻くような低さだ。姉のその声を聞いたのは、アンサーがいながら浮気する姉に苦言した際に何事か言い返してきた、実に二年ぶり。
「肉欲丸出しのその大きな胸を見せびらかして、腰を振って、伯爵様に取り入ったんでしょう? 」
「何ですって! 」
「母子で同じじゃない。愚かなお父様は、すっかりその欲に取り込まれて。アンサーもそう。あなたをいつ抱いてやろうかって、常に舌舐めずりしているわ」
「無礼よ! 」
忘れた頃にたまに姉は毒を吐くが、このようにストレートな言い方は、今回が初めて。
「それにアンサー様は心からお姉様を想っているわ」
マチルダは鏡を背にして、イメルダと向き合う。
イメルダはわざとらしく鼻を鳴らした。
「そんなわけないでしょ」
「何故、アンサー様を信じてさしあげないの? 」
今ならわかる。
ロイと出会うきっかけとなった、アンサーから迫られたあの日のことが。
あれは、マチルダを懲らしめてやろうと、イメルダから命じられたということが。
アンサーの言い回しや振る舞いは大仰過ぎて、芝居がかっていた。無理矢理にやらされているのかと違和感を起こすほどに。姉から無茶振りをされていたのだ。
「偉そうに」
イメルダの目つきが変わった。
「私より先に結婚したからって。教育者気取り? 」
「そ、そんなつもりは」
「いつだって、私があなたのことを諭してきたの。あなたより男性にモテるし、可愛らしいし。誰だって、私の言いなり。私は、あなたよりも上なのよ」
薄々とはわかっていたが、姉の本性は凄まじい。儚げな仮面の下にあったのは、女王蜂のような鋭い針。
時折覗かせる鋭さに気付いていながらも、何故、皆んな違和感を抱かないのか。
マチルダはようやく理解する。
違和感を抱いていないのではない。
敢えて目を逸らしていたのだ。
無意識のうちに。
それが女王蜂の魔力。人々をひれ伏させる凶悪な力。
知らないうちにマチルダもその力に屈服させられていた。
「偉そうな振る舞いなんて、よしてちょうだい」
女王蜂は威厳たっぷりに命じると、もうマチルダには見向きもせず、勢いよくドアを閉めた。
「急に両親と疎遠になるのも酷というものだから、アニストンに戻って別れの挨拶をすると良い」
前触れもなく親子が離れ離れになるのも可哀想だと思ったのか。渋々を隠せないものの、ロイは提案してきた。
「三日後に必ず迎えに来るからな」
ロイは名残惜しそうに、うなじを甘噛みした。
馴れ親しんだアニストン家は、マチルダにとって今日を境に他所様の屋敷へと変わってしまった。
伯爵家所有の海老茶色をした三頭立ての馬車により戻って来たマチルダを、涙を零して出迎えたのは母だ。
「ああ。何て素晴らしいご縁をいただいたのかしら」
誰しもが目を見張る美女だと言うのに、却ってその美貌が気後れさせ、社交界では男性陣からそっぽ向かれていたマチルダ。彼女の将来にかなり気を揉んでいたが、この日、母の悩みが報われた。
「伯爵から報せを受け取っている。最後くらい羽を伸ばしなさい」
上機嫌の父は、珍しく酔っ払っていた。
貧乏子爵が、財産家で名高いブライス伯爵家と懇意になるのだ。有頂天にならないわけがない。
「伯爵は身一つで来いですって。持参金すら必要ないって。気に入られたものね」
アニストン家で唯一、違った反応を見せたのは、姉のイメルダだ。
純白のウェディングドレスを想起させる蒲公英が銀糸で刺繍されたドレスを身につけ、サラサラした赤い髪も、愛らしい容貌も何ら変わりはないのに。
春の風のような柔らかさはなく、ブリザード並みに凍えた険しさ。隠しもしない。
「あなた、社交界では壁の花が定位置だったじゃない。一体、どうやってあの方に取り入ったのかしら」
不機嫌そのもので問いかけてきた。
「さあさあ、マチルダ。王都からここまで、なかなか距離があったから疲れただろう。ゆっくり休むと良い」
イメルダに渦巻く嫉妬に勘づいた父は、慌てて二人の間に滑り込むと、マチルダの背を撫でながら、未だに残る彼女の自室へと促した。
日和見主義の父。
そもそも、そうやって面倒事を避けているから、姉妹の溝は年を経るごとに深く、取り返しがつかないところまできてしまったのだ。
「まだ何か御用? 」
ノックすらせずにドアを開けたイメルダに、化粧台の鏡越しにマチルダは尋ねた。
「あら。嫁ぐ妹を名残惜しむ姉にその言い草? 」
マチルダの背後で鏡に映るイメルダの顔が、悔しさでくしゃくしゃになる。
夜会での繊細な容貌はどこにも見当たらない。
イメルダはずかずかと大股でマチルダに近寄るなり、彼女のすぐ背後で仁王立ちした。
「さすが、あの女の子供だけのことはあるわ」
