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第二章 愛は支配でも犠牲でもなく、未来を芽吹かせる“希望の種”となる。
第17話 フロンティアの夜明け
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土の匂いが、肺を満たす。
二年前の俺が嗅いだなら、きっと汚れていると感じたであろうその匂いが、今は何よりも愛おしい。指先で触れる湿った土の感触も、額を撫でる荒野の風も、ぎらぎらと照りつける本物の太陽の光も、すべてが俺が生きている証だった。
「アキさん! お水、こっちにもちょうだい!」
「はいはい、今行くよ」
俺は子供たちの声に笑顔で応え、使い古しのジョウロに水を汲んだ。ここは、俺たちの共同体「フロンティア」。かつて巨大な工場だった施設の跡地を利用して、俺たちは瓦礫の中からささやかな日常を育てていた。水耕栽培のビニールハウスできらめく緑の葉は、この死んだ大地に芽吹いた、俺たちの希望そのものだ。
「俺はもう、番号(ナンバー)じゃない」
ふと、心の中で呟く。
道具でも、資源でも、ましてや人類最後の希望などという重々しいものでもない。ただの、アキ。子供たちに野菜の育て方を教え、日暮れには愛する人の帰りを待つ。そんな、どこにでもいるはずだった、一人の青年に。
「――あまり根を詰めすぎるな。お前はリーダーである前に、俺の番なんだからな」
背後から聞こえた、低く、不器用なほど優しい声に、俺は振り返った。汗と硝煙の匂いを纏ったレオンが、そこに立っていた。防衛隊の訓練を終えてきたのだろう。その灰色の瞳は、ドームで初めて会った頃の凍てつくような鋭さを失い、穏やかな光を湛えて俺だけを映している。
「レオンさん。おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
彼は俺の隣に屈み込むと、ごつい指先で俺の額の汗をそっと拭った。その無骨な仕草が、俺たちの間では最大の愛情表現だと、もう知っている。
「ここは……俺たちが夢見た場所だな」
レオンが、共同体で笑い合う仲間たちの姿を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ああ。そうですね」
ドームが崩壊し、世界は混沌に陥った。だが、俺たちは逃げなかった。戦い、選び、そしてこの場所を築いた。性別(アルファ、ベータ、オメガ)も、繁殖能力の有無も関係ない。ただ、互いを一人の人間として尊重し、支え合って生きていく。そんな当たり前のことが、この世界では奇跡だった。
「おーい、二人とも! いいところでいちゃついてんじゃないよ!」
軽口を叩きながら現れたのは、片腕が武骨な義手になっているジンだった。彼の隣では、サラが呆れたように腕を組んでいる。
「ジン、その義手、調子はどうだい?」
「おう、サラさんの調整のおかげで絶好調だぜ! 見てくれよアキ、今度は指先から火も起こせるようにしたんだ!」
「馬鹿、あんまり余計な機能をつけるんじゃないよ。暴発したらどうするんだ」
サラとジン、そして仲間たちの笑い声。
そうだ。これが、俺が命を懸けて守りたかったもの。俺とレオン、二人だけの世界ではなく、みんながいる、この温かい場所。
その日の夕暮れ、俺とレオンはいつものように、拠点の最も高い場所にある見張り台から、荒野を赤く染めていく夕日を眺めていた。
「綺麗だ……」
「ああ」
俺の肩を抱き寄せ、レオンが短く応える。彼の体温を感じながら、俺はこの平穏が永遠に続けばいいと、心の底から願っていた。
だが、神様は、どうやら俺に安息を与えてくれる気はないらしい。
その穏やかな静寂を破るように、階下から見張り番の切迫した声が響いた。
「エルダー! レオン隊長! 西の街道から旅の商人が一人!……ですが、ひどく怯えています! 何かに追われているようです!」
俺とレオンは顔を見合わせ、すぐさま階下へと駆け下りた。
共同体の門の前では、仲間たちが半狂乱の商人を取り囲んでいた。男は砂と埃にまみれ、その目は恐怖で大きく見開かれている。
「水だ……水をくれ……」
ジンが差し出した水筒を、商人はひったくるように受け取ると、喉を鳴らして飲み干した。そして、少しだけ落ち着きを取り戻すと、震える声で語り始めた。
「……見ちまったんだ……。東の廃都市で……『ガイアの子ら』の、集会を……」
その名前に、サラの表情が険しくなる。最近、急速に勢力を拡大しているという、狂信的な集団だ。
「奴ら……狂ってる……。口々に、同じ言葉を繰り返してた……」
商人は、思い出すだけでも恐ろしい、とでもいうように身を震わせた。
「『聖母は目覚められた』『我らが迎えに行かねば』『最後のオメガ様こそ、我らが聖母だ』……ってな」
聖母。最後のオメガ。
その言葉が、俺の心臓に冷たい杭を打ち込んだ。
ようやく手に入れたはずの平穏な日々に、再び俺自身の存在が、暗く、不吉な影を落とそうとしていた。
レオンが、俺の震える肩を強く抱き寄せた。その腕の力だけが、俺をこの場に繋ぎとめている。
「奴らは、新しい聖地を探しているそうだ」
商人は、俺の顔をまっすぐに見つめて言った。その瞳には、恐怖と、そしてわずかな憐憫の色が浮かんでいた。
「あんたを……『聖母』を、迎え入れるためのな」
