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ちらつく影
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視界の隅を、白い布切れが過った。
「イメルダ! 」
マチルダは咄嗟に叫んだ。
彼女の切れ長の瞳はこれでもかと見開き、瞬きすら忘れ、その場に足裏が固められてしまったかのように身動き一つしなくなった。
「どうした? 」
ロイが不審に目を眇めたとき、マチルダの唇からか細い息が出る。
「い、今。イメルダが」
息に混じった小さな声。
指先が、門扉をさす。
だが、その先にあるのは鋳物製のシンプルな縦線だけの門扉があるだけ。人の姿はない。
「見間違いではないのか? 」
「い、いえ。確かにイメルダが」
マチルダは大きく首を横に振った。
見間違えるはずがない。
純白のドレスはイメルダが好んで着ていた。シンプルな、裾にレースを飾っただけのデザイン。
そして、赤みがかった髪が腰元で揺れた。
背格好もイメルダと同じ。
ほんの一瞬だったため、顔までは確認出来なかったが。
「あっ! 」
マチルダと同じくロイが叫んだ。
「女だ! あれか! 」
ロイの視線の先には、すでに誰の姿もない。
「君はそこで待っていろ! 」
マチルダに指示し、慌てて門の外へと駆ける。
「必ずここへ引き摺り出してやる! 」
「ら、乱暴はしないで! 」
「彼女次第だ! 」
早口で言い捨てるなり、ロイは走り去る女の後ろ姿を追った。
ロイは鍛えているだけあって、足には自信がある。
しかも、相手はドレスを身につけている。
だが、意外にも手こずった。
先を行く女はあらん限りの速さで地面を蹴り、スカートの裾を捲り上げ、ヒールではなくほぼ裸足とも呼べる足指の突き出た薄っぺらい靴を履いている。
女の足だとすぐに追いつくといった油断が、二人の距離を開かせてしまった。
前を走る女は、赤みがかった茶髪で、確かにマチルダの偽の婚約者として挨拶に行った際に会った姉の通りだ。
悪役令嬢に虐げられる、繊細な姉。儚く、庇護欲をそそられる。
だが、今、目の前を走る女には繊細さも庇護欲も、欠片もない。手入れの全くない傷んだ髪を振り乱した、豪快な女。
「待て! 」
ロイがようやく追いついたときには、住宅街から離れ、街までの分岐まで来ていた。鬱蒼とした森を切り開いた、無舗装の砂埃の道だ。
かなりの健脚の持ち主。顔を拝んでやる。
女の肩を掴み、強引に反転させたロイは、ビクリと頬を引き攣らせた。
イメルダではない。
たった一度きり会っただけだが、その女がイメルダではないことは明らかだ。
四十を過ぎたくらいの、皺とシミだらけの顔。何かの薬物の影響か、酷く顔色が黄色掛かり、浮腫んでいる。逆に目は爛々として、ギョロリと今にも落ちてしまいそうだ。
「何者だ? 」
「た、頼まれた。頼まれたんだ。頼まれたんだよ。娘に。あの娘に頼まれた」
呂律が回っていない。薬漬けの割には、体力が異常だ。大概は体力がなく、ぐったりするというのに。新たな薬物でも出回っているのだろうか。
「頼まれた? 誰にだ? 」
ロイが怖い顔で問い詰めたからか、急に女はガタガタ震え始めた。
「知らない。知らない女。手紙を渡した。次は走れ。走れって。金をくれた」
ロイの顔が強張る。
靴磨きの少年が口にしていた、浮浪者の女がこいつか。
「娘とは誰だ! 」
「知らない。知らない女。私と同じ髪の。知らない女」
ぶつぶつと女は繰り返す。もう、自分の世界に閉じこもってしまっている。この先を聞き出すのは難しそうだ。
だがロイは、私と同じ髪、の言葉に引っ掛かりを覚えた。
赤みがかった茶髪。
イメルダの容姿が、ロイの脳裏を過った。
残されたマチルダは、ロイがいなくなってもまだ門扉を見ていた。
ロイに襟首を掴まれながら戻って来るイメルダを想像しながら。
もし姉に再会したら、自分はどのような気持ちになるのだろう。
二十年、姉と接してきた。
腹立たしいことは何度もあったし、泣かされたこともあった。そういえば、姉に対して喜びの感情を持つことは、あまりなかった。いつも、何かと衝突してばかり。
それでも、上手くやっていたつもりだったのに。
あまり楽しい思い出ではないが、彼女との日々が蘇ってくる。
だんだん目頭が熱くなってきた。
「……! 」
いきなり真後ろから、ハンカチーフで口元を覆われた。
硫黄臭のような、鼻の奥に刺激臭が入り込む。
どろりと脳が溶かされたかのように、目の前がくらくらする。
視界が歪む。
反転していく。
