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義理の姉には敵わない

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「今、青蜥蜴のお芝居をしているそうよ」
 珈琲を一口含むなり不味そうに顔をしかめた雪森に、義理の姉にあたる美登里みどりが声を掛けた。
 十五も年の開いた弟がいる男と婚姻関係を結んで、ちょうど三年目に入ったところの、二十半ばの女だ。
 女学校に通っている最中に周囲に倣って見合いした美登理は、良妻賢母など時代遅れも甚だしいなどと一丁前に講釈を並べ立てることだけは学び、後継ぎを作らず妻の座で好き勝手している。
 貴族院議員を務める父、英輔えいすけが所用で欧米視察の中、兄の亜希彦あきひこといえば、鬼の居ぬ間と言わんばかりに何やら理由をつけて、もう三か月ばかり家を空けている。
 即ち、某伯爵だの某子爵だのと、ここら辺一帯、似たりよったりの洋館が軒並み連なるその内の一つ、千二百ばかりの地所を占める桂木子爵邸を守っているのは、雪森と美登理ということになる。
「姉さんもお好きですね」
 言って、雪森はまたもや不味そうに珈琲を啜った。
 いつもなら可愛らしい少年を囲って真昼間から情事に耽っているところを、今日に限って図書室にまで茶盆を運んできた。わざわざ女中ではなく自分で珈琲を沸かして。
 珍しいこともあるものだと勘繰っていたら、これだ。
 姉は雪森が芝居見物を嫌っていることを承知の上で、誘ってきたのだ。
「世間の話題はそればかりよ。あなた、流行遅れじゃなくて?」
 いちいち癇に障る言い方だが、あくまで美登理に他意はない。
 重々承知していることだが、それでも雪森はむっとなり、音を立てて分厚い本を閉じた。素早く引っ繰り返すと、裏表紙を掌で押さえつけた。
 美登理は二人掛けの方に深く腰を掛けると、豊胸を強調するかのように体を逸らせ、脚を組んだ。
 衿ぐりの大きく開いた真っ赤なワンピースの、胸元でむっちりと張る肉を横目に、雪森は不機嫌な息を鼻で吐く。
「僕が芝居小屋に行きたくない理由は、よく知っているでしょう」
「変わってるわね、あなた。役者にならないかと熱心に誘われて、嫌がるなんて」
「いかがわしい目で見られて、誰が喜びますか」
「私だったら、二つ返事で承知するけれど」
 そうでしょうとも。雪森は言葉を飲み込んだ。
 姉は下心を持った目で見られることを、何よりの快感としている。
 立ち上がるなり、美登理は雪森の手を退けさせ、隠した題名を確かめる。喉奥で小馬鹿にした笑いを上げた。
 彼女の下膨れの口元の両脇に、ちょこんと笑窪が出来上がるところだが、何故だか今日はそれが見当たらない。
「あらあら。硬派はどこへ行ったの? ヴェルレーヌ詩集なんて」
「後学のためです」
「『男が愛の言葉を口にするとは、何と軟弱な』が口癖じゃなかったかしら? 」
 雪森は真っ赤になって、珈琲とは呼べない、水で薄まった茶色い液体を食道に流す。
 同級生があまりにも熱心に勧めてくるから、目を通しただけだ。それ以外に理由はない。
 だが、美登理はふふんと鼻を鳴らし、得意満面となっている。
「他の方に黙って差し上げてもよろしいわよ」
「交換条件ですか」
「ええ。私、どうしても世間を騒がせた『観音像の左手事件』のお芝居を観たいの」
 結局のところ、雪森は義理の姉には敵わない。
 爵位のある血統の良さではなく、北陸の商家の娘を選んだのは、奔放で癖のある性格を兄が大いに気に入ったからだ。このような強かさではない。
「ねえ、雪森さん」
 美登理は椅子を引き雪森の真横の席に着くと、おもむろにしなだれかかってきた。ふわっと鼻先を掠めるオリエンタルな香り。柔らかい胸肉の感触が肘にあたり、雪森はむず痒くなった。
 雪森は真顔になる。
 姉に対し、全身が粟立つような感覚を持つなど、有り得なかったからだ。
「美登理姉さん。駄目ですよ」
 やはり体中がむずむずする。一体全体、自分はどうなってしまったのだろうかと、雪森は眉を垂らした。
「あら。健全な男子らしからぬ発言ね」
 ぬらぬらと光る唇を尖らせ、美登理は明らかな不平を口にする。挑発するように、さらに肘に胸を食い込ませた。
「兄さんに申し訳ないでしょう」
「亜季彦さんに義理立てする理由があって? あの方も、今頃は新橋あたりの芸者とよろしくやっているでしょうよ」
 あながち外れてはいない。兄は女子師範学校上がりの娘だの女中だのと、何かにつけて見境なく色恋沙汰を起こし、三か月の不在も容易に想像がついた。
 似た者夫婦ゆえ、兄と美登理の間ではこの三年、波風が立ったことがない。
「それでも、婚姻中の女性に手なんて出せませんよ」
 同じ血の通う兄弟でありながら、雪森は亜季彦とは真逆の考えを持っていた。
「まあ、頭の固いこと」
 つまらなさそうに美登理は立ち上がると、扉の取っ手を捻った。
「車を用意させます。さっさと下に降りてらっしゃいな」
 扉が閉まり、靴音が遠退いて、雪森は腹の底から息を吐き出した。同時に、体のどこかに穴が開いたかのごとく、力が抜けていく。危うく椅子からずり落ちそうになった。
「何なんだ、一体」
 残された雪森は、机に両肘をつくと、俯いて、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。
 普段の姉なら、気の合わない弟を芝居などに誘うことは絶対にないし、ましてや、そんな弟に本能の赴くまま迫るなど、有り得ない話だ。
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