【完結】失恋した消防士はそのうち陥落する

氷 豹人

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 見舞いに来てくれた高校時代の悪友連中一人一人に礼を述べ回っていたら、すっかり日が落ち、狭い路地一帯に煮物や焼き魚の匂いがぷんぷんと充満していた。
 昼間は保険のセールスレディをしている母親は、仕事を終えると、今度は休む間もなくスーパーのレジ打ちのパートに出て行く。擦れ違いで、母の姿はすでになかった。
 俺には日課がある。
 今日も例外なく、玄関を入った右手の畳敷きの部屋へ向かった。
 アガチス材桜色塗り仕上げのコンパクトな、どちらかといえばマンション仕様の仏壇の前で胡坐をかく。
 まだ仄かにラベンダーという洒落た線香の名残があった。
 供物には外国の銘柄の煙草が一つ。
 生前、父親が好んで吸っていたものだ。
 嫌煙家の母は父が煙草を吸うことをよく思っていなかったから、供えたのは月命日のたびに拝んでくれる、見ず知らずの客だ。
「父ちゃん、無事に戻ったぞ」
 仏壇に手を合わせ、ぶっきらぼうに報告をしたときだった。
 インターフォンが備え付けてあるにも拘らず、鍵の締め忘れた玄関を誰かが開け、床板を踏み抜くんじゃないかと心配になるくらいの足音で勝手に敷居を跨いできた。
 泥棒か!身構えたときだった。
 いきなり襖が開いて現れたのは、予想外の人物だった。
「さっきも寄ったんやけど、留守やった。どこで道草食ってんねん」
 勝手に他人の家に押し入ってネチネチと小舅よろしく嫌味を言う方が、どうかしているだろ。
 橋本は尻のポケットから、四つ切りサイズの紙を出すとおもむろにそれを広げた。
  住宅地図で、×印が幾つも記されている。
「印は不審火のあった場所や」
 帰って早々だな。いいけどさ。
 言葉通りに、犯行のある場所が網羅されている。
 今年に入って、蕎麦屋九庵で十件目。未だに犯人の痕跡はない。
「火事のきっかけは爆発やった」
「まだ調べる気ですか?」
 隊長と日浦さんに釘を刺されたにも拘らず、ちっとも諦めていない。
 むしろ、闘志を燃やしている。
 困り顔の俺を敢えてチラリと見ることさえせず、橋本は×印に指を添わせた。
「警察から聞き出した情報によったら、残留物に硝酸系化合物とアルミホイルがあったことから、犯人は簡単な電気雷官を作って、携帯電話を連動させることによる簡易遠隔操作爆弾を用いたことに間違いないらしい」
 俺が入院しているうちに、よくぞ調べたものだ。
「よく警察が情報出しましたね」
「脅したからな」
 平然と橋本は言ってのける。
 日好屋の鯛焼きといい、この人は一体どんな弱みを握っているんだろうか。
 まさか見返りを体で支払ったりしていないだろうな。
 橋本は綺麗な顔をしている。しかも、ガタイも良い。男でもつい、くらっといってしまうのも頷ける。その証拠に、この俺もくらっとして、セックスまで仕出かしてしまった。
 そこまで考えて、先日の件が不意に蘇った。
 抹消したい過去だ。
 黒歴史だ。
 こいつの上でバカみたいに腰を振り回してしまった。
「しかし、硝酸ですか。素人が手に入れられる代物じゃないですよね」
 急に思い出して、慌てて残像を蹴散らす。
「普通はな。そやけど、抜け道はあるっちゃある。学校や企業で実験や研究に使用するって名目やと、十八歳以上で身分証明書と印鑑さえあれば購入出来るんや。しかも健康保険証なら、人相を認識せずともいける」
「つまり、それこそ誰でもなりすまして購入出来るってことですね」
「そうやな」
 法律の網をかいくぐれる方法は探せば、どんどん出て来る。愉快犯の手に危険な薬品がいとも簡単に渡ったのかと思うと、ぞわっと鳥肌が浮かんだ。
 得体の知れない犯人の凶悪さが肥大した。
 急に震え始めた俺を宥めるように、橋本は幾分落ち着いた声で続ける。
「犯人は住人に危害を加えるつもりはなかったようや。仕掛けに火薬よりも衝撃の少ない爆薬を使こてる」
 言葉通り、蕎麦屋の一件を除けば全てボヤ程度だ。
 今まではマル1(負傷者)も出ていない。
 今回が度を超えた便乗犯の仕業なのか。
 それとも味をしめた犯人が過激に転じたのか。
 調べてみないとその点はわからない。
「天井にあった生石灰は?」
「おそらく、それも犯人の仕業やろ。そやけど、何で天井なんかに」
 顎に拳を当て、橋本は考え込む。
「しかも助燃剤装置を用いたのは、蕎麦屋九庵の一件だけや」
 今回、大黒谷地区から初めて不審火が出た。例を見ない、大規模火災だった。
 何故、亜里沙が天井裏に潜んでいたのかも謎のまま。
 考えれば考えるだけ、混乱してくる。
 がしがしと髪を掻き毟ると、知らず知らずのうちに、ううーっと呻いていた。
「これで、七福市の全ての地域が不審火の被害に遭っということや」
 橋本が地図を片手ににじり寄る。あくまでバツ印の場所を確認させるためだ。  
 くっつくな。思い出しちゃうだろ。
「そ、そうですね」
 俺を、膝の間にすっぽりと収まらせる。 
 やはり肉付きは女とは全然違って張りのある固さだ。
 鼻先をくすぐる爽やかなシャンプーの香りに、何だか背筋がむず痒くなってくる。 
 橋本はジッと地図に目を凝らしていたが、突然、ニヤニヤして顔を覗き込んだ。
「困るなあ。そんなに恥ずかしがったら」
「え?」
 まさか、口から飛び出すくらいに早く打つ心臓の鼓動を、相手に勘付かれた?
 上擦って声の出ない俺の後頭部に手を回すと、引き寄せ、また自分もちょっと首を伸ばして耳元で囁いた。
「キスしたくなるやろ」
 途端にカーッと頬に血が昇る。首筋まで真っ赤になった俺の初心うぶな反応に、キョトンとした橋本は、やがてくっくと喉の奥を鳴らす。
「それか、ここでおっ始めるか?」
 するか!
 またもや馬鹿にされた。握った拳に青筋が立つ。
 このような捻くれた男に、同じ男でありながら少しでもときめいてしまった自分が許せない。
 たとえ、たった今人類が消滅して、世界で橋本と自分の二人きりになったとしても、決してこんなやつに欲情するもんか。
 俺はわけもわからない誓いを立てた。
 何か言い返してやろうと、むずむずする口を開けようとしたが、それより早く橋本が唇を重ねてきて、一発で黙らせられた。
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