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第二章 愛は支配でも犠牲でもなく、未来を芽吹かせる“希望の種”となる。
第21話 世界という名の天秤
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あの夜、レオンの言葉が俺の心に突き立てた氷の棘は、朝になっても溶けることはなかった。
共同体は、表面上はいつもと同じ朝を迎えていた。子供たちの笑い声、パンの焼ける匂い、鍛冶場の槌の音。だが、その日常を守るべき俺たちの間には、見えない壁がそそり立っていた。
俺は腫れた目を隠すように顔を洗い、意を決して書斎を出た。案の定、戸口にはレオンが静かに立っている。彼の視線は、俺の行動を監視する看守のそれだった。
「リーダーとしての仕事があります」
俺が静かに、しかし決して目を逸らさずにそう告げると、レオンはわずかに眉を寄せた。彼は何かを言いかけたが、結局、何も言わずに黙って道を開けた。俺たちはすれ違う。その瞬間、互いの肩が触れることさえなかった。こんなにも冷たい朝は、初めてだった。
司令室には、すでにエルダーとサラ、そしてジンが集まっていた。誰もが寝不足のようで、その顔には深い疲労と警戒の色が浮かんでいる。
「昨夜のうちに、ドーム軍残党の動きが各地で確認された。どうやら、本気で何かを仕掛けてくるつもりらしい」
エルダーの重々しい報告に、誰もが息を呑んだ、その時だった。
突如、司令室のすべてのモニターが、強制的に同じ映像に切り替わった。
砂嵐の向こうに、ドームの双頭の鷲の紋章が、不気味に浮かび上がる。すべての通信回線が、完全にジャックされていた。
やがて、モニターに一人の男の姿が映し出された。
軍服に身を包み、冷徹な理性を湛えた瞳を持つ、四十代ほどの男。以前の高官のような狂気的な傲慢さはない。だが、その底知れない冷静さこそが、見る者に言い知れぬ恐怖を与えた。
『我が名はマルクス。崩壊した旧ドーム政府に代わり、人類秩序の回復を担う、新総督である』
男――マルクスは、冷静な口調で語り始めた。
『我々は先日、人類にとって大いなる希望となる人物を保護した』
切り替わった画面に映し出されたのは、枷をはめられ、研究室のような白い部屋の椅子に拘束された、一人の初老の男だった。彼はひどく憔悴していたが、その瞳の奥には、決して屈しないという抵抗の光が宿っている。
「……レン先生……!」
俺の隣に立っていたレオンが、呻くような声を上げた。ドクター・レン。レオンのかつての上官の同志であり、ウイルスの治療法を研究していた、最後の良心。
『ドクター・レンは、ウイルスの活動を完全に抑制する治療法の最終段階にあった。だが、彼の研究を完成させるには、ある“鍵”が不可欠だ』
マルクスの視線が、まるでカメラの向こうにいる俺を正確に見抜いているかのように、鋭さを増した。
『その鍵の名は、アキ・ユウリ。君だ』
そして、彼は全世界に向けて、悪魔の取引を宣言した。
『アキ・ユウリ。君が、自らの意志で我々の元へ来るというのなら、ドクター・レンの研究成果を、我々は全世界に無償で公開することを約束しよう』
司令室が、大きくどよめいた。
「本当か……!?」ジンが、信じられないというように叫ぶ。「治療法が……完成するのか!?」
『だが』と、マルクスは続けた。その声は、どこまでも冷たい。
『もしこの取引を拒否し、我々に刃向かうというのなら、レンの研究は歴史から完全に抹消され、治療への道は永遠に閉ざされるだろう。そして我々は、実力で君という“鍵”を回収しに行く。その過程で、君の愛するその小さな理想郷が、どうなるかは……言うまでもないな』
それは、希望という名の毒薬だった。
俺のたった一つの命と、この世界の未来すべてを、巨大な天秤に乗せる、あまりにも残酷な選択。
俺は、言葉を失って立ち尽くした。
さらに、その混沌を煽るように、モニターの片隅に新たなウィンドウが開く。そこに映し出されたのは、エリアスの恍惚とした顔だった。
『見なさい、アキ! 世界はあなたに“犠牲”を強いる! だが、私と共に来れば、あなたは“救世主”となれる! あなたのその体内の遺伝子こそが、神が人類に与えたもうた、最後の奇跡の種なのですから!』
マルクスとエリアス。
国家と宗教。
二人の支配者は、俺という存在を「治療の鍵」と「神の奇跡」という名の駒として、全世界の人間を観客にした、巨大なゲームを始めたのだ。
通信が切れた後、司令室は一瞬の沈黙に包まれ、次の瞬間、爆発した。
外部回線に、各地の共同体からの通信が、洪水のように殺到し始めたのだ。
『アキをドームへ渡せ! お前たちのエゴで、世界を滅ぼす気か!』
という非難の怒声。
『フロンティアの決断を支持する! 支配者に屈するな!』
という激励の声。
期待、憎悪、願い、嫉妬。
世界中のあらゆる感情が、フロンティアという小さな点に、そしてアキという一人の青年の肩に、容赦なくのしかかってくる。
「……アキ」
レオンが、俺の震える肩に、そっと手を置こうとした。
だが俺は、それを避けるように、無意識に一歩、後ずさっていた。
俺の瞳はもう、レオンを見てはいなかった。
司令室の無数のモニターに映し出される、名も知らぬ世界中の人々の顔。その苦しみと、願いと、そして俺に向けられる眼差しを、ただ、一人で見つめていた。
