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闇の底
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頭が痛くてズキズキする。
吐き気もある。
嗅がされた薬品の副作用だ。
マチルダは胃液が迫り上がって喉奥に酸っぱさを感じながら、何とか重い瞼を開けた。
そのときだ。
「随分と立派な奥様の格好をしているじゃない」
どこからともなく、低くくぐもった声が聞こえてきた。
懐かしい地声。ああ、そういえばこんな声だったと、マチルダは認識する。
ここは日の光が入らない、真っ暗な空間だ。
黴臭く、掃除の手が全く入っていない。
ネズミの糞は転がっているし、埃の舞い散り方が半端ではない。靴先を動かせただけで、白い煙のように粒子が舞う。
ごほん、と咳をすれば、さらに粒子が散った。
壁には使い古された農機具が無造作にかけられて、よれよれの長靴が転がっている。穴だらけの麦わら帽子も。
アニストン邸の裏庭にある納屋だ。
旧世紀の遺物が放置され、普段は新築された反対側を使っているから、もう何年と錠前が外されたことはなかったのに。
マチルダはその錠前を誰が破ったのか、声を聞いてすぐに突き止めた。
「あなた、自分の大きい胸に劣等感を抱いていたくせに。なあに、今は? わざと谷間を強調するようなデザインで」
案の定、イメルダが不適な笑みを浮かべながら、ずいと上半身を前に突き出してきた。
マチルダは冷え冷えとした地べたに座り込んだまま、腰を屈めて身を乗り出すイメルダの、詰め物でふんだんに盛っている胸をぼんやりと見つめた。
「伯爵ったら、胸の大きい方が好みなのね」
イメルダは行方をくらませる前と何ら変わりない。ドレスの皺は丁寧にとられているし、髪は艶々。化粧も念入り。おそらく、今までパトロンを渡り歩いていたのだろう。
「いやらしいったら。毎晩、その大きな胸を見せつけて伯爵を誘惑してるんでしょ? 」
イメルダは嫌そうに顔をしかめた。
貞淑な天使の仮面はすっかり外れて、悪魔が剥き出しだ。
だが、マチルダにとって、イメルダが天使だろうが悪魔だろうが、最早、どうでも良い。
ロイを貶める言動は許さない。
「それ以上言うと、本気で怒るわよ」
「あらあら。怖いわあ」
くすくすと鈴を振るようなその笑い方は、皆んなに見せていた天使の方。
「ゆ、行方をくらませていたかと思ったら、こんなことを仕出かして」
いきなり姿を現したかと思えば、悪びれもせずマチルダに薬品を嗅がせ、納屋に拉致した。
「アンサー様も、家令のヴィスコックも、あなたのせいで捕まったのよ」
「そんなこと、私には関係ないわ」
「あ、あなたが命じたのでしょ」
「ヘマをしたのは、向こうよ」
イメルダは片足で床に転がったバケツを蹴ると、壁にぶつける。木製のバケツは繋いだ糸が切れ、バラバラと砕けた。
「それに私は頼んだだけよ。やるかやらないか判断して、実行したのはあいつらよ」
イメルダは、動くたびに白く舞う粒子を目を細めて眺めている。
「こ、この人でなし! 」
マチルダはキーッと歯を鳴らして憤怒する。
イメルダに心酔する男らは、彼女のこんな言葉を知れば、どれほど絶望するだろう。
男らの心を知った上で都合良く使い、不必要となればあっさり見捨てる。
すでにイメルダは悪魔に成り果てた。
「何とでも言いなさいな。今のうちにね」
悪魔は酷薄な笑みを浮かべた頬を思い切り歪めた。
吐き気もある。
嗅がされた薬品の副作用だ。
マチルダは胃液が迫り上がって喉奥に酸っぱさを感じながら、何とか重い瞼を開けた。
そのときだ。
「随分と立派な奥様の格好をしているじゃない」
どこからともなく、低くくぐもった声が聞こえてきた。
懐かしい地声。ああ、そういえばこんな声だったと、マチルダは認識する。
ここは日の光が入らない、真っ暗な空間だ。
黴臭く、掃除の手が全く入っていない。
ネズミの糞は転がっているし、埃の舞い散り方が半端ではない。靴先を動かせただけで、白い煙のように粒子が舞う。
ごほん、と咳をすれば、さらに粒子が散った。
壁には使い古された農機具が無造作にかけられて、よれよれの長靴が転がっている。穴だらけの麦わら帽子も。
アニストン邸の裏庭にある納屋だ。
旧世紀の遺物が放置され、普段は新築された反対側を使っているから、もう何年と錠前が外されたことはなかったのに。
マチルダはその錠前を誰が破ったのか、声を聞いてすぐに突き止めた。
「あなた、自分の大きい胸に劣等感を抱いていたくせに。なあに、今は? わざと谷間を強調するようなデザインで」
案の定、イメルダが不適な笑みを浮かべながら、ずいと上半身を前に突き出してきた。
マチルダは冷え冷えとした地べたに座り込んだまま、腰を屈めて身を乗り出すイメルダの、詰め物でふんだんに盛っている胸をぼんやりと見つめた。
「伯爵ったら、胸の大きい方が好みなのね」
イメルダは行方をくらませる前と何ら変わりない。ドレスの皺は丁寧にとられているし、髪は艶々。化粧も念入り。おそらく、今までパトロンを渡り歩いていたのだろう。
「いやらしいったら。毎晩、その大きな胸を見せつけて伯爵を誘惑してるんでしょ? 」
イメルダは嫌そうに顔をしかめた。
貞淑な天使の仮面はすっかり外れて、悪魔が剥き出しだ。
だが、マチルダにとって、イメルダが天使だろうが悪魔だろうが、最早、どうでも良い。
ロイを貶める言動は許さない。
「それ以上言うと、本気で怒るわよ」
「あらあら。怖いわあ」
くすくすと鈴を振るようなその笑い方は、皆んなに見せていた天使の方。
「ゆ、行方をくらませていたかと思ったら、こんなことを仕出かして」
いきなり姿を現したかと思えば、悪びれもせずマチルダに薬品を嗅がせ、納屋に拉致した。
「アンサー様も、家令のヴィスコックも、あなたのせいで捕まったのよ」
「そんなこと、私には関係ないわ」
「あ、あなたが命じたのでしょ」
「ヘマをしたのは、向こうよ」
イメルダは片足で床に転がったバケツを蹴ると、壁にぶつける。木製のバケツは繋いだ糸が切れ、バラバラと砕けた。
「それに私は頼んだだけよ。やるかやらないか判断して、実行したのはあいつらよ」
イメルダは、動くたびに白く舞う粒子を目を細めて眺めている。
「こ、この人でなし! 」
マチルダはキーッと歯を鳴らして憤怒する。
イメルダに心酔する男らは、彼女のこんな言葉を知れば、どれほど絶望するだろう。
男らの心を知った上で都合良く使い、不必要となればあっさり見捨てる。
すでにイメルダは悪魔に成り果てた。
「何とでも言いなさいな。今のうちにね」
悪魔は酷薄な笑みを浮かべた頬を思い切り歪めた。
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