彼方で、女のくすくすと企みを秘めた笑い声が響いた。
「イメルダ! 」
マチルダは咄嗟に叫んだ。
彼女の切れ長の瞳はこれでもかと見開き、瞬きすら忘れ、その場に足裏が固められてしまったかのように身動き一つしなくなった。
「どうした? 」
ロイが不審に目を眇めたとき、マチルダの唇からか細い息が出る。
「い、今。イメルダが」
息に混じった小さな声。
指先が、門扉をさす。
だが、その先にあるのは鋳物製のシンプルな縦線だけの門扉があるだけ。人の姿はない。
「見間違いではないのか? 」
「い、いえ。確かにイメルダが」
マチルダは大きく首を横に振った。
見間違えるはずがない。
純白のドレスはイメルダが好んで着ていた。シンプルな、裾にレースを飾っただけのデザイン。
そして、赤みがかった髪が腰元で揺れた。
背格好もイメルダと同じ。
ほんの一瞬だったため、顔までは確認出来なかったが。
「あっ! 」
マチルダと同じくロイが叫んだ。
「女だ! あれか! 」
ロイの視線の先には、すでに誰の姿もない。
「君はそこで待っていろ! 」
マチルダに指示し、慌てて門の外へと駆ける。
「必ずここへ引き摺り出してやる! 」
「ら、乱暴はしないで! 」
「彼女次第だ! 」
早口で言い捨てるなり、ロイは走り去る女の後ろ姿を追った。
ロイは鍛えているだけあって、足には自信がある。
しかも、相手はドレスを身につけている。
だが、意外にも手こずった。
先を行く女はあらん限りの速さで地面を蹴り、スカートの裾を捲り上げ、ヒールではなくほぼ裸足とも呼べる足指の突き出た薄っぺらい靴を履いている。
女の足だとすぐに追いつくといった油断が、二人の距離を開かせてしまった。
前を走る女は、赤みがかった茶髪で、確かにマチルダの偽の婚約者として挨拶に行った際に会った姉の通りだ。
悪役令嬢に虐げられる、繊細な姉。儚く、庇護欲をそそられる。
だが、今、目の前を走る女には繊細さも庇護欲も、欠片もない。手入れの全くない傷んだ髪を振り乱した、豪快な女。
「待て! 」
ロイがようやく追いついたときには、住宅街から離れ、街までの分岐まで来ていた。鬱蒼とした森を切り開いた、無舗装の砂埃の道だ。
かなりの健脚の持ち主。顔を拝んでやる。
女の肩を掴み、強引に反転させたロイは、ビクリと頬を引き攣らせた。
イメルダではない。
たった一度きり会っただけだが、その女がイメルダではないことは明らかだ。
四十を過ぎたくらいの、皺とシミだらけの顔。何かの薬物の影響か、酷く顔色が黄色掛かり、浮腫んでいる。逆に目は爛々として、ギョロリと今にも落ちてしまいそうだ。
「何者だ? 」
「た、頼まれた。頼まれたんだ。頼まれたんだよ。娘に。あの娘に頼まれた」
呂律が回っていない。薬漬けの割には、体力が異常だ。大概は体力がなく、ぐったりするというのに。新たな薬物でも出回っているのだろうか。
「頼まれた? 誰にだ? 」
ロイが怖い顔で問い詰めたからか、急に女はガタガタ震え始めた。
「知らない。知らない女。手紙を渡した。次は走れ。走れって。金をくれた」
ロイの顔が強張る。
靴磨きの少年が口にしていた、浮浪者の女がこいつか。
「娘とは誰だ! 」
「知らない。知らない女。私と同じ髪の。知らない女」
ぶつぶつと女は繰り返す。もう、自分の世界に閉じこもってしまっている。この先を聞き出すのは難しそうだ。
だがロイは、私と同じ髪、の言葉に引っ掛かりを覚えた。
赤みがかった茶髪。
イメルダの容姿が、ロイの脳裏を過った。
残されたマチルダは、ロイがいなくなってもまだ門扉を見ていた。
ロイに襟首を掴まれながら戻って来るイメルダを想像しながら。
もし姉に再会したら、自分はどのような気持ちになるのだろう。
二十年、姉と接してきた。
腹立たしいことは何度もあったし、泣かされたこともあった。そういえば、姉に対して喜びの感情を持つことは、あまりなかった。いつも、何かと衝突してばかり。
それでも、上手くやっていたつもりだったのに。
あまり楽しい思い出ではないが、彼女との日々が蘇ってくる。
だんだん目頭が熱くなってきた。
「……! 」
いきなり真後ろから、ハンカチーフで口元を覆われた。
硫黄臭のような、鼻の奥に刺激臭が入り込む。
どろりと脳が溶かされたかのように、目の前がくらくらする。
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反転していく。
彼方で、女のくすくすと企みを秘めた笑い声が響いた。
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