荒野の風が、ひときわ冷たく、俺たちの間を吹き抜けていった。
夜の闇が、すぐそこまで迫っていた。
二年前の俺が嗅いだなら、きっと汚れていると感じたであろうその匂いが、今は何よりも愛おしい。指先で触れる湿った土の感触も、額を撫でる荒野の風も、ぎらぎらと照りつける本物の太陽の光も、すべてが俺が生きている証だった。
「アキさん! お水、こっちにもちょうだい!」
「はいはい、今行くよ」
俺は子供たちの声に笑顔で応え、使い古しのジョウロに水を汲んだ。ここは、俺たちの共同体「フロンティア」。かつて巨大な工場だった施設の跡地を利用して、俺たちは瓦礫の中からささやかな日常を育てていた。水耕栽培のビニールハウスできらめく緑の葉は、この死んだ大地に芽吹いた、俺たちの希望そのものだ。
「俺はもう、番号(ナンバー)じゃない」
ふと、心の中で呟く。
道具でも、資源でも、ましてや人類最後の希望などという重々しいものでもない。ただの、アキ。子供たちに野菜の育て方を教え、日暮れには愛する人の帰りを待つ。そんな、どこにでもいるはずだった、一人の青年に。
「――あまり根を詰めすぎるな。お前はリーダーである前に、俺の番なんだからな」
背後から聞こえた、低く、不器用なほど優しい声に、俺は振り返った。汗と硝煙の匂いを纏ったレオンが、そこに立っていた。防衛隊の訓練を終えてきたのだろう。その灰色の瞳は、ドームで初めて会った頃の凍てつくような鋭さを失い、穏やかな光を湛えて俺だけを映している。
「レオンさん。おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
彼は俺の隣に屈み込むと、ごつい指先で俺の額の汗をそっと拭った。その無骨な仕草が、俺たちの間では最大の愛情表現だと、もう知っている。
「ここは……俺たちが夢見た場所だな」
レオンが、共同体で笑い合う仲間たちの姿を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ああ。そうですね」
ドームが崩壊し、世界は混沌に陥った。だが、俺たちは逃げなかった。戦い、選び、そしてこの場所を築いた。性別(アルファ、ベータ、オメガ)も、繁殖能力の有無も関係ない。ただ、互いを一人の人間として尊重し、支え合って生きていく。そんな当たり前のことが、この世界では奇跡だった。
「おーい、二人とも! いいところでいちゃついてんじゃないよ!」
軽口を叩きながら現れたのは、片腕が武骨な義手になっているジンだった。彼の隣では、サラが呆れたように腕を組んでいる。
「ジン、その義手、調子はどうだい?」
「おう、サラさんの調整のおかげで絶好調だぜ! 見てくれよアキ、今度は指先から火も起こせるようにしたんだ!」
「馬鹿、あんまり余計な機能をつけるんじゃないよ。暴発したらどうするんだ」
サラとジン、そして仲間たちの笑い声。
そうだ。これが、俺が命を懸けて守りたかったもの。俺とレオン、二人だけの世界ではなく、みんながいる、この温かい場所。
その日の夕暮れ、俺とレオンはいつものように、拠点の最も高い場所にある見張り台から、荒野を赤く染めていく夕日を眺めていた。
「綺麗だ……」
「ああ」
俺の肩を抱き寄せ、レオンが短く応える。彼の体温を感じながら、俺はこの平穏が永遠に続けばいいと、心の底から願っていた。
だが、神様は、どうやら俺に安息を与えてくれる気はないらしい。
その穏やかな静寂を破るように、階下から見張り番の切迫した声が響いた。
「エルダー! レオン隊長! 西の街道から旅の商人が一人!……ですが、ひどく怯えています! 何かに追われているようです!」
俺とレオンは顔を見合わせ、すぐさま階下へと駆け下りた。
共同体の門の前では、仲間たちが半狂乱の商人を取り囲んでいた。男は砂と埃にまみれ、その目は恐怖で大きく見開かれている。
「水だ……水をくれ……」
ジンが差し出した水筒を、商人はひったくるように受け取ると、喉を鳴らして飲み干した。そして、少しだけ落ち着きを取り戻すと、震える声で語り始めた。
「……見ちまったんだ……。東の廃都市で……『ガイアの子ら』の、集会を……」
その名前に、サラの表情が険しくなる。最近、急速に勢力を拡大しているという、狂信的な集団だ。
「奴ら……狂ってる……。口々に、同じ言葉を繰り返してた……」
商人は、思い出すだけでも恐ろしい、とでもいうように身を震わせた。
「『聖母は目覚められた』『我らが迎えに行かねば』『最後のオメガ様こそ、我らが聖母だ』……ってな」
聖母。最後のオメガ。
その言葉が、俺の心臓に冷たい杭を打ち込んだ。
ようやく手に入れたはずの平穏な日々に、再び俺自身の存在が、暗く、不吉な影を落とそうとしていた。
レオンが、俺の震える肩を強く抱き寄せた。その腕の力だけが、俺をこの場に繋ぎとめている。
「奴らは、新しい聖地を探しているそうだ」
商人は、俺の顔をまっすぐに見つめて言った。その瞳には、恐怖と、そしてわずかな憐憫の色が浮かんでいた。
「あんたを……『聖母』を、迎え入れるためのな」
荒野の風が、ひときわ冷たく、俺たちの間を吹き抜けていった。
夜の闇が、すぐそこまで迫っていた。
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