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Ride or Die
23・装い
しおりを挟むドレッサーの鏡に映っている人物の骨格、皮膚と肉の質感は、間違いなく男性のそれである。どれほど優美で繊細であろうとも、生来の肉体的な枠組みは雄性だ。
巳之瀬詩安は発色のよいレッドベージュ系のリップを唇に乗せる。この日のアイメイクはなかなか上手くいったので満足している。こけた頬を誤魔化すために、最近ではチークが欠かせない。目の下の隈はコンシーラーでうまく塗りつぶせている。欠けた左耳も柔らかな髪で隠せば、見られることはないだろう。
光沢のある滑らかなシルクのシャツに袖を通し、軽やかな生地のジャケットとタイトなミモレスカートを選ぶ。
身支度を整えて部屋を出る前に、ドアの前に人気がないことを伺う。ここは池占邸の離れだ。人が来ることなど滅多にないが、それでもこの姿をなるべく誰にも、特に覇々木湖遥や龍正には知られたくなかった。
月に一度か二度、報告のために〔白幻〕に出向く際の巳之瀬は化粧を施し女性のファッションに身を包むが、トランスジェンダーでもオートガイネフィリアでもない。
窓の外、鬱蒼と繁る木々の葉からは雫が滴っている。雨は止んでいるが、念のため傘を持って玄関を出た。地面を覆う松葉に滑らないよう注意して。
車に乗り込み、助手席の下に大きなハイヒールがあることを確かめ、巳之瀬は雪城地区へ向かって車を走らせた。
雪城地区にある〔氷川グランネスト〕内の施設〔白幻〕より池占家へと派遣されている内科医、巳之瀬の表向きの仕事は天眼様の健康管理だ。だが彼に課された本当の任務は、当代の天眼様こと池占辰需の妊孕能を調査すること。
池占辰需は天眼を受け継ぐ前に、神憑りと呼ぶ発情期に儀式を行い、五人もの花婿を番に迎えている。
だが一度として子を宿したことはない。それは即ち、天眼の器の作成に五度も失敗しているということ。
不妊の原因としてまず疑われたのは婿となったαたちだ。彼らの生殖機能に異常があったか否かということだが──いずれも他界しているので、今となっては検査のしようがない。かろうじて残された彼らの生前の身体記録、病歴や遺伝子検査の結果などを調べてみたが、環境を考慮してみても健康そのものとしか判じようがなかった。可能な限り彼らの肉親の遺伝情報を漁ったところで、これといった生殖機能の欠陥、疾患を招くような異変は見つからずじまい。
ならば原因は池占の方にあるのではないか、ということになる。
そこで天眼様の肉体の精査が必要となるわけだが、婿候補となる神権者を輩出する五つの家の間で諍いが起きないわけがない。天眼の神秘に科学が接触するのを嫌う者、検査の方法や場所にこだわる者、ただ単に敵対する家の指向に反対したい者、全くもってまとまらなかった。
そんな中で葦館家の当主、葦館喜内が独断で辰需を連れ出し、息のかかった医療機関で検査を受けさせようとした。こんなことをしたものだから、
『人工授精で葦館の種を植え付けて、次の天眼の器も独占するつもりか!』
と非難を浴びることになる。葦館は信用されていないのだ。もしくは、自分だったらそうする、という四つの家の本音が露呈したということでもあろうか。
五家の争いと天眼の今後を憂いて動いたのが、氷川グループの総帥であった。葦館に泣きつかれたため已むを得ずという噂もある。
天眼を有する池占、神権者を捧げる五家、竜の神和ぎである覇々木の間において、氷川は中立の立場をとっている。グループの重鎮たちは総帥の意を汲み、氷川三千緒に白羽の矢を立てた。
氷川三千緒の運営する〔白幻〕はαとΩの仲介をするだけでなく、Ωの保護、近頃では第二性特効の薬剤開発などにも力を入れている。また、施設長を務める寒崎麻紀子は傘下の医療機器メーカー〔寒崎メディカルシステムズ〕の創業者一族であり、氷川とは親類関係にあるためなにかと都合がいい。