甘ったれた裏声ではない。地声は呻くような低さだ。姉のその声を聞いたのは、アンサーがいながら浮気する姉に苦言した際に何事か言い返してきた、実に二年ぶり。
「肉欲丸出しのその大きな胸を見せびらかして、腰を振って、伯爵様に取り入ったんでしょう? 」
「何ですって! 」
「母子で同じじゃない。愚かなお父様は、すっかりその欲に取り込まれて。アンサーもそう。あなたをいつ抱いてやろうかって、常に舌舐めずりしているわ」
「無礼よ! 」
忘れた頃にたまに姉は毒を吐くが、このようにストレートな言い方は、今回が初めて。
「それにアンサー様は心からお姉様を想っているわ」
マチルダは鏡を背にして、イメルダと向き合う。
イメルダはわざとらしく鼻を鳴らした。
「そんなわけないでしょ」
「何故、アンサー様を信じてさしあげないの? 」
今ならわかる。
ロイと出会うきっかけとなった、アンサーから迫られたあの日のことが。
あれは、マチルダを懲らしめてやろうと、イメルダから命じられたということが。
アンサーの言い回しや振る舞いは大仰過ぎて、芝居がかっていた。無理矢理にやらされているのかと違和感を起こすほどに。姉から無茶振りをされていたのだ。
「偉そうに」
イメルダの目つきが変わった。
「私より先に結婚したからって。教育者気取り? 」
「そ、そんなつもりは」
「いつだって、私があなたのことを諭してきたの。あなたより男性にモテるし、可愛らしいし。誰だって、私の言いなり。私は、あなたよりも上なのよ」
薄々とはわかっていたが、姉の本性は凄まじい。儚げな仮面の下にあったのは、女王蜂のような鋭い針。
時折覗かせる鋭さに気付いていながらも、何故、皆んな違和感を抱かないのか。
マチルダはようやく理解する。
違和感を抱いていないのではない。
敢えて目を逸らしていたのだ。
無意識のうちに。
それが女王蜂の魔力。人々をひれ伏させる凶悪な力。
知らないうちにマチルダもその力に屈服させられていた。
「偉そうな振る舞いなんて、よしてちょうだい」
女王蜂は威厳たっぷりに命じると、もうマチルダには見向きもせず、勢いよくドアを閉めた。
68
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
断罪まであと5秒、今すぐ逆転始めます
山河 枝
ファンタジー
聖女が魔物と戦う乙女ゲーム。その聖女につかみかかったせいで処刑される令嬢アナベルに、転生してしまった。
でも私は知っている。実は、アナベルこそが本物の聖女。
それを証明すれば断罪回避できるはず。
幸い、処刑人が味方になりそうだし。モフモフ精霊たちも慕ってくれる。
チート魔法で魔物たちを一掃して、本物アピールしないと。
処刑5秒前だから、今すぐに!
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
【完結】仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
離婚した彼女は死ぬことにした
はるかわ 美穂
恋愛
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。
もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。
今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、
「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」
返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。
それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。
神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。
大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。
断罪前に“悪役"令嬢は、姿を消した。
パリパリかぷちーの
恋愛
高貴な公爵令嬢ティアラ。
将来の王妃候補とされてきたが、ある日、学園で「悪役令嬢」と呼ばれるようになり、理不尽な噂に追いつめられる。
平民出身のヒロインに嫉妬して、陥れようとしている。
根も葉もない悪評が広まる中、ティアラは学園から姿を消してしまう。
その突然の失踪に、大騒ぎ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる