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鏡の正体

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 可愛らしい小花模様の壁紙がまず目に入った。
 そして、見慣れたマホガニーの家具。
 ハッと目覚めたアデリーは勢いよく上半身を起こす。
 見慣れていて当然だ。
 ここは、ランハートの屋敷の、アデリーに与えられた寝室だ。
「痛っ」
 体が重い。まるで部位それぞれに鉛玉を詰められてしまったがのように。足首もジンジンする。
 そこまで考え、アデリーはハッと動きを止めた。
 擦り傷、切り傷の類には包帯が巻かれ、足首には添え木が当てられ、治療が施されている。
 思わずベタベタと頭やら胸やらを触って確認する。
 ふわりとした金髪が背中に垂れている。
 手のひらに触れる、上質な絹地。
 装飾一つない真っ白のネグリジェ姿。
 羽枕が後頭部に。
 羽布団も。
 明らかに、毒りんごからアデリーに姿が戻っている。
 勿論、アデリーが着替えたわけではない。背中に回る包帯は、自分一人では無理だ。
 記憶の片隅にあるのは、ランハートとロベルトとの昨日の出来事。
 二人はヒューゴ神父の処刑台前にいた。
 そして、共に戦った。
 王国の兵士の退却を見届けて、屋敷に帰らなければとふらふら歩き、路地裏まで辿り着いた。
 そして、力尽き……。
 ……それからの記憶がない。
 誰かが屋敷まで運び、治療し、着替えさせたのだ。
 その人物は、アデリーの正体がわかっている。
 首筋にじっとりと汗が吹き出す。  
 秘密を知られてしまった。
 たちまち動悸が激しくなり、喉奥に息が詰まり、苦しい。
 正体を知られたからには、最早、命はない。処刑台に乗るのは、今日か、明日か。
仲間達も芋蔓式に引っ張り出されてしまう。
 一刻も早くヒューゴ神父に報せなければ。
 アデリーは飛び起きた。
 飛び起きたものの、自由のきかない体は傾き、あやうくひっくり返りそうになる。あわや、頭を床にぶつけるか、となったときだった。
「どこに行くつもりだい?アデリー?」
 胸元にがっしりした腕が巻きつき、ベッドに引き戻される。勢いのまま、アデリーは仰向けにマットレスに沈んだ。
「まだ回復していないだろう?」
 銀色の瞳が間近だ。
「ラ、ランハート様! 」
 鼻先すれすれに造作の整った顔。
 驚いたアデリーは、名を呼ぶことでいっぱいで、言葉が続かない。
 まさか。毒りんごからアデリーに姿を戻したのは。まさか。
 だが、思い当たる人物は彼しかいない。
「昨日の傷は思った以上に酷い。今日はゆっくり休みなさい」
 言いながら、包帯の巻かれた手首にキスを落とす。
 アデリーはそれを振り払った。
「い、いつ気づいたのですか? 」
 アデリーが毒りんごであることは、すでに知られている。では、いつから?
「最初からだよ」
 ランハートは微笑する。
 最初から? アデリーは眉をひそめた。
「君の翠緑の瞳を見誤ると思うか? 」
 確かに彼は、毒りんごの瞳を美しいと賞賛していた。
 その時点で、正体を見破られていたなんて。
「……」
「アデリー? 」
 急に黙り込んでしまったアデリーを、ランハートは覗き込んでくる。
「……」
「アデリー! 」
 ランハートが驚いて声を張り上げた。
 アデリーはベッドから飛び降りると、骨を折っているとは思えないくらいの俊敏さで、捕まえようとするランハートをかいくぐり、廊下へ飛び出していた。


 部屋に滑り込み、濃紺の扉を閉める。
 そのまま、ずかずかと鏡の前へ。
 鏡には、肌が透けるくらいに薄い生地のネグリジェ姿の自分が映る。
「まあ! な、なんて、はしたない! 」
 寝室には鏡がなかったし、他のことに気が散っていたため、気づかなかったが、この寝巻きは初夜を迎える若い娘が身につけるものだ。
 ランハートの前で、恥ずかしげもなく乳房を晒してしまった。
 アデリーの顔が一気に火を吹く。
 おそらく、このネグリジェを選別したのは、ランハートだ。さすがにメイドに着替えさせて、正体を晒す真似はしないだろう。そもそも、このような卑猥なデザインは選ばない。アデリーの記憶がないのを良いことに、好き放題して。しかも、全裸を見られてしまった。
「鏡。話を聞いて」
「……」
 返事がない。
「私の正体が知れていたの。私、どうすれば良いのか」
「……」
「いないの? 」
「……」
 全く反応なし。
「無駄だ。鏡は何も返答しない」
 不意に背後で声が上がる。
「今、私はこちら側にいるからな」
 アデリーは十センチ飛び上がった。
 扉に肩を預けて、腕を組み、ランハートが無表情で立っていたからだ。
「ま、まさか」
 彼は、私はこちら側にいると言った。その意味は、もしや。
「鏡の声は私だ」
 頭が真っ白になると言う比喩は、確かに存在する。アデリーは身をもって理解した。くらくらと目の前が左右に揺れる。
 前髪を掻き上げ、ランハートは一直線にアデリーの元へ。目眩を起こす妻の肩に背後から手を回すと、その体を支える。
「そもそも、何故、気づかない?同じ声だろう?」
 耳元を掠める息遣いに、カッとアデリーの頬が火照る。
 言われてみれば、同じ声だ。
「よくも、騙したわね! 」
 屋敷の主人をどう思うかだとか、よく尋ねてきていた。あれは、アデリーに探りを入れていたのだ。
「ちょっと、揶揄うつもりだった。まさか本気にするとは」
 困ったように前髪を掻き上げるランハート。いつになく垂れ目だ。
 ますますアデリーの怒りが増幅する。
「こ、この性悪男! さぞかし、楽しんだでしょう! 私を弄んで! 」
「君の本心が知れて良かった」
「最低! 」
 足首を骨折していると言うのに、アデリーはお構いなしで地団駄踏む。痛みなど、この際ニの次だ。とにかく怒りが収まらない。
「まさか、君からキスしてくれるとはな」
 まんまと魂胆に嵌り、はしたなくも自分からキスを仕掛けたのだ。
「あなたなんて、大嫌いよ! 」
 小気味良い音が狭い室内に響く。
 アデリーは容赦なくランハートの頬に平手打ちする。
 ランハートにとって、全く衝撃になってはおらず、ニヤリと唇を歪めるのみだ。
「アデリー」
 ランハートはアデリーの左手を取ると、おもむろに指輪に口づける。
 つい今しがたのニタニタ笑いが消えている。
 あるのは、氷の公爵と渾名される怜悧な眼差し。
「毒りんごとしての活躍を耳にするたび、気が気ではなかった」
 不覚にもアデリーの心拍数が上がる。
 言いたいことは、まだまだ残っているのに。すっかり言葉を奪われてしまった。
「キスしても良いか? 」
「今更……」
 アデリーの言葉は続かなかった。
 何故なら、すでに唇は塞がれてしまっていたからだ。
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