【完結】子爵令息はなぜか怪盗紳士に溺愛される

氷 豹人

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邂逅

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 ふと、街灯と街灯の境目である暗がりで、何やら黒い塊が妙な具合に呻き声を上げた。
 雪森は飛び上がった。
 犬や猫にしては重低音の響き。獣の唸りといってもいい。サーカスのライオンを彷彿とさせる。
 気の迷いにするには、聴覚がしっかりと捕らえてしまっていた。
 雪森の背筋に冷たいものが流れ、唾を呑めば喉仏の辺りで引っ掛かり、がらがらになった。
 回れ右して逃げ出したい衝動を、拳を作って何クソと蹴散らす。
 桂木雪森!しっかりしろ!
 右足を前に突き出し、地面に足裏を踏み留まらせた。
「誰だ!」
 暗闇に向かって声を張り上げる。
「そこにいるのは、わかっている!誰だ!」
 だが、返答はない。
 雪森は道場から持ち帰った竹刀を構えた。
 黒いものの正体は、マントに身を包んだ人間だった。路面に蹲った姿勢で、もぞもぞとしている。
 雪森は間合いを詰めた。
 すると、徐々にその正体が判明していく。
「お前は」
 雪森はひっと小さく鳴いて、猫のように丸く吊り上がった目をますます丸くさせた。
「青蜥蜴!」
 新聞記事がこぞって書き立てる風体が、そこにあった。
 フェルト地の黒い中折れ帽。燕尾服を着こなし、ベルベットの膝裏近くまであるマントを纏う。磨きこまれた革靴や、胸元の差し色とした緋色のハンカチーフ、そして何より青蜥蜴たる証しである、目元を覆った仮面。
 年の頃は三十前後。長身で、スラリとしてはいるものの、ギリシア彫像のように的確に筋肉のついた見事な体躯。世の女性を魅了するには充分だ。
 雪森はそれが仮装で悦に入った赤の他人ではなく、青蜥蜴そのものであると確信した。
 漂うオーラは尋常ではない。
「しくじりましたよ」
 重々しい溜め息を吐き出し、青蜥蜴は観念したように脚を投げ出し、板壁に背をつけた。
「牢から脱獄したはいいが、手下にどん臭い奴が一人いて。馬車の荷台から転げ落ちてこの有り様です」
 流暢に喋ってはいるが、混じる吐息にはどこかしら苦悶が滲んでいる。
「怪我をしているのか?」
「あばらの一本二本は折っているでしょうね」
 あっさりと青蜥蜴は述べた。
「桂木の坊っちゃん」
 唐突に名前を呼ばれ、雪森は思わず後ずさった。
「さっき、大河原がそう呼んでいたでしょう」
 雪森の動揺を正しく読んだ男は、薄い唇を斜めに吊り上げた。
「桂木子爵の次男ですね」
 とっくに雪森の正体は見破られている。
「成程。評判通り、男にしておくには勿体ない」
 青蜥蜴は仮面の下で抜け目なくギラリと光らせ、舌舐めずりした。
 雪森の胸に嫌な予感が掠める。
 日頃から高等師範学校の同期生から、同じような目を向けられ、うんざりしているところだ。奴らはくだらないごっこ遊びに耽り、何かと付け狙ってくる。油断ならない。
 今まさに、眼前の男も同じ匂いがした。
 雪森の実母、桂木子爵夫人は大層な美貌だと専らの評判だった。亡くなって十五年が経つが、未だにその称賛はそこかしこから聞こえてくる。
 その容姿をそっくりそのまま引き継いだ雪森は、おとぎ話の絵本から抜け出したような可愛らしさだの、琥珀色の小猫のような丸い瞳だの、柔らかくふっくらした薔薇色の唇だの……。
 とにかく、女性らしさを強調した例えを断固拒否していた。
「何と言われようと、生憎と僕は男だ。そのような戯言、誰がうれしいと思うか」
 女扱いされてなるものか。不埒を働く男共に鉄槌を下す。武道の稽古に励むのは、ひとえにそれだ。
 雪森は剣先を相手の喉仏すれすれに突き立てた。
「私を警察に突き出すなら、さっさとした方がよろしいですよ」
 やけに落ち着いた調子で、青蜥蜴は言ってのけた。
「そのうち、私のいないことを間抜けな手下が気付いて、迎えに来るでしょうから」
 軽く肩を竦めてみせる。が、骨に響いたのか、直後、うっと顔をしかめた。
 よくよく目を凝らせば、額に浮いた脂汗が頬を伝い、だらだらと顎から地面へと垂れている。襟首がびっしょりと湿っていた。
 本来なら喋ることすら苦痛なのだろう。 
 だが、それを悟られぬよう虚勢を張っている。暗がりのせいで誤魔化されているが、おそらく顔色は相当悪いはずだ。
「なら、さっさと僕の前から消えろ」
「何ですと?」
「消えろ」
「その意図は?」
 青蜥蜴は両手を挙げ降参の形をとる。
「裏などない!早く行け!」
 一喝すると、ようやくのろのろと立ち上がった。
 構えを崩さないまま、雪森は息を呑んだ。
 鬱蒼とした山があっという間に出来上がったかと錯覚した。
 立ち上がった悪党が、軽く六尺(約一八〇センチ)を越えていたからだ。
「あなたは警察と顔見知りでしょう」
「だから、どうした?」
「私を見逃がすと?」
 信じられないと、男は声を引っ繰り返した。あくまで飄々とした態度を崩すつもりはないらしい。本当なら息を吸うことさえ辛いはずなのに。
「そのように手傷を負った奴を痛めつけるほど、僕は悪趣味じゃない。だが、みすみす見逃すほど、お人好しでもない」
 ぴしゃりと雪森は言い捨てる。
 次いで、竹刀を戻すと腕組みし、悪党に背中を向けた。
「僕が後ろを向いているうちに、早く行け。十、九、八……」
 背後で微かな苦笑が漏れた。
 苛立ちを覚え、雪森は早口になる。
「七、六、五」
 空気が揺れ動く。ふわり、と鼻先を掠めたのは、柑橘系の匂い。
「この礼は、後日、たっぷりさせてもらいますよ」
 囁きは風に紛れ、空耳かと疑うほどごく自然に鼓膜を突き抜けた。
「四、三、二」
 自ずと唱え方が早くなる。
 悪党に背中を見せたのは失敗だったかも知れない。提案したものの、雪森は後悔し始めていた。
 幾ら新聞記事が紳士怪盗だのと持ち上げたところで、必ずしもそれが的を得ているとも限らない。世間の知らぬところで悪辣なことを仕出かしていないと、誰が断言出来ようか。
 人質と引き換えに、この悪党が脱獄の完全な成功を目論んでいる可能性だって大いに有り得る。武器を隠し持っていて、脅迫してくるかも知れない。そもそも、手傷を負っていることすら演技だとしたら。
 考えていても、埒が明かない。
 そうなったときは、そうなったときだ。 
 どうにでもなれ。
 男に二言はない。
 己の言葉を取り消すつもりはなかった。
 雪森は息を吸い、踏ん張った。
「一」
 勢いよく振り返る。
「……」
 闇が広がるばかりだ。
 青蜥蜴の姿はすでにどこにもなかった。
 忽然と消えていた。
 両脇を板壁が続いているのみで、見通しが良く、隠れる類のものは一切ない。突き当たり正面も板壁で、道が二股に分かれていた。仮にどちらかに曲がったとして、雪森の位置から、たかだか十ばかりで姿が見えなくなるとは、健脚にも程がある。
「気障な奴め!」
 雪森は路面に設えられたマンホールの蓋上で足踏みした。
 撒かれたことにではない。逃げろと言ったのは、自分だ。 
 桂木子爵の息子を盾に、己の身の安全を確保する手立ては幾らでもあったはずだ。抜け目のない悪党がそれを考えなかったとは言わせない。
 青蜥蜴は己の美学を貫き通した。
 癇に障る怪盗だ。
 雪森は未だに鼻の奥に滞る濃密な香水の匂いに、いやそうに顔をしかめた。
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