それまでは、
『道楽好きの三男坊がはじめた色物商売』
とさして重要視されていなかったのだが、事態は一変した。
〔白幻〕の医務室でαの顧客担当として働いていた巳之瀬が、池占家付きの医師に抜擢されたのはおよそ四年前。まだ先代の天眼様、池占辰執が生きていた当時。お目見えの挨拶のときのことは、今でも悪い意味で忘れられない。
無彩色な空間の中の寝台に、小さなΩが乾いた遺体のように安置されていた。Ωは意識がほとんどなく衰弱していたが、巳之瀬が近付いた途端αフェロモンに著しく反応したのだ。大きな沼色の目玉が瞬時にぬろんと艶を帯び、身を捩って甲高く吼えたのだ。剥き出しの本能でαを求める絶叫だった。
最初の出産で精神を病んだ辰執は、そのときからもう天眼を使った神託の儀ができる状態ではなくなっていた。後見であった蛍淵家から見放されたのを、葦館が渋々ながら世話係をつけて面倒を見ていたのだという。
とはいえΩである限り発情期は訪れる。精神崩壊したまま婿選の儀式を行い、葦館のαを花婿に迎え生まれたのが第二子、男性型Ωの辰需だ。
「天眼の器」は何人いてもいい。むしろ器同士を衝突させ霊能の強い生き残りに天眼を継がせていくのが、それまでのやり方であったそうだ。まるで蠱毒のようだと、巳之瀬は怖気を震ったものである。
辰執の産んだ子は第二子を除く全てが器として不十分であったとされている。第一子は榊龍時という名で生きているβ男性で、当然ながら器として不適格。第三子は先天異常のため死産、第四子もまた──と続き、いよいよ母体の体力が危ないとなったところで婿選の儀式は封じられた。自動的に辰需が天眼を受け継ぐしかなかったため、葦館喜内にとっては僥倖だったろう。
精を捧げたαたちに遺伝的な欠陥はなかったはずだ、息子の辰需と番った花婿たちと同様に。
だいたいにしてα側に原因があったのだとしても、何人ものαたち全員の生殖機能に問題があったなんてことはあり得ない。巳之瀬はこう予測する。
池占辰需の不妊は先代が発端なんじゃないか?
遺伝したのでは?
先代の第三子と第四子が先天異常による死産だったという記録が、その証左となるのでは?
だがいくら巳之瀬が、何を考えたところで、池占への身体調査は限られている。採取した体液や排泄物を用いた検査だけでは不十分だ。血液検査や造影検査を受けさせたいが、天眼様の血を採ったり造影剤を流し込んでCTやMRIなどとんでもないと激しく反対されている。レントゲンでさえもだ。
これじゃあいつまでたっても池占辰需の不妊要因は特定できそうにない。本当の任務が終わらない限りはΩの玩具のままだ、ずっと、性奴隷のまま──
クラクションを鳴らされて我に返った巳之瀬は、急いで車を発進させる。
いつの間にか交差点で信号待ちをしていたのだ。ここまでの景色は覚えていない。
右手には大規模な工事現場が見える。あそこに建造されるのは新たな〔白幻〕だ。〔氷川グランネスト〕のビルはすでに売却先が決まっている。
ビルはもともと氷川グループの貿易会社の社屋であったのを、総帥が三千緒にくれてやったもの。我が子たちの中でも芸能界に身を置いていた三千緒は風流でユニークで、総帥のお気に入りなのだ。
慎重に車を走らせた巳之瀬は〔氷川グランネスト〕の敷地正面の駐車場に入る。裏には立体駐車場もあるが、いつもここに停めていた。
革靴をハイヒールに履き替え、淑女になりきって運転席を降りる。見られているかもしれないから、これから会う人に。〔白幻〕を統べる女、寒崎麻紀子に。
白亜の城に向かう、ランウェイを行くように堂々とした足取りで。自動ドアを過ぎて受付へ。言葉遣いは女らしく。
受付の美青年は新人のようだ。変な奴がきたとでも言いたげな表情を隠せていない。だが心配は無用、人あしらいに慣熟した古株の受付嬢がすぐさま案内してくれる。
寒崎と会うのはいつも〔白幻〕の応接室。途中でトンネルのような関門を通るが、また新しいものが据え付けられていた。昔はもっと大掛かりで幅をとっていたそうだが、幾度も改良されてどんどん高性能かつスリムになっている。
