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24・追跡
しおりを挟む良太が榊のもとから朝帰りした、木曜日の午前八時。
桧村自動車の出勤時間にはまだ少しはやい。自宅のリビングでコーヒーを飲みながら、良太は黒い五百円硬貨のようなものを胸ポケットから取り出した。
榊に手渡されたのだ。持っておけ、と。
『紛失防止用のタグ。もし怪しい車を見付けたら、深追いせずこれを付けて後から追跡した方が安全だ。磁石でくっ付くようになってる。車体にも対応できるだろうけど、そう上手く行くかどうかは分からない』
しかしモノは試しだ、と榊は言った。
『位置情報のアプリで使えるから、しばらく貸しておく。麗子さんと柿岡くんにも話しておくよ』
アプリとは、良太が榊の居場所を把握するために使っているものだ。使用者同士でグループ登録し、多人数で位置情報を確認することもできる。
ただしタグの追跡範囲は約半径一キロ。タグの周囲に追跡者と同機種のスマホやタブレットがあるときにのみ、位置情報が送信される仕組みだ。
アプリを開いてタグ追跡画面を見てみると、タグの現在地が地図上に表示されている。良太の持っているものは桧村自動車に示され、花園高校にあるものは榊の分だ。
さらにもう一つ、花園地区の中央辺りに表示がされてある。覚えがない、誰だ?とその位置を拡大してみると、〔橘商店・花園SS〕とある。
「あ、柿岡か」
花園高校定時制四年の柿岡は、日中はそのガソリンスタンドでアルバイトをしている。早速どこからか情報を得てタグを購入したか、もしくは元から持っていたのかもしれない。相変わらず行動が早いな、とその手際の良さに内心感嘆すると共に、要領の良さを羨ましくも思う。
柿岡のようなそつのない人間と自分をくらべると、どうにも劣等感を抱いてしまう。親友の桜庭や先輩の麗子、月輪の鈴鬼、刀童、幽銭、それから烏丸姉弟に男ケ田に早乙女、と自分にないものを持つ秀でた人々と比較すればきりがない。
今回の発情Ω投下事件だって、襲われたαは優秀であるがゆえに標的となったのだろう。決してΩにモテたいわけではないが、誰かに欲されたい気持ちは確かにある。良太が最も必要とされたい相手は榊龍時だ。
榊さんさえ俺を必要としてくれるなら、それでいいんだけどな。
執着対象からの認証や肯定の欲求が膨れあがると、だいたい碌でもないことを考えてしまう。榊を自分の助けなしでは生きていけない場所に監禁したいとか。身体のどこかに不具合や欠損が生じたら、きっと頼ってくれるだろうとか。精神を病んで依存してくれたら、どんなに気分がいいだろうとか。
およそ愛する者へ向けるべきではない欲求の発露、その悍ましさに吐き気すら催した。本当の望みはこんな淺ましい妄想の実現ではないと、良太は自分で知っているだけに尚更だ。
今日のあなたの運勢は?とテレビからは能天気なBGMが流れ、星座占いが順位とラッキーアイテムを紹介している。
いくら自宅の隣が会社だからといって、いつもはこの時間までゆっくりしていることはない。良太はコーヒーを飲み干す。流しで適当にカップを洗ってから、玄関へ急いだ。
左凪閨介という男は、近代的な〔氷川グランネスト〕の一室よりも、この廃れた建物の一角のほうが不思議とよく眠れる。こうした荒んだ場所は生まれ育った環境に近いのだが、本人は意識してそれを懐古することもない。
窓際のソファで蹲る左凪に朝日が容赦なく降り注ぐ。押し付けがましい太陽にうんざりして、日光を遮るために嫌々起き上がる。
暫し放心し、スマホを見れば時刻は午前八時。そして数件の着信履歴の表示、〔伽〕のオーナーからだ。
