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「そらみろ」
 手の甲で濡れた唇を拭いながら、橋本は挑む目つきだ。
「お前はすーぐ、雰囲気に呑まれる」
 喉の奥から絞り出すような低い声。一気に現実感を突き付けられた。
 眼差しは軽蔑そのもので、俺のズボンのファスナー部分で止まっている。たかだかキスで興奮冷めやらぬ痴態を、慌てて両方の手で包み隠した。幾ら欲求不満であるとしても、男相手にこれはない。顔中の血液が沸騰する。
「よっしゃ、行くか」
「ど、どこへ」
「またまたあ。わかってるくせにー」
 男前にうっすら影が出来る。不気味な笑い方。嫌な予感。
「さすがに神聖な神社ではいたせへんやろ?」
 何をいたすんですか?恐ろしくて聞けない。
 俺が顔を赤くしたり青くしたりしていると、いきなり橋本は紙包みを突き出した。薄茶けた長方形の袋はずっしりと重く、温かい。
「食え」
 促されて、恐る恐る中を覗き込んだ。
「え?嘘?」
 パチパチ目を瞬いてしまう。
 うんうん、と橋本は思った通りの反応に満足そうに腕組みして頷く。
「日好屋の鯛焼きじゃないですか、これ」
 出目金のように目の大きい焼き型が特徴で、隊長の掌と同じくらいの大きな鯛の、頭から尻尾の先まで餡がぎっしりと詰まった品は、他店と一線を画している。
「ど、どうしたんですか、これ」
「いちいち小さいことは気にすんな」
「もしかして、さっき、これを買いに行ってたんですか?でも、並ぶにしても早過ぎませんか?あそこは最低でも一時間は覚悟がいるのに」
「さあ?どうしてでしょう?」
「え?え?本当に何で?」
「高校の後輩があそこの跡取りなんや。ちょっとばかし脅して、融通してもらっただけや」
 種明かしをしてみせた橋本は、偉そうに胸を逸らした。
 ちょっとばかし脅して、の言葉に引っ掛かりを感じるが。日好屋の跡取りは、一体橋本にどれほどの弱みを握られているのだろうか。同情する。
「この間、食い損ねたやろ」
 その言葉で帳消しとしてやろう。
 桜庭先生からの差し入れを食い損ねた恨みはとっくに消えていたが、どうやら橋本の中では燻っていたらしい。意外に義理堅いな。
「それよりも、髭剃るの忘れんなよ」
「え?」
「面体つけたとき、隙間が出来て煙吸い込むぞ」
 橋本は口煩い教官よろしく、人差し指で
 俺の顎をなぞる。何だ、この卑猥な手つきは。
「ひ、人のこと言えないだろ!さっき、ちくちくして痛かったし!」
 早口で真っ赤になって怒鳴る俺に、橋本は腹を抱えて笑いやがった。


「よし。笑ったとこで、行くか。バイク、こっちに持って来たぞ」
 鯛焼きの包みを抱えていない方の腕を引かれた。
 ああ、やっぱりこのまま帰らせてはくれないわけね。和やかな雰囲気のまま「さよ~なら~」とは、いくわけないか。
 そもそも、俺の気持ちは二の次かよ。
「お、俺はまだいいって言ったわけじゃ」
「あんなに情熱的なキスしといて?」
 勢い任せに引かれて、額が橋本の逞しい胸板にぶつかる。橋本の指先で後ろの髪を掬い取られ、サラサラと小さな音をたてる。そのまま後頭部を引き寄せられ、耳がちょうど心臓部分にくっつく。
「笠置くんの下半身だけは素直やなあ」
 うるせえよ。
 軽口を叩く橋本の、鼓動は意外にも速い。見上げれば、頸動脈が微かに浮いて、脈打っている。
「ほら、貸せ」
 鯛焼きの袋をひょいと取り上げられる。
「まだ食べてない」
 取り返そうと爪先をたてて伸びをすると、橋本は袋を頭上に掲げ、垂れた目を眇める。
「終わったら、好きなだけ食え」
 何が終わったらですか?
 俺は勘の良い方だ。この男が目指す先は容易に予想出来る。
 ここで、ふざけんなと、拳を頬に一発入れたら、この話はこれで終わるはずだ。
 飄々とふざけたなりをしているが、橋本は至って紳士だ。俺が本気で嫌がれば、無理強いはしない。不埒な行為も終了するはずだ。
 俺が一言「嫌だ」と言えば。
 橋本は自分のバックパックに鯛焼きの袋を無造作に突っ込む。
 言え。今なら間に合う。
 ヘルメットを被ると、バイクに跨った。
 早く言えってば、俺。
「早く」
 橋本がこちらに向かってヘルメットを放つ。
 俺は見事にそれをキャッチした。
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