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シンデレラの姉、求婚される(ただし、偽装)

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 あと少しで頂上だ。
 左右五本の指すべて皮が剥けて血まみれとなり、何度もぬるついてロープを手放してしまいそうだ。
「おりゃあああああああ!」
 最初は心地よかった風は、上へ上へと進むうちに勢いを増し、いつしか狂暴になってしまっている。容赦なくロープを揺すったり、顔全体を引っ叩いたりして、真っ逆さまに落下させようとするまさに凶器。
 ヒルダの体力はとうに尽きた。
 残された気力のみが、肉体を動かしている。
 ようやく砲台だ。
 後はうまく砲台の部分に足を引っ掛けて、拓かれた屋上に着地すればいい。
 ようやく終焉が見え、ヒルダは油断した。
 一際大きな風を横殴りに受けた。
「きゃあああああ!」
 駄目だ。
 失敗した。
 もうちょっとだったのに。
 風に体をもっていかれる。
 抵抗するには気力だけではどうしようもなかった。
 ただでさえぬるぬるするロープなのに。余計に奪いにかかってくる。
 瞬間、視界ががくっと一段下がった。
 落ちる!

 しかし、覚悟していた、体を打ち付ける痛みはなかった。
 落下する際の浮遊感も。
 頂上から逞しい腕が伸びて、ヒルダの腕を確実に掴み取ったかと思えば、勢いのままに引き上げられた。
 勢いが良すぎて体が宙に浮き、当然、重力が働いて、どすんとその場に背中を打ち付ける。勢いは収まらず、ごろごろっと三回転して、ようやく動きが止まった。
「痛あああああ」
 絶対、背中に大きな痣が出来た。
 痛みで顔をしかめるヒルダの目に、薄汚れたのブーツの先がまず入った。次いで、ヒルダが拝借したものと同様の牡鹿製のズボン。白いシャツ。鍛え上げられた胸板。喉仏。真一文字に引結ばれた薄い唇。筋の通った形のよい鼻。
 どんどん視線を上げていくヒルダは、はっと息を呑んだ。
 昏い夜を思い起こさせる、濃紺の双眸。
 忘れるはずがない。
 鼠色のフードからちらりと覗いた、獰猛な眼差し。
 あの目だ。
「何故、この場所に」
「何故とは?」
 男はおかしそうに、くっくっと喉を鳴らす。
「だって、私が登るとき、確かに下に」
 ヒルダがロープを伝って二階の高さまで来た頃には、確かに男はまだ真下にいた。
「何も不思議なことではない。俺ももう一本のロープで上がって来ただけだ」
「嘘でしょ」
「何故、無駄な嘘をつく必要が?」
 確かに男の言う通りだ。
 まさかインチキをして、螺旋階段で来たのではなかろうかと、チラッと考えたが、木製の扉は頑丈な南京錠で固定されており、何よりそれでも間に合うわけがない。
 ヒルダの使ったロープの真向かいに、同じような太さのロープが垂れている。
「最近はいかに速く登れるか、測っている」
「化け物」
 うっかり心の内が口をついて出てしまった。
 たちまち男のこめかみに青筋が浮く。
 しかし、小娘に本気で怒っては、いい大人が、しかも国王直属の騎士がみっともないと思い直したのか。わざとらしく咳払いして、落ち着き払う。
「紹介が、まだだったな。俺はルパート・デラクール公爵だ。騎士団隊長をしている」
 ルパート・デラクール。社交界では必ず耳にする名だ。
 齢三十五で国王直属の騎士団隊長として、英知に富み、隠居して田舎で優雅に余生を過ごす父から数年前に爵位を譲り受け、王太子とは従兄弟の確かな血筋。すべてを備えた男。
 氷を彷彿とさせる怜悧な美貌は社交界の憧れの的。王太子が太陽なら、ルパート・デラクールは月。存在感有り余る満月だ。
 つい、うっかり、ヒルダも見惚れてしまう。
「君は」
「わ、私は」
「虎の娘だな」
