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 いきなりの不穏そのものの声に、全身の毛が逆立った。
 陰口を叩いたときに限っての絶好のタイミング。
 もしや盗聴器など仕掛けているのではあるまいか。
 あわわわわ。やらかした。失言しちゃったよ。
「こんなとこで油売んな」
 繋がれた二つの手の間に手刀が入り、俺と桜庭先生の距離が分断される。
 何が起きたんだ?
 あまりにも突拍子もないことに、状況に脳味噌が追いついていかない。
「失礼」
 たった一言でその場を収束させる。
 痛い。腕を引っ張るな。足の長さを考えろ。これじゃあ、歩いてるって言うより、引きずられてるだよ。
「さ、桜庭先生!また!」
「は、はい。是非、また」
 何とか笑顔を向けると、引き攣りつつも綺麗な笑顔で応えてくれた。
「早よ来い」
「痛っ」
 頭を殴るな。
 悔しいことに日本人離れしたスタイルの橋本の歩幅には敵わない。ずんずんと無言で進む相手に、さすがに膝の関節が軋みだしてきた。腕を振り払おうにも、指の先が肉に食い込んでなかなか外れない。馬鹿力にも、ほどがあるだろ。


 どこまで連れて行く気だと問いかけようとしたところで、住宅街に不釣り合いな神社でようやく止まった。
 やっと、手が外れる。
「あんなハイエナに迫られて、鼻の下伸ばしてんなよ」
「ハイエナ?」
「桜庭や」
 忌々しそうに舌打ちすると、十何段もある御影の石造りの階段を登り始める。その先には同じ材質の鳥居があった。
「完璧にお前を獲物として照準に入れてたやろうが」
 不貞腐れた声を出す橋本は、もう階段を登り切り、鳥居の真下で仁王立ちで上から睨んでいる。
 偉そうに見下ろしてくるなよ。
 俺は三段飛ばしで駆けた。
「俺が防御してやってんのに。ちょっと目え離した隙に、これや」
 鳥居をくぐれば、ところどころ雑草の生えた石畳の参道が境内まで一直線に敷き詰められている。左手には手水舎があり、橋本は一旦そこで手を清めた。
「自分を安売りすんなよ。どうせ、すぐに飽きられるんやから」
 狛犬の石像が左右対称に配置され、移築されたばかりらしく、入母屋造りの社殿の真新しい柱には年輪がくっきりしている。橋本は真っすぐに進むと、賽銭箱に幾らかの小銭を放り投げた。チャリンと小気味よい音が耳まで届く。本坪鈴を振ると、則って二礼二拍一礼する。
 何を熱心に拝んでいるんだか。
 なかなか頭を上げようとしない橋本の背中を見ているうちに、だんだんむかついてきた。
「何なんですか。あんた」
 橋本にいいように振り回されている。そう思った途端、カーッと頭に血が昇った。
「俺が誰とどうなろうが、勝手でしょ」
「調子に乗って内部のこととかべらべら喋られたら困るからな」
「そこまでバカじゃありません」
 思わず握り込んだ拳に青筋が浮く。職業柄、守秘義務は多い。彼が見透かす通り、確かに女性と親密に接するのは失恋して以来久しいのは認める。だからといって、幾ら鼻が伸びようと、橋本が危惧するほどに己を見失うつもりはない。そこのところは心得ている。 
 腕を組み、顎の下に拳を当てて何やら考えに耽っていた橋本は、不意にギラリと目を光らせた。
「……真也」
 悪い企みを持つ、妖艶な眼差しにどきりと胸が鳴る。
「あ、あの。橋本さん?」
 ふざけて名を呼ばれるのは、今に始まったことじゃない。しかし、いつになく淫靡な雰囲気を保って、橋本は長い睫毛を瞬いてみせた。形の良い唇が小さく窄まる。
「黙れや」
 人差し指で俺の唇の輪郭をなぞり、動揺を楽しむように鋭かった双眸が細くなった。
 茶色がかった瞳の奥に自分の姿を見てとめ、そこに吸い込まれていきそうな、地に足のつかない浮遊する感覚をもった。当番明けの、うっすら髭の生え始めた顎の先を長い指が捉え、軽く引かれても、抵抗することさえ忘れていた。
 橋本が膝を曲げたので、目線がほぼ同じになる。あっと小さく上げた声は、すでに相手の口の中だった。
「真也」
 もう一度、今度ははっきりと名を呼ばれた。返事は不可能だ。熱を持って湿った舌が、引き結んだ唇を強引に割って侵入し、ぬるぬるした感触を口腔内で共有していたからだ。驚いて咄嗟に身を退いたら、許さないといわんばかりに後頭部を掴まれ、引き寄せられた。
「んん……」
 口端から唾液が漏れ、息すらままならず、苦悶の声が喉からせり上がってくる。性急な侵入はやがてゆっくりした動きに変わり、丹念に歯列を舐める。反応を伺うように蹂躙する舌は、まるで一つの個体のような動きを持ち、眠っているはずの機能を覚醒させる。
「ん……ふぅ……」
 白昼の神聖な場所であることを忘却させる不届きな行為。逃げるどころか自ら受け入れていた。橋本の膝の間に己の脚を滑り込ませると、角度を変えて、唇の繋がりを余計に深くする。橋本の背に手を回すと、同じように相手も俺の腰を引き寄せ、呼吸する絶妙のタイミングで甘く息を零す。全身の血液が下半身の一点に集中する。形を変えたそれは、ジーンズの生地を越してしっかり相手に伝わっている。
 相手の反応が知りたくてうっすら瞼を開けると、この上なく不機嫌そうに目の据わった橋本の顔が間近にあった。
 てっきり橋本も恍惚の表情だと踏んでいたのに。真逆のそれに仰天し、思わず足を半歩退いてしまった。すると、見計らったように胸をどんと突かれて、よろめいた。
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