案内役の女性はここまで。彼女はこの門をくぐる資格を与えられていないのだ。
巳之瀬が今日訪れたのは、天眼様から忌避フェロモンが分泌されなくなったと報告するため。それだけならメールでも事足りるのだが、こうして寒崎と直に会って自分の存在を知らしめたいのだ。この姿をだ。
応接室へ入れば、すでに寒崎が席に着いている。
形式通りの挨拶と報告を済ませた。五分とかからない。
「なるほど分かりました。いつ発情期を迎えるか、それについては予測していますか」
寒崎の声色は冷たい。昔は、こうではなかった。
「前回の発情期から数えれば、あと十五日から二十日ってとこかしら。尿中のホルモン代謝物を測ればより正確な排卵期がわかるはずよ、でも今はまだ変化なしね。ただし発情してまぁたお婿さんを番にしたところで、妊娠できるかどうかは別問題だわ」
華やかな付け爪を強調するために、手振りを用いて話す。
「今まで通りの検査だけじゃ、なぜ孕まないのか原因を突き止めるのは不可能よ。施設長から五家の爺さんたちにお願いしてくれると助かるんだけど。池占の屋敷から外に出すのが嫌ぁなら、あの屋敷にCTスキャンでもMRIでも運びこめばいいのよ、あるでしょ」
お金なら、といって長いネイルの人差し指と親指で輪っかをつくる。
「原因がなんであれ不妊なら治療もしなきゃなんないわ。孕ませたいならね。何でもかんでも自然任せじゃなくって、生殖補助医療を視野に入れてもいいと思う。もっと現代医療を信用したって罰は当たらないんじゃなぁい?」
手元のタブレットから少しだけ顔をあげて一瞥した寒崎は、
「進言してみましょう。報告ご苦労様でした」
と味気なく終わらせようとした。
席を立って応接室から出ていこうとする彼女の背中に、巳之瀬は慌てて縋るように言う。
「あ、久しぶりに一緒に……」
ランチを、と続くその言葉は寒崎に届かなかった。無機質なドアに遮られ、
「お母さん」
と呼ぶ感情は行き場をなくし、虚しく欠けた耳に還ってきた。
父と兄はどうしているだろうか、この白い檻の中で。
幾人ものΩを〔番〕にして。
父と兄は〔白幻〕に住んでいて、たぶんもう外の世界に出ることはない。
父は寒崎麻紀子の元夫、男性型α。母とは留学先で出会い結婚した。
兄は父と母の間に生まれた男性型のα。氷川のお嬢さんと結婚した。
でも、二人とも伴侶がありながらΩと番った。
Ωに狂って、Ωで狂った。
温室育ちの父には、Ωのフェロモンと卑しい品性が強烈な魅力として作用したのだろう。
真面目で常識的な母にきつく当たり、Ωは男に自由と精力を授けてくれる女神だと褒め称えた。
Ωとのセックスに溺れて仕事を休みがちになり、会社も辞めた。
母が父と離婚できたのは、父がΩフェロモンに慣れて熱が冷めてからだった。
歳の離れた兄は、子供の頃はピアノを教えてくれたっけ。
大学を出た兄は外資系企業に就職し、上司の紹介で氷川総帥の娘、深雪さんと出会った。
祝言をあげた兄夫婦を世間は政略結婚などと嘲ったが、彼らは嘘偽りなく仲睦まじかった。
それでも兄はΩのフェロモンに理性を奪われて、番った。
妊娠中だった深雪さんは亡くなった。お腹の子供と一緒に。自殺だった。
このせいで〔寒崎メディカルシステムズ〕は一時期、氷川グループから仕事を干されかけたという。
会社をクビになりΩと共に自堕落な生活を始めた兄は、ほどなくして万引きで捕まった。
あんな世の中の男の手本みたいだった人が、酔っ払ってコンビニ弁当を万引きだってさ。
警察沙汰になっても同居中だったΩは全く要領を得ない。父は兄を放置。
母だけが兄を見捨てなかった。そして父のこともまた、見捨てなかった。
けれど母の見捨てない、とは具体的に──
『いくらでもΩと番わせてあげましょう』
──ということだった。
それがこの白い檻に父と兄を飼っておく理由。
αにはΩが必要だから。