どうせ二日続けて店を開けなかったことについての追求だろう、と煩わしく思い、左凪はひとまず無視を決め込む。
ブラインドの昇降コードに手を延ばしかけたところで、階下から物音がした。誰かが何かに躓いて物を散乱させたのだ。続いて、ガシャン、と鉄の檻が開閉される音が響く。
これを聞いた左凪はたちどころに怒りを覚え、すぐさま一階へと向かった。
工場内部の倉庫、そこには鉄格子のはまった牢のような部屋がある。
中には小さな白い影。左凪の番だ。
Ωは設えられたベッドの縁に腰を下ろしたところで、
「ここへは近付くなと言ったはずだ」
地を揺らすような、怒気のこもった声に咎められた。
怯えてベッドから飛び降りたΩに接近した左凪は、害虫を追い払うようにしてΩを急き立てた。
「出て行け、お前のための囲いじゃない」
あからさまな落胆を見せ付けるΩに目もくれず、左凪は先ほどΩが触れた、汚染された寝具を剥がす。これは捨てて、また新しいシーツと毛布を用意するつもりだった。
窓のない室内、広さは十二畳ほど。もともと窓はあるのだが、壁と窓には遮音材を重ね貼りし、その上から吸音材で覆ってあるため日の光は届かない。床は薄紅色のリノリウム。部屋の中にはまるで動物を飼育する檻のように、格子状の鉄筋が金具で固定されている。その鉄格子の向こうにはベッドが一台。素朴な木製の椅子。簡易トイレ。
この場所こそ、左凪が榊龍時のために制作した愛の巣だ。
薄暗い箱の中に佇んで、まだここに存在しない榊の姿を思い描く。彼をこの新居に迎えるにあたって、どんな家具や設備がいいかと自由にイメージを広げるのは、左凪にとって至福の時間だった。
出入り口には鍵を付けなければ。
給水と排水の設備もいずれ。
浴槽を置いて沐浴のスペースも作ってやる。
明るい照明も取り付けよう。暗いと姿が見えないから。
冷暖房も完備するべきだ。夏の暑さや冬の寒さが毒にならないように。
床に絨毯も敷こう。足が冷えないように。
あとはなにを用意しようか──
この廃工場を買ったのは二週間前だ。彼が御磨花市に戻ってきたのを知ってから、二人だけで過ごせる場所を探し求めて購入した。
ここは元々、大型のクリーニング工場と店舗兼事務所だったらしい。今は工場内の機材も取り払われ、用途不明ながらくたばかりが残されている。
だいぶ古くて荒れた建物だが、食品加工工場などと違って生臭さが染みついていないところが気に入った。町場から離れていて人気のないところも都合がいい。職場から近いので利便性もある。それに何より、よく眠れる。彼を取り戻したらあの馬鹿しかいないビルから出て、ここで二人だけで暮らすのだ。
そのためにはまず、奴等の執着を龍時から逸らすためのΩが要る。
捕獲したΩは四体。うち三体は難なく性フェロモンを分泌したため、桜庭譲二、鈴鬼京一、竹之内蓮に送り届けることができた。番持ちの竹之内用に、若く丈夫でフェロモン量の多いΩを生捕りにできたのは幸いだった。ちょうどよく発情期であったことに加え、念のためフェロモン分泌促進剤も投与して準備を整えた。竹之内はあの後、夢中でΩにむしゃぶりついたことだろう。
だが残る一体は使い物になりそうにない。発情しても性フェロモンの分泌量に波があり、安定しないのだ。
さてあの出来損ないをどうするか、考えあぐねて二階に移動する。Ωを入れてある部屋の前まで来ると「あの子」──昔の龍時の格好だけを真似た偽りの番がそこに居た。
少しでも龍時に似ていたらいいのに、と儚い望みをかけて黒髪を銀髪にさせた。
二重瞼を一重に整形させたり、白い制服を着せてみたりしたけれど、全然似ていない。失敗だった。
鼻に詰め物をして鼻梁を高くすれば。めくれあがるほど分厚い唇の肉を削ぎ、ほどよく綺麗に