93 / 114
人魚と月
しおりを挟む
イメルダはどこへ消えてしまったのだろう。
女王蜂のように君臨する姉が。
これまでは、ぐらぐらする地面の上で何とか平行を保とうと、お互いに息を潜めながら何とか道を踏み外すことなく、上手くやれていた。
そう思っていたのは、マチルダだけだった。
イメルダにとってマチルダは、幸福だった家族を歪ませた元凶でしかなかったのだ。
イメルダの母が病に侵され、日毎に正気を失くしていくときに、その辛さから逃げた父が愛人との間に設けた子供。
それがマチルダだ。
母が亡くなったときに、待ちかねたように再婚した父。
すでに愛人の腹には生命が宿っていた。
だからこそ、再婚話は異常な速さで進んだ。
マチルダさえいなければ、父娘は身を寄せ合って、亡くした者の傷を埋めるためにじっくりと時間を掛けていたというのに。
父だけが、新たな安らぎを得て、イメルダは取り残された。
イメルダだけが、悲しみに沈んでいる。
女王蜂の毒針はマチルダへ向いた。
マチルダが不細工で根暗で、己を卑下するだけしか脳のない鈍臭い娘だったなら、イメルダは溜飲を下げたかもしれない。
だが、マチルダは美し過ぎた。
どのような嫌がらせさえ、泣き言すら吐かず、毅然と前を向いている。
毒針すら跳ね返すような強さで。
自分が持ち得ない美しさ。
だが、マチルダはそんなイメルダの卑屈に気づかない。
手にした美しさすら、気づいていない。
針の毒は日毎に塗り重ねられていた。
「マチルダ。泣くな」
涙の止まらないマチルダを、ロイはエントランスまで連れて来た。
嫌われているのはわかっていたが、相当に恨まれているなんて。ここ最近で明るみになったイメルダの深淵は、マチルダの精神を大きく揺さぶった。
「私……私……それほどお姉様に恨まれていたのね……」
気に食わない妹に、時折手荒い悪戯を仕掛ける意地悪な姉。それだけではなかった。身近な家令を操り、本気で命を狙うほど、憎まれていたのだ。メイカーの言動で確信した。
嗚咽を漏らすマチルダの肩に手を回したロイは、彼女を己の胸へと引き寄せる。
「マチルダ。この絵を見てみろ」
描かれた人魚の大きな絵へと促す。
「君と出会ってから、画家に描かせたうちの一枚だ」
やはり、モデルはマチルダだった。
ロイはマチルダを想い、何枚も何枚も、画家に描かせた。
「君が人魚なら、私はこの月だ」
海に飛び込もうとする人魚の上空にある銀色の満月が、燦然と彼女を輝かせる。
「いつも君を見ている」
ロイはマチルダの眦に溜まる涙を、唇で掬い取った。
「何があろうと君を守る。そばにいる。君を慈しむ者があることを、忘れないでくれ」
彼なりの慰め。愛の言葉。
マチルダは、じわりじわりと胸が熱くなり、これまでとは違った意味の涙が溢れてきた。
あたたかさで体中が満たされていく。
「ええ。あなた。愛しているわ」
何の飾りもない言葉が零れ落ちる。
「私もだよ。マチルダ」
ロイは満足そうに目を細めると、愛しい妻の唇に自分の唇を重ねた。
女王蜂のように君臨する姉が。
これまでは、ぐらぐらする地面の上で何とか平行を保とうと、お互いに息を潜めながら何とか道を踏み外すことなく、上手くやれていた。
そう思っていたのは、マチルダだけだった。
イメルダにとってマチルダは、幸福だった家族を歪ませた元凶でしかなかったのだ。
イメルダの母が病に侵され、日毎に正気を失くしていくときに、その辛さから逃げた父が愛人との間に設けた子供。
それがマチルダだ。
母が亡くなったときに、待ちかねたように再婚した父。
すでに愛人の腹には生命が宿っていた。
だからこそ、再婚話は異常な速さで進んだ。
マチルダさえいなければ、父娘は身を寄せ合って、亡くした者の傷を埋めるためにじっくりと時間を掛けていたというのに。
父だけが、新たな安らぎを得て、イメルダは取り残された。
イメルダだけが、悲しみに沈んでいる。
女王蜂の毒針はマチルダへ向いた。
マチルダが不細工で根暗で、己を卑下するだけしか脳のない鈍臭い娘だったなら、イメルダは溜飲を下げたかもしれない。
だが、マチルダは美し過ぎた。
どのような嫌がらせさえ、泣き言すら吐かず、毅然と前を向いている。
毒針すら跳ね返すような強さで。
自分が持ち得ない美しさ。
だが、マチルダはそんなイメルダの卑屈に気づかない。
手にした美しさすら、気づいていない。
針の毒は日毎に塗り重ねられていた。
「マチルダ。泣くな」
涙の止まらないマチルダを、ロイはエントランスまで連れて来た。
嫌われているのはわかっていたが、相当に恨まれているなんて。ここ最近で明るみになったイメルダの深淵は、マチルダの精神を大きく揺さぶった。
「私……私……それほどお姉様に恨まれていたのね……」
気に食わない妹に、時折手荒い悪戯を仕掛ける意地悪な姉。それだけではなかった。身近な家令を操り、本気で命を狙うほど、憎まれていたのだ。メイカーの言動で確信した。
嗚咽を漏らすマチルダの肩に手を回したロイは、彼女を己の胸へと引き寄せる。
「マチルダ。この絵を見てみろ」
描かれた人魚の大きな絵へと促す。
「君と出会ってから、画家に描かせたうちの一枚だ」
やはり、モデルはマチルダだった。
ロイはマチルダを想い、何枚も何枚も、画家に描かせた。
「君が人魚なら、私はこの月だ」
海に飛び込もうとする人魚の上空にある銀色の満月が、燦然と彼女を輝かせる。
「いつも君を見ている」
ロイはマチルダの眦に溜まる涙を、唇で掬い取った。
「何があろうと君を守る。そばにいる。君を慈しむ者があることを、忘れないでくれ」
彼なりの慰め。愛の言葉。
マチルダは、じわりじわりと胸が熱くなり、これまでとは違った意味の涙が溢れてきた。
あたたかさで体中が満たされていく。
「ええ。あなた。愛しているわ」
何の飾りもない言葉が零れ落ちる。
「私もだよ。マチルダ」
ロイは満足そうに目を細めると、愛しい妻の唇に自分の唇を重ねた。
65
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
【完結】仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
断罪まであと5秒、今すぐ逆転始めます
山河 枝
ファンタジー
聖女が魔物と戦う乙女ゲーム。その聖女につかみかかったせいで処刑される令嬢アナベルに、転生してしまった。
でも私は知っている。実は、アナベルこそが本物の聖女。
それを証明すれば断罪回避できるはず。
幸い、処刑人が味方になりそうだし。モフモフ精霊たちも慕ってくれる。
チート魔法で魔物たちを一掃して、本物アピールしないと。
処刑5秒前だから、今すぐに!
結婚式に結婚相手の不貞が発覚した花嫁は、義父になるはずだった公爵当主と結ばれる
狭山雪菜
恋愛
アリス・マーフィーは、社交界デビューの時にベネット公爵家から結婚の打診を受けた。
しかし、結婚相手は女にだらしないと有名な次期当主で………
こちらの作品は、「小説家になろう」にも掲載してます。
離婚した彼女は死ぬことにした
はるかわ 美穂
恋愛
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。
もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。
今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、
「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」
返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。
それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。
神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。
大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる