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第8話 盤上のゲームは、盤外のゲームへ
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渡り廊下に、沈黙が落ちた。
私の唐突な宣戦布告に、レオンハルト様の影がわずかに揺れた気がした。
夕陽の逆光で彼の表情は窺えない。だが、彼の全身から放たれる空気が、ぴんと張り詰めた弦のように緊張を帯びたのを、肌で感じた。
やがて、彼の低い声が、静寂を破った。
「……どういう、意味ですかな。アイナ嬢」
「言葉通りの意味ですわ、サー・ナイト」
私は一歩、彼に近づいた。三メートルの絶対領域を、自ら侵犯する。
「わたくし、監視されるだけの退屈な日々には、もう飽きましたの。これからは、あなたという鉄壁の騎士(ルール)を、このわたくしが、どうやって崩していくか……それを楽しむことにいたしますわ」
挑発。それも、今までの悪役令嬢としての演技ではない。
プレイヤーが、攻略不可能なNPCに対して仕掛ける、イレギュラーな対話。
レオンハルト様は、答えなかった。
ただ、そのアクアマリンの瞳が、夕陽を受けてきらりと光る。その光は、冷たいガラスのようでもあり、静かな炎のようでもあった。
†
翌日から、私の『監視役攻略ゲーム』は始まった。
手始めは、彼の職務の根幹を揺さぶること。
「おはようございます、サー・ナイト。今日も朝早くからご苦労様ですわね」
朝食の席で、私はにこやかに挨拶した。
背後に立つ彼に、淹れたての紅茶のカップを差し出す。
「……職務中です」
彼は、表情一つ変えずにそれを断った。
「まあ、つれない方。これは監視に対する賄賂ではなくて? ただの感謝の印ですわ。わたくし、あなた様のおかげで、夜も安心して眠れますもの」
にっこりと、花が咲くような笑みを浮かべてみせる。
完璧な淑女の振る舞い。だが、その裏にあるのは「あなたを仲間として懐柔しようとしている」という明確なメッセージだ。
彼の眉が、わずかに、本当にわずかに動いた。
「……お気持ちだけ、頂戴いたします」
彼は、決してカップを受け取らなかった。鉄壁。さすがは私の推し。
ならば、次はこれだ。
歴史学の講義中。私は、わざとらしくクシャミをした。
「……くしゅんっ」
背後の彼が、ぴくりと反応する。
私は、寒そうに自分の肩を抱いた。
「少し、冷えますわね……」
さあ、どうする、サー・ナイト。
あなたはただの監視役。被監視対象の体調など、あなたの職務の範囲外のはず。
ここで私に上着をかけるようなことがあれば、それは「監視」ではなく「護衛」――つまり、個人的な感情の介入だ。
教室の誰もが、この奇妙な駆け引きに気づいていない。
私と彼だけの、静かな戦場。
数秒の沈黙の後、彼は動いた。
音もなく私の席に近づき、屈んで何かを拾い上げる。それは、私がわざと床に落としておいた、刺繍入りのハンカチだった。
彼は、それを無言で私の机に置くと、またすっと元の位置に戻っていった。
上着をかけるでもなく、声をかけるでもない。
ただ、事実として、私の「落とし物」を「拾った」だけ。
(……やるじゃない)
私は内心で舌を巻いた。
騎士としての礼節を保ちつつ、監視役としての職務を逸脱しない、完璧な回答。
私の仕掛けた小さな罠を、彼はことごとく、柳のように受け流していく。
ならば――と、私はさらに踏み込むことにした。
†
放課後、私はアルバート王子とエリスを、学園のローズガーデンに呼び出した。
もちろん、私の隣には、影のようにレオンハルト様が控えている。
「おお、アイナ! 君からお茶会に誘われるなんて、まるで夢のようだ!」
アルバート王子が、今日も絶好調にポエミーだ。
「アイナ様、お招きいただき、ありがとうございます……!」
エリスは、少し緊張した面持ちで微笑んだ。
「ええ、ようこそ。今日は、少し皆様にご相談したいことがありましてよ」
私は優雅にお茶を注ぎながら、切り出した。
「実はわたくし、最近、少し悩んでいるのです。このまま、ルーメル家の人間として、決められた道を歩むだけで良いのか、と」
芝居がかった溜息をついてみせる。
「なんと! それは由々しき悩みだ! 君ほどの才能があれば、国を動かすことすら可能だろう!」と王子。
私は、エリスに視線を移した。
「エリスさんのように、自分の力で道を切り拓いていく生き方も、素敵ですわよね。わたくし、あなた様を、少し羨ましく思う時がありますの」
「そ、そんな……! わたくしなど、アイナ様に比べれば……!」
謙遜するエリス。
だが、私の本当の狙いは、彼女たちではない。
私は、ゆっくりと、背後に立つ騎士に問いかけた。
「――ねえ、サー・ナイト」
彼の肩が、わずかに揺れた。
「あなた様は、どう思われますか? 人は、定められた役割(ルール)の中だけで、生きるべきなのでしょうか。それとも、自らの意志で、運命に抗うことも許されるのでしょうか」
それは、ただの哲学的な問いではない。
『監視役』という役割を与えられた彼自身に、そして『悪役令嬢』という運命を背負った私自身に向けた、刃のような質問だ。
アルバート王子とエリスが、息を呑んで彼を見る。
ローズガーデンの甘い香りの中で、時間だけが止まった。
レオンハルト様は、まっすぐに前を見据えたまま、静かに、しかし、はっきりと答えた。
「……役割(ルール)とは、秩序を守るためのもの。ですが」
彼は、一度だけ、言葉を切った。
そして、そのアクアマリンの瞳を、初めて、まっすぐに私に向けた。
「その役割の中で、何を見、何を感じ、何を選ぶかは――個人の魂の、自由です」
それは、監視役としてでも、騎士としてでもない。
一人の人間、「レオンハルト・アークライト」としての、彼の答えだった。
私の心が、大きく、揺さぶられた。
このゲームは、私が思っているよりも、ずっと――ずっと、奥が深いのかもしれない。
私の唐突な宣戦布告に、レオンハルト様の影がわずかに揺れた気がした。
夕陽の逆光で彼の表情は窺えない。だが、彼の全身から放たれる空気が、ぴんと張り詰めた弦のように緊張を帯びたのを、肌で感じた。
やがて、彼の低い声が、静寂を破った。
「……どういう、意味ですかな。アイナ嬢」
「言葉通りの意味ですわ、サー・ナイト」
私は一歩、彼に近づいた。三メートルの絶対領域を、自ら侵犯する。
「わたくし、監視されるだけの退屈な日々には、もう飽きましたの。これからは、あなたという鉄壁の騎士(ルール)を、このわたくしが、どうやって崩していくか……それを楽しむことにいたしますわ」
挑発。それも、今までの悪役令嬢としての演技ではない。
プレイヤーが、攻略不可能なNPCに対して仕掛ける、イレギュラーな対話。
レオンハルト様は、答えなかった。
ただ、そのアクアマリンの瞳が、夕陽を受けてきらりと光る。その光は、冷たいガラスのようでもあり、静かな炎のようでもあった。
†
翌日から、私の『監視役攻略ゲーム』は始まった。
手始めは、彼の職務の根幹を揺さぶること。
「おはようございます、サー・ナイト。今日も朝早くからご苦労様ですわね」
朝食の席で、私はにこやかに挨拶した。
背後に立つ彼に、淹れたての紅茶のカップを差し出す。
「……職務中です」
彼は、表情一つ変えずにそれを断った。
「まあ、つれない方。これは監視に対する賄賂ではなくて? ただの感謝の印ですわ。わたくし、あなた様のおかげで、夜も安心して眠れますもの」
にっこりと、花が咲くような笑みを浮かべてみせる。
完璧な淑女の振る舞い。だが、その裏にあるのは「あなたを仲間として懐柔しようとしている」という明確なメッセージだ。
彼の眉が、わずかに、本当にわずかに動いた。
「……お気持ちだけ、頂戴いたします」
彼は、決してカップを受け取らなかった。鉄壁。さすがは私の推し。
ならば、次はこれだ。
歴史学の講義中。私は、わざとらしくクシャミをした。
「……くしゅんっ」
背後の彼が、ぴくりと反応する。
私は、寒そうに自分の肩を抱いた。
「少し、冷えますわね……」
さあ、どうする、サー・ナイト。
あなたはただの監視役。被監視対象の体調など、あなたの職務の範囲外のはず。
ここで私に上着をかけるようなことがあれば、それは「監視」ではなく「護衛」――つまり、個人的な感情の介入だ。
教室の誰もが、この奇妙な駆け引きに気づいていない。
私と彼だけの、静かな戦場。
数秒の沈黙の後、彼は動いた。
音もなく私の席に近づき、屈んで何かを拾い上げる。それは、私がわざと床に落としておいた、刺繍入りのハンカチだった。
彼は、それを無言で私の机に置くと、またすっと元の位置に戻っていった。
上着をかけるでもなく、声をかけるでもない。
ただ、事実として、私の「落とし物」を「拾った」だけ。
(……やるじゃない)
私は内心で舌を巻いた。
騎士としての礼節を保ちつつ、監視役としての職務を逸脱しない、完璧な回答。
私の仕掛けた小さな罠を、彼はことごとく、柳のように受け流していく。
ならば――と、私はさらに踏み込むことにした。
†
放課後、私はアルバート王子とエリスを、学園のローズガーデンに呼び出した。
もちろん、私の隣には、影のようにレオンハルト様が控えている。
「おお、アイナ! 君からお茶会に誘われるなんて、まるで夢のようだ!」
アルバート王子が、今日も絶好調にポエミーだ。
「アイナ様、お招きいただき、ありがとうございます……!」
エリスは、少し緊張した面持ちで微笑んだ。
「ええ、ようこそ。今日は、少し皆様にご相談したいことがありましてよ」
私は優雅にお茶を注ぎながら、切り出した。
「実はわたくし、最近、少し悩んでいるのです。このまま、ルーメル家の人間として、決められた道を歩むだけで良いのか、と」
芝居がかった溜息をついてみせる。
「なんと! それは由々しき悩みだ! 君ほどの才能があれば、国を動かすことすら可能だろう!」と王子。
私は、エリスに視線を移した。
「エリスさんのように、自分の力で道を切り拓いていく生き方も、素敵ですわよね。わたくし、あなた様を、少し羨ましく思う時がありますの」
「そ、そんな……! わたくしなど、アイナ様に比べれば……!」
謙遜するエリス。
だが、私の本当の狙いは、彼女たちではない。
私は、ゆっくりと、背後に立つ騎士に問いかけた。
「――ねえ、サー・ナイト」
彼の肩が、わずかに揺れた。
「あなた様は、どう思われますか? 人は、定められた役割(ルール)の中だけで、生きるべきなのでしょうか。それとも、自らの意志で、運命に抗うことも許されるのでしょうか」
それは、ただの哲学的な問いではない。
『監視役』という役割を与えられた彼自身に、そして『悪役令嬢』という運命を背負った私自身に向けた、刃のような質問だ。
アルバート王子とエリスが、息を呑んで彼を見る。
ローズガーデンの甘い香りの中で、時間だけが止まった。
レオンハルト様は、まっすぐに前を見据えたまま、静かに、しかし、はっきりと答えた。
「……役割(ルール)とは、秩序を守るためのもの。ですが」
彼は、一度だけ、言葉を切った。
そして、そのアクアマリンの瞳を、初めて、まっすぐに私に向けた。
「その役割の中で、何を見、何を感じ、何を選ぶかは――個人の魂の、自由です」
それは、監視役としてでも、騎士としてでもない。
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