 虎とは戦場の虎と呼ばれた父の異名だ。
「さすが、虎の娘。その度胸と鍛錬。並の男では敵うまい」
「虎、虎と、無礼な。私にはヒルデガルド・マーヴルという名前があります」
 まったくもって失礼な相手に、ヒルダはふんっと鼻息荒くする。
 見惚れるなど、前言撤回。言語道断。
「ときに、ヒルデガルド」
 呼び捨て。馴れ馴れしいルパートに、ヒルダはさらに歯軋りする。
「君には決まった相手がいるのか?」
「は?」
 意味が理解出来ない時点で、いないと言っているようなものだが、ルパートはさらに具体的に質問を重ねる。
「結婚相手はいないのか?」
「いません」
 事実だが、無粋な質問だ。
 ヒルダの眉間に皺が寄る。
「それは都合がいい」
 またしても失礼な言葉を呟く。
「ヒルデガルド」
 ルパートの声音が低くなった。
 つい今し方の緩やかな雰囲気が途絶える。
 あからさまに空気を変えた。
「俺と結婚してくれ」
 物語なら男が片膝つき、指輪を差し出す場面だ。
 しかしヒルダの場合、いかにも業務連絡のごとく、仁王立ちで、ぶっきらぼうだった。
「お断りします」
 即答。
「待て待て」
 ルパートの顔に焦りが浮かぶ。
「本気で結婚を考えてはいない」
「は?」
 ますますヒルダの眉間の皺が深くなる。
 ルパートは咳払いをし、さらに声音を低くした。
「これはごく一部の者しか知らないことだが、俺は特務師団の団長を務めている」
「嘘っ」
 ヒルダ、絶句。
 噂で耳にしたことがある程度で、現実に存在はしない組織だと、誰もが口にする。特務師団とは、諜報から謀略、暗殺までこなす、いわば王国の闇の部分。その組織に所属するのは、騎士団の中でも選び抜かれた数名と聞く。
 まさか実在するとは。しかもルパートが、それらを取りまとめる役目とは。
「先日、俺の部下が瀕死の状態で得た情報だが。何者かが、国王暗殺を謀っているらしい」
 あり得ない話ではない。
 幾ら統治された太平の世といっても、ほんの三十年前まで王立派と革命派がぶつかり合う内乱が繰り広げられていたのだ。
 戦争は現国王が婚姻により手を組んだ隣国との共闘により王立派が勝利し、革命派は離散、現在はなりを潜めている。
 だが、火種はそこかしこに転がっているはずだ。
 皆が見て見ぬふりを決め込んでいるだけで。
「誰が国王を狙っているかを探るには、我々だけでは限界がある」
 言うなりルパートが額がつくくらいの距離に接近してきた。
 息遣いが鼻先に直に触れる。
 ヒルダの心臓が跳ねた。
「そこで、妻が欲しい」
「何で?」
「女同士の会話を探ってほしい」
「女の諜報員てことですか」
「その通りだ」
「で、何で私が?」
 別にヒルダでなくとも、隊員の妻や家族で良いではないか。
「隊員は全員独身だ」
「家族は」
「身内を危険に晒すわけにはいかない」
「まあ!」
 自分なら危険に晒されても良しとするのか。ヒルダは目を斜めに吊り上げ、拳を握る。
「誤解するな。その度胸、行動力、身のこなし。お前ほど適任はいない。ヒルデガルド」
 ルパートは片膝をつき、血が渇いて赤黒く染まったヒルダの手を、己の手で包み込んだ。
 剣だこやマメの硬くなった、節張った大きな男の手。体温の高さが伝染する。ヒルダの首筋にカッと熱さが走る。
「もちろん、報酬は弾む。お前の家の借金を肩代わりしよう。家族の生活費も工面する。何なら、弟の王立学校への紹介状も用意しよう」
 ヒルダの目にぎらりとした光が宿る。
「二言はありませんね」
「ああ。お前の望むまま」
 ヒルダが首を縦に振るだけで、長年の懸念が解消されるのだ。
 答えは一つしかない。
 ヒルダはこれから先の憂いがずしりと肩に重くのし掛かるのを感じながら、ルパートに向き、頷いた。
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