【完結】華麗なるマチルダの密約

氷 豹人

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ブライス伯爵夫人マチルダ

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 彼の言葉通りにその日のうちに結婚証明書が発行されて、マチルダは「ブライス伯爵夫人」となった。
「急に両親と疎遠になるのも酷というものだから、アニストンに戻って別れの挨拶をすると良い」
 前触れもなく親子が離れ離れになるのも可哀想だと思ったのか。渋々を隠せないものの、ロイは提案してきた。
「三日後に必ず迎えに来るからな」
 ロイは名残惜しそうに、うなじを甘噛みした。


 馴れ親しんだアニストン家は、マチルダにとって今日を境に他所様の屋敷へと変わってしまった。
 伯爵家所有の海老茶色をした三頭立ての馬車により戻って来たマチルダを、涙を零して出迎えたのは母だ。
「ああ。何て素晴らしいご縁をいただいたのかしら」
 誰しもが目を見張る美女だと言うのに、却ってその美貌が気後れさせ、社交界では男性陣からそっぽ向かれていたマチルダ。彼女の将来にかなり気を揉んでいたが、この日、母の悩みが報われた。
「伯爵から報せを受け取っている。最後くらい羽を伸ばしなさい」
 上機嫌の父は、珍しく酔っ払っていた。
 貧乏子爵が、財産家で名高いブライス伯爵家と懇意になるのだ。有頂天にならないわけがない。
「伯爵は身一つで来いですって。持参金すら必要ないって。気に入られたものね」
 アニストン家で唯一、違った反応を見せたのは、姉のイメルダだ。
 純白のウェディングドレスを想起させる蒲公英が銀糸で刺繍されたドレスを身につけ、サラサラした赤い髪も、愛らしい容貌も何ら変わりはないのに。
 春の風のような柔らかさはなく、ブリザード並みに凍えた険しさ。隠しもしない。
「あなた、社交界では壁の花が定位置だったじゃない。一体、どうやってあの方に取り入ったのかしら」
 不機嫌そのもので問いかけてきた。
「さあさあ、マチルダ。王都からここまで、なかなか距離があったから疲れただろう。ゆっくり休むと良い」
 イメルダに渦巻く嫉妬に勘づいた父は、慌てて二人の間に滑り込むと、マチルダの背を撫でながら、未だに残る彼女の自室へと促した。
 日和見主義の父。
 そもそも、そうやって面倒事を避けているから、姉妹の溝は年を経るごとに深く、取り返しがつかないところまできてしまったのだ。
 


「まだ何か御用? 」
 ノックすらせずにドアを開けたイメルダに、化粧台の鏡越しにマチルダは尋ねた。
「あら。嫁ぐ妹を名残惜しむ姉にその言い草? 」
 マチルダの背後で鏡に映るイメルダの顔が、悔しさでくしゃくしゃになる。
 夜会での繊細な容貌はどこにも見当たらない。
 イメルダはずかずかと大股でマチルダに近寄るなり、彼女のすぐ背後で仁王立ちした。
「さすが、あの女の子供だけのことはあるわ」
 甘ったれた裏声ではない。地声は呻くような低さだ。姉のその声を聞いたのは、アンサーがいながら浮気する姉に苦言した際に何事か言い返してきた、実に二年ぶり。
「肉欲丸出しのその大きな胸を見せびらかして、腰を振って、伯爵様に取り入ったんでしょう? 」
「何ですって! 」
「母子で同じじゃない。愚かなお父様は、すっかりその欲に取り込まれて。アンサーもそう。あなたをいつ抱いてやろうかって、常に舌舐めずりしているわ」
「無礼よ! 」
 忘れた頃にたまに姉は毒を吐くが、このようにストレートな言い方は、今回が初めて。
「それにアンサー様は心からお姉様を想っているわ」
 マチルダは鏡を背にして、イメルダと向き合う。
 イメルダはわざとらしく鼻を鳴らした。
「そんなわけないでしょ」
「何故、アンサー様を信じてさしあげないの? 」
 今ならわかる。
 ロイと出会うきっかけとなった、アンサーから迫られたあの日のことが。
 あれは、マチルダを懲らしめてやろうと、イメルダから命じられたということが。
 アンサーの言い回しや振る舞いは大仰過ぎて、芝居がかっていた。無理矢理にやらされているのかと違和感を起こすほどに。姉から無茶振りをされていたのだ。
「偉そうに」
 イメルダの目つきが変わった。
「私より先に結婚したからって。教育者気取り? 」
「そ、そんなつもりは」
「いつだって、私があなたのことを諭してきたの。あなたより男性にモテるし、可愛らしいし。誰だって、私の言いなり。私は、あなたよりも上なのよ」
 薄々とはわかっていたが、姉の本性は凄まじい。儚げな仮面の下にあったのは、女王蜂のような鋭い針。
 時折覗かせる鋭さに気付いていながらも、何故、皆んな違和感を抱かないのか。
 マチルダはようやく理解する。
 違和感を抱いていないのではない。
 敢えて目を逸らしていたのだ。
 無意識のうちに。
 それが女王蜂の魔力。人々をひれ伏させる凶悪な力。
 知らないうちにマチルダもその力に屈服させられていた。
「偉そうな振る舞いなんて、よしてちょうだい」
 女王蜂は威厳たっぷりに命じると、もうマチルダには見向きもせず、勢いよくドアを閉めた。
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