もう、これは俺とレオンだけの物語ではない。
俺は、世界の中心で、たった一人、あまりにも重い決断を迫られていた。
共同体は、表面上はいつもと同じ朝を迎えていた。子供たちの笑い声、パンの焼ける匂い、鍛冶場の槌の音。だが、その日常を守るべき俺たちの間には、見えない壁がそそり立っていた。
俺は腫れた目を隠すように顔を洗い、意を決して書斎を出た。案の定、戸口にはレオンが静かに立っている。彼の視線は、俺の行動を監視する看守のそれだった。
「リーダーとしての仕事があります」
俺が静かに、しかし決して目を逸らさずにそう告げると、レオンはわずかに眉を寄せた。彼は何かを言いかけたが、結局、何も言わずに黙って道を開けた。俺たちはすれ違う。その瞬間、互いの肩が触れることさえなかった。こんなにも冷たい朝は、初めてだった。
司令室には、すでにエルダーとサラ、そしてジンが集まっていた。誰もが寝不足のようで、その顔には深い疲労と警戒の色が浮かんでいる。
「昨夜のうちに、ドーム軍残党の動きが各地で確認された。どうやら、本気で何かを仕掛けてくるつもりらしい」
エルダーの重々しい報告に、誰もが息を呑んだ、その時だった。
突如、司令室のすべてのモニターが、強制的に同じ映像に切り替わった。
砂嵐の向こうに、ドームの双頭の鷲の紋章が、不気味に浮かび上がる。すべての通信回線が、完全にジャックされていた。
やがて、モニターに一人の男の姿が映し出された。
軍服に身を包み、冷徹な理性を湛えた瞳を持つ、四十代ほどの男。以前の高官のような狂気的な傲慢さはない。だが、その底知れない冷静さこそが、見る者に言い知れぬ恐怖を与えた。
『我が名はマルクス。崩壊した旧ドーム政府に代わり、人類秩序の回復を担う、新総督である』
男――マルクスは、冷静な口調で語り始めた。
『我々は先日、人類にとって大いなる希望となる人物を保護した』
切り替わった画面に映し出されたのは、枷をはめられ、研究室のような白い部屋の椅子に拘束された、一人の初老の男だった。彼はひどく憔悴していたが、その瞳の奥には、決して屈しないという抵抗の光が宿っている。
「……レン先生……!」
俺の隣に立っていたレオンが、呻くような声を上げた。ドクター・レン。レオンのかつての上官の同志であり、ウイルスの治療法を研究していた、最後の良心。
『ドクター・レンは、ウイルスの活動を完全に抑制する治療法の最終段階にあった。だが、彼の研究を完成させるには、ある“鍵”が不可欠だ』
マルクスの視線が、まるでカメラの向こうにいる俺を正確に見抜いているかのように、鋭さを増した。
『その鍵の名は、アキ・ユウリ。君だ』
そして、彼は全世界に向けて、悪魔の取引を宣言した。
『アキ・ユウリ。君が、自らの意志で我々の元へ来るというのなら、ドクター・レンの研究成果を、我々は全世界に無償で公開することを約束しよう』
司令室が、大きくどよめいた。
「本当か……!?」ジンが、信じられないというように叫ぶ。「治療法が……完成するのか!?」
『だが』と、マルクスは続けた。その声は、どこまでも冷たい。
『もしこの取引を拒否し、我々に刃向かうというのなら、レンの研究は歴史から完全に抹消され、治療への道は永遠に閉ざされるだろう。そして我々は、実力で君という“鍵”を回収しに行く。その過程で、君の愛するその小さな理想郷が、どうなるかは……言うまでもないな』
それは、希望という名の毒薬だった。
俺のたった一つの命と、この世界の未来すべてを、巨大な天秤に乗せる、あまりにも残酷な選択。
俺は、言葉を失って立ち尽くした。
さらに、その混沌を煽るように、モニターの片隅に新たなウィンドウが開く。そこに映し出されたのは、エリアスの恍惚とした顔だった。
『見なさい、アキ! 世界はあなたに“犠牲”を強いる! だが、私と共に来れば、あなたは“救世主”となれる! あなたのその体内の遺伝子こそが、神が人類に与えたもうた、最後の奇跡の種なのですから!』
マルクスとエリアス。
国家と宗教。
二人の支配者は、俺という存在を「治療の鍵」と「神の奇跡」という名の駒として、全世界の人間を観客にした、巨大なゲームを始めたのだ。
通信が切れた後、司令室は一瞬の沈黙に包まれ、次の瞬間、爆発した。
外部回線に、各地の共同体からの通信が、洪水のように殺到し始めたのだ。
『アキをドームへ渡せ! お前たちのエゴで、世界を滅ぼす気か!』
という非難の怒声。
『フロンティアの決断を支持する! 支配者に屈するな!』
という激励の声。
期待、憎悪、願い、嫉妬。
世界中のあらゆる感情が、フロンティアという小さな点に、そしてアキという一人の青年の肩に、容赦なくのしかかってくる。
「……アキ」
レオンが、俺の震える肩に、そっと手を置こうとした。
だが俺は、それを避けるように、無意識に一歩、後ずさっていた。
俺の瞳はもう、レオンを見てはいなかった。
司令室の無数のモニターに映し出される、名も知らぬ世界中の人々の顔。その苦しみと、願いと、そして俺に向けられる眼差しを、ただ、一人で見つめていた。
もう、これは俺とレオンだけの物語ではない。
俺は、世界の中心で、たった一人、あまりにも重い決断を迫られていた。
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