妻と子を犠牲にするほどΩを欲しがるから。
番わせ続ければいい、飽きたら別のΩ、それに飽きたらまた別のΩ。
次は自分の番だ、彼らと同じ誤ちを犯さなくても。
その危機感を持ったのは兄が万引きで捕まったあたりだ。
未成年だった当時、住み慣れた家はすでに父とΩの巣と化していて、忌避フェロモンが色濃く充満していた。αの身ではとても奴らと一緒に生活などできない。名字は巳之瀬のままだが、旧姓に戻った母のもとで生活をしていた。
母が父へと次から次にΩを送り込んで番わせて、兄にも同じく、最初のΩに飽きて正気を取り戻し始めたら違うΩを補充していることを知ってしまった。
このまま男性型αとして成人していったら、いずれ父と兄のようになる。人間性を失ってしまう。あいつらみたいなαの男にはなりたくない。
追い詰められた挙句の安直な考えで、αの男である自身の性別を否定して見せれば、Ωと番わされるのを回避できるんじゃないかと思った。
肉体は男性型αだが心は女、それもβの女であるということにして、母に偽りのカミングアウトをしたのだ。
『私の内面は女なの、Ωと番って雄の役割をするなんて、できないわ』
女性ものの衣服を着て爪を伸ばし、メイクをして喋り方を変え、性同一性障害を演じて心療内科にかかり、女性ホルモンを注射した。
心が女性であることを信じ込ませるために大学では男と付き合い、母に紹介までした。
初期臨床研修中には男性看護師を相手に浮気までしてみせた。
そのおかげかどうか、母が本心でどう思っているのか分からないが、今までΩをあてがわれたことはない。
池占家に派遣されることが決まったとき、あっさりパイプカットをしたことも「心は女」の説得力に一役買っているだろうか。
騙し続けられなければ、否、いくら「心が女」と嘯いたところで細胞の隅々まで男性型αなのだから、Ωをあてがわれる危険性は常にある。
親類と縁を切っても生きていける年齢、知識、技術、貯蓄もあるのに。
どうしてまだ女を装って、白い檻の周りで狂言を続けているんだろう。
父と兄を助けたいんだろうか。
──助ける──って何だっけ。救うって、どういうことだったかな。
空調のきいた快適な部屋を用意してもらって、スタッフに上から下までお世話されて。食うに困らず、催したらいつでも好きなΩと交尾して。
何人もの番がいて、その番でさえ彼らに無償で提供されているものだというのに。
Ωは孕まないよう管理されているから、養育の義務を負うこともない。
番ったΩには個別の居室があって、諍いが起きることもない。
雲の上の楽園みたいなこの場所から、助ける?
必要ないじゃないか、助けなんて。
むしろこのままここで、社会から隔絶されていた方が彼らにとっては幸せなんだ。
〔白幻〕の一番上にあるのは巳之瀬の父と兄の居住区。
最上階ロビーの左右、アクリル壁に仕切られた向こう。右手に伸びる廊下を行けば、父の巣。左手に伸びる廊下を行けば、兄の巣だ。
巳之瀬がこの〔白幻〕の深部まで立ち入ることを許されているのは、施設長の息子であり居住者の家族だから。
すぐさまスタッフが出迎えて、父と兄に会う準備を整えましょうかと気を遣ってくれる。
「いいのよ、ちょっと様子を見に来ただけだから。廊下から覗くだけでいいわ」
もし会いたいと巳之瀬が望めば、従業員はΩの忌避フェロモンをたっぷりと擦りつけられた男の身体を洗浄し、拭いて乾かして、服を着せてという面倒な作業をすることになってしまう。申し訳ないし、待っているのも億劫だ。
許可を得て左手の廊下に足を踏み入れる。兄の方だ。
αを拒絶する忌避フェロモンは臭ってこない。澄んだ空気はとてもΩの住処とは思えないほどだ。Ωの忌避フェロモン物質を消臭除去できる空調設備は〔寒崎メディカルシステムズ〕が開発、製造したもの。オゾン発生器やフィルターには独自の技術が使われている。各部屋の出入り口もまたフェロモンが漏れてこないよう二重になっていて、さらにエアシャワーとセキュリティゲートが配備されていた。
