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Ride or Die
22・快晴と悪役
しおりを挟む土曜日、良太と榊は地蔵地区にある〔道の駅 ろくどう〕に隣接するキャンプ場に来ていた。
といってもあいにくの雨模様だし、オートキャンプ場ということもあって二人で車内に籠り駄弁っているだけだ。泊まりではなく日帰りの予定である。
跳ね上げたバックドアの左右から荷台までテント生地のシェードを張ればなんとなく、かろうじてアウトドアっぽい雰囲気にはなる。シェードはSUVに最初から付いていたもので、榊がこの車を選んだポイントのひとつであった。天井は低いが、後ろの座席をフラットにすれば男二人でも余裕がある。
良太はコーヒーミルを握り締め、慣れない手つきで豆を挽いていた。向かいに座る榊は雨に煙る景色を眺めつつ、小型のガスコンロで湯を沸かしている。その横顔を盗み見れば表情は穏やかだが、油断はできない。
今朝ほどアパートへ迎えにいったとき、彼の体調が万全ではないことが分かったため心配なのだ。榊はなんでもないふりをしていたが、良太はあっさりこれを看破した。今日の予定は取り止めにして休養してはどうかと意見したが、頭痛薬を飲んだからじきによくなると譲らない。根を詰めたり、疲れが溜まると頭が痛くなることがあるという。
確かに前日の夜は第二性についての講習会があった。講師を依頼していた教諭が来られなくなり、急遽代役を引き受けたことで疲れてもいるだろう。だったら尚のこと休んでもらいたいのだが。
当の榊はといえば、良太の心配をよそに体調や天候はともかくとして、実に晴れやかな心持ちであった。天気は雨だが気分は快晴。講義も無事に済んだし、なによりも覇々木湖遥から、
『天眼様は榊様への興味を失ってしまわれたようです。今後は会食の席を設けることもないかと』
と連絡を受けていたからだ。
また、兄夫婦の娘へと買った食玩やキャラクターグッズについての謝礼も、榊にとって嬉しいものであったのだ。
胸のつかえがとれるとはまさにこれだな、と平穏のありがたさを噛み締めている。池占からの着信もぱったりと途絶えた。
いっそのこと池占の連絡先はアドレス帳から削除して、着信拒否登録しようかと考えている。今後もし遺産だのの法律上の問題があったとしても、事務的な連絡は湖遥か弁護士からくることだろう。弟と繋がっている必要などない。
もうあのΩと顔を合わせずに済む、という開放感の前では断続的な頭痛など瑣末なこと。榊にとってこのデイキャンプはささやかなご褒美みたいなものだった。
「これくらいでいいですか」
と良太がコーヒー豆の細挽きを差し出し、榊はそれを受け取る。
ちょうど平たいケトルが蒸気を上げはじめた。ステンレス製の折りたたみ式ドリッパーでコーヒーを淹れるところを興味深そうに眺める良太が、便利ですねなんていう。普段はほぼ使い捨てのドリッパーかインスタントなので珍しいのかもしれない。
「もらい物。キャンプサークル入ってて、その時に」
元彼女から?と訊こうとした良太だったが、ここで彼の昔の恋人のことを持ち出して気まずくなったら嫌なので、やめた。
「昨日の」
「はい?」
「昨日の講習会に早乙女さん来てなかったけど、何か聞いてるか」
「いえ、特には何も」
団長の早乙女が居ないせいだったのか、青年団のメンバーはいつにも増して寡黙であった。榊は講義が終わった帰り掛けに副団長の男ケ田と一班班長の熊谷から軽く挨拶をされただけで、彼らとは言葉を交わしていない。
「そういや地蔵の連中、質問とか全然してませんでしたよね」
「まあなあ、畜産業やってる人もいるから動物の発情やフェロモン受容の仕組みも知ってただろうし、農業でフェロモンを利用した害虫防除ってのもある。講義の内容くらいなら学習済みだったのかもな」
「農業でフェロモン使うんすか」
「虫のな」
合成の性フェロモンで害虫を誘き寄せて捕獲したり、交尾を阻害して卵の産み付けから農作物を守るのだとか。農薬ではないので環境負荷も低く人間への安全性も高いが、環境条件に左右されやすく手間や管理コストが嵩みやすいというデメリットもある。
そんな話から派生してどういうわけか、良太の同級で集まった飲み会の話題へ移行した。
「あいつらはデカい喧嘩がしたかったんですよね」
俺はそうでもなかったですけど、と良太は左手でジーンズの膝のあたりを擦った。
良太の年代が花園高校に入学したときすでに人身売買組織〔JOKER〕の首魁、籬唇遣は逮捕され、抗争にはほぼケリがついてしまっていた。勇ましい先輩たちに憧れ地元を守りたい一心で、あるいは我こそはと名を上げるために花園高校定時制の門をくぐった者にとっては、悲しいかな祭りの後だったのだ。
「花高に入ったら伝説を作ってやるって、張り切ってたやつが多かった」
だが良太と桜庭のツートップを大将に担いだ世代に与えられた役目は、主に〔JOKER〕の残りカスを駆逐すること。しかし敵の構成員は半数以上が御磨花市から去っていたし、それでも残った者どもはいくつもの細かいチームに分裂したのち自然消滅するか、連合に追われて尻尾を巻いた者がほとんどであった。残党狩りの他は、たまに揉め事があれば仲裁、連合を組んでいる地区との交流と交渉、警備に警護、情報収集や情報交換。真面目に学業、仕事といった平和の維持だ。
意気込んでいた良太の同世代にとって、先輩たちが勝ち取った「地元の平和」はいまいち刺激が足りなかったとみえる。
先月の発情Ω投下事件についても、
「緊急で連合会議したり、犯人を追っかけて雪城地区でカーチェイス、天眼地区越えて風葬地区まで追い詰めたなんて聞いちまったもんだから……」
今の現役は恵まれてるなんて羨む者もいる。
「でも俺は、ぜんぜん退屈じゃなかったですよ」
生涯でただ一度きりの、身を焦がすような激しい恋に落ちたから。
「榊さんを見つけたから」
良太が本心を口にすれば、
「馬鹿言ってんじゃねえ」
と叱る榊の声と表情は柔らかな情愛を湛えていた。高校時代と違い、倫理に則って子供を突き放す大人の冷徹さも、Ωを差し置いてβに執着するαへの哀れみもない。
幾度となく告白しては振られ続けていた、少年だったあの頃からは想像できない幸せ。望みは叶った。夢にまで見た日々がここにある。
それから一部の同期たちの間で、先月の事件で発情したΩを嗾けられて入院した桜庭譲二の死亡説が囁かれていたこと。すっかり回復して飲み会に参加した桜庭を「不死身の譲」と呼び、揶揄って騒いだことなどが良太から語られた。しかも桜庭が持ってきた自作のΩフェロモン対策用マスクというのが某映画に登場した呼吸機そっくりで、いっそう賑々しくなったということも。
ちなみに飲み会では元檸檬姐弩の女たちに取り囲まれて、
『ちょっと桧村、榊先輩は了承してるわけ?』
と威圧感たっぷりに絡まれたりもした。どうやら各所でデートの場面を目撃されていたようなのだが、良太がどこにでも待ち伏せしたり、しつこく付き纏って迷惑をかけているのではないか?と疑っていたらしい。
彼女たちは高校時代の良太が榊に幾度も告白し、その度にはぐらかされたり、αとΩの理想的な関係について諭されていたことを知っている。麗子たち幹部が榊の連絡先を良太に漏らさないよう、徹底して守っていたことも。
良太は誤解を解くために、こちらの一方通行ではなくちゃんと恋人として認めてもらったと説得し、
『麗子さんと鈴鬼さんも知ってる』
と大先輩の名を出せば、訝しげではあるがいちおう信じてもらえた。嘘だったらクレーン車のアームの先に吊るすとも脅された。
話しの種は同期会から転じて、良太と桜庭の曾祖父が兄弟だったことに及んだ。
なんでも桜庭の祖母は、彼らの曾祖父ばかりか高祖母にも会ったことがあるらしい。
「曾祖父さんの母親、名前は確か……ヤエさん?ヤエコだったかな」
彼女は第二次世界大戦時、二人の子供と共に親類を頼り現在の御磨花市に疎開してきたのだそうだ。
「じゃあ良太くんも桜庭くんも、葦館とは……」
「はい、血が繋がってないってことですよね。そりゃ遺産で揉めるわけですよ」
子供たちの父は離婚によって縁を切ったのでも、徴兵されて戦場で命を落としたのでもない。戦争が始まる前にはもう病没していたという。
「ヤエコって人は、不思議な力があったんですって」
いわゆる霊魂や妖怪、あるいは精霊や神様といった超常的存在を感知することができた。
「でもお祓いとか祈祷とか、そういうことはできない人だった」
霊感はあっても対処の方法を知る由もない、ごく普通の人間だった。能力を使って金銭を儲けたりもせず、世間から注目されることもない。ただし親兄弟などのごく近しい身内は知っていたようだが。
あるときどこから漏れ聞いたものか、葦館家の使いが彼女を訪ねてきた。
「葦館の当主って人はセン病とかいうので身体が弱くて」
腺病質のことだろう。
「精神も不安定だったみたいです」
特に最初の妻が難産の末に命を落としてからは全く塞ぎ込んでしまった。さらには彼の縁者が気を利かせたつもりで妾をあてがったのも逆効果で、一層精神の消耗は進行し、悪夢や幻覚に悩まされるようにもなったとか。
「医者も治せない、京都から有名な陰陽師を呼んで祈祷してもらったけど善くならない。せめてなにが原因かだけでも知りたいってんで……」
藁にも縋る思いで八枝子の力を頼ったのだ。葦館家に赴いた彼女は、当主の精神を蝕む原因の最たるものが妾にあることを見抜いた。
「その妾ってのがどうもΩだったぽいんすよね。奥さんいなくなったからって、余計なお世話だっての」
と憤る良太に榊はただ、ああ、と否定でも肯定でもない曖昧な返事をする。
屋敷に置いていたそのΩを多額の手切れ金とともに親里に返したところ、当主はみるみる気力を取り戻していった。
恩返しのつもりだったかどうか定かではないが、葦館は八枝子を後添えに迎えた。二人の子供も引き取り、実の息子たちと遜色なく養育した。しばらく平穏に暮らしていたのだが、
「行方不明になったんですよ、ご当主さん。病弱だから自力でそんな遠くに行けるはずもないのに。警察が屋敷の井戸に潜って探してみたり、山の方まで行って探したけど見付からなかった」
忽然と消えた、まるで神隠しのように。そんな慌ただしい中で葦館の本家というところが出張ってきて取り仕切り、遺体もないまま急急に葬式を済ませてしまった。
「で、そっから遺産相続のいざこざですよ」
八枝子は隙をみて子供二人と尼寺に逃げ込み、そのまま出家して尼僧となった。二人の子は葦館の家には戻らず──正確には一度戻って相続放棄と絶縁の念書を叩きつけ──大工の棟梁に弟子入りをした。
ふと梅霖に霞む山の向こうに視線を投じる榊に合わせ、良太も同じ方向に視軸を向ける。山の中腹に小さく、寺院のような建物が見えた。
「あそこ、清永寺っていう尼寺」
御磨花市にある尼寺といえばそこだけだ。榊は以前、男ケ田から聞いたことがある。
「行ってみるか?」
「………受け継いだものかもしれないんですよね、例の感覚」
例の、とは良太と桜庭に共通する触覚のことだ。Ωには触手のような気色悪さを、榊や龍正からは冷水の如き清廉な気配を感じる。
高祖母が葦館の精神不安の原因を突き止めたのも、弱り切った葦館に纏わりつくΩの痕跡を辿っていったからではないだろうか。他人に憑いたΩの妖気を把握できるほど、彼女の能力は精度が高かったのでは?
良太は近頃、この力を上手く使いこなせばΩを避けることができるんじゃないかと思っている。発情期の性フェロモンに曝露される前に、どこにΩが居るのか感知できれば逃げ切れるはずだと。ならば是非ともご先祖様の力にあやかりたい。理性を失ってΩと番い、榊に捨てられることのないように。
「帰りに寄って拝んでいきます。榊さんと同じ墓に入りたいって願掛けする」
「ご先祖様もあの世で腰抜かすぞ」
いきなり来た子孫によ、と満更でもなさそうに笑う榊に、
「本気ですってば、本気、極楽でも地獄でも側にいたいんで」
と良太も笑って見せるが、心の中では微塵も面白いだなんて思っていない。榊へ向ける愛執は冗談などではないのだから。
その後の二人は最近のことや少し先のことを和やかに語らい、昼時になれば簡易な食事をとった。
帰りに清永寺へ寄って参拝し、良太はそれはもう熱心に手を合わせたものだった。
夜の帳が下りた頃。
花園地区の賀萼町にあるアパート〔コーポ館花〕の二〇三号室。
夕食後に榊がこっそりと鎮痛剤を服用したのを良太は見逃さなかった。やはり頭痛は続いているとみていい。普段よりだいぶ早いこの時間にシャワーを浴びている。鎮痛剤が効いているうちに寝るつもりなのだろう。
ならば良太もそれに倣うまで。同衾しているのに物足りないといえば嘘になるが、体調の悪い相手に性的な接触を求めるほど馬鹿ではない。
程なくして入浴を終えリビングに戻ってきた榊は、ソファへ腰も下ろさずに、
「悪いけど先に寝る」
といって寝室に入る。良太もすぐに烏の行水で身を清め、ベッドへ向かった。
もうすっかり寝ているかと思ったが、意外なことに榊はまだ起きていた。読書灯の淡い橙色に照らされて、横になり本を読んでいる。この間の分厚い、黒いカバーをかけた小説とは違う。
こういうとき良太は後ろから抱き込むようにして寄り添い、榊の頭や銀髪を撫でたり、肩を抱いたり、腰に腕を回したりすることを許されている。いつもの習性で触れようとしたのだが、慌てて伸ばした手を引っ込めた。触れてしまうとそれ以上のこともしたくなる。今日は、しないと決めたのだ。
良太の自戒など露知らず、本を置いた榊は当たり前のように恋人に抱きついて胸の辺りに顔を埋めた。拒まれることはない。
同じことされて、私は池占さんを拒絶したのに。
絶対の庇護のもとに全てを預けられるような安らぎに心が痛む。痛みの根源は罪悪感だ。確かにΩは嫌いだが、かといって差別や排斥をしたいわけではない。ただ異常な関わり方をしてほしくないだけで。黒いスウェット越しに伝わる心臓の鼓動と温かさに、ますます負い目を感じる。自責の念が重く纏わりついて泥沼に沈みそうだ。自分で自分を鼓舞しなければもう立ち行かない。
これしきのことで堕罪意識にとらわれていて悪役が務まるか!
αの王子様とΩのお姫様の仲を邪魔する「悪役β」から降りたつもりはない。悪の素質はあるはずだ。薄情で冷酷で欲深い人でなし。良太を独占したい、Ωを勧めることもしないという身勝手極まりない宣言もした。血をわけた弟を嫌悪し、交流を絶たれて清々しいと喜んだのだから。
「榊さん頭痛ひどいの?」
縋るように身を寄せられた良太は、榊が助けを求めるほど頭を痛めているのかと気が気でない。
「日中よりは楽だから大丈夫」
「本当に?救急安心センターの番号、俺のスマホに登録してあるんで聞いてみますか」
「大袈裟だなあ」
と言ってますます甘えるようにくっ付いてくる恋人の愛らしいこと。今すぐ強くかき抱いて劣情のままに彼を貪り尽くしたい。俺はこの人を大事にする!と良太は自らに言い聞かせて自制心を補強する。にも拘わらず榊は、
「今夜はしたい気分にならない?」
なんて可愛いことを言う。なるかならないかでいえば、もうとっくになっているが非常に我慢している状態だ。今のところまだかろうじて、陽物が欲望の形をとっていないだけで。
「し、しないっすよ今日は」
言った。振り切った。
「頭痛いんでしょ、休まないと」
「薬飲んだから問題ない」
「体調がよくなるまでしません」
貴方を大事にしたいので、と優しさを押し通されて榊はこそばゆい気持ちになる。いまいち悪役っぽくなれない。
「なあ、次の土曜になんともなかったらさあ、抱けよ。その気があるならでいい」
「その気、ありますよ、いつでも」
「予約な」
榊は顔をあげ、
「これくらいは許せ」
と良太の喉に一度だけキスをした。
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