廊下の壁、上半分は強化ガラスで覆われているので中の様子が分かる。突き当たりの部屋にいるのが兄だ。
「相変わらずね」
誰に同意を求めるでもなく呟けば、ついて来たスタッフが、近ごろ肝臓の数値があまりよくないのだと教えてくれた。どうせ酒だろう。
久方ぶりに見た兄は、糸の切れたマリオネットのように椅子に身を預け、衣類は身に付けていない。濁った目は落ち窪み、黒ずんだ肌は乾燥し、筋肉は削げ落ちてずいぶん痩せた。髪も薄く、白く、細くなって、もう高齢者のようだ。彼の視線はぼんやりと虚空を漂い、透明な壁の向こうに肉親が居るのにも気付いていない。
それでも朽ちた男には健全だった頃の面影が微かに残っていて、巳之瀬の胸中に、不意に懐かしさが込み上げる。本当なら兄は今ごろ──
深雪さんも子供も生きていて、家庭があって、
スーツを着てオフィスで働き、出世して、
たまに母や、みんなで集まって賑やかに食事をしたり、
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誕生日やクリスマスにプレゼントを贈ってあげたりして、
正月にはお年玉を、
そうなっていたはずだ、
Ωさえいなければ、父もまともだった、母も、
Ωさえいなければ、こうならずに済んでいた、俺も、
Ωさえいなければ、
──人の幸せを謳歌していたはずだ。
不健康に痩せた男の股間に顔を埋め、αフェロモンを含む精液を搾取するために口淫しているのは丸々と肥えたΩだ。
化け物が死に際の人間から、最後の生命エキスを吸い出そうとしているかのような光景を目の当たりにして、巳之瀬は茫然と立ち竦んだ。なす術もなく喰われる同胞を前に数秒だけ虚脱状態に陥ったほどだが、はっとすぐ気が付いて、
「馬っ鹿みたい」
と言い捨て踵を返す。
そのままロビーへ戻り、右手の廊下へは進まず礼を述べて最上階を後にした。
重い足取りを支えるヒールのバランスを崩さないよう注意を払う。早くここから離れて、安定した革靴に履き替えたかった。
エレベーターで一階に下り、一直線に外を目指す。
「あら、巳之瀬先生じゃありません?」
女性の声。ここの従業員か、それとも以前担当していた顧客のα女性のうちの誰かか。
立ち止まって声の方を向けば、
「は……」
覇々木湖遥。
「……どうして」
ここに、と巳之瀬はそれを言うだけで精一杯だった。
湖遥はいつもと変わらぬ落ち着いた所作で、
「葦館様からこの場所に呼び出しがありまして」
と異性装の相手に臆することなく、穏やかに歩み寄る。
せめて湖遥がこの姿に驚いたのなら、巳之瀬は彼女の反応に合わせて戯けてみせることもできた。忌々しげな様子であったのなら、トランスヘイトは悲しいわ、と被害者ぶることもできただろう。
「これから慌ただしくなりますでしょう」
「そう、でしょう、ね……」
かろうじて当たり障りのない返事をする。
あまりにも普段と同じ声色や口調、表情、態度の湖遥と間近で対峙した巳之瀬は、唐突に底知れぬ水中を覗き込んだような恐れと畏怖を感じた。彼女は平凡な女を装っているだけで、何かとてつもない本性を水底に潜ませている人なんじゃないかと。
「まさか先生と同じ場所に来てたなんて、一緒に来ればよかったですわね。私が車を出しましたのに」
「支度に、手間とってしまうから、いつも……」
「すごくお似合いですわよ。モデルさんみたい」
ようやく外見について触れてくれたおかげで、巳之瀬はペースを取り戻す。「心は女」として振る舞っているときのペースだ。
「ありがと。嬉しいわ。仕事が仕事だから、池占の屋敷では男になりきってるだけなのよ」
「もう全然気が付きませんでした」
それはそうだ、この姿のほうが嘘なのだ。
「仕方ないわ、そういう風に演じてるんだもの。でもこれが本当の……」
偽りの。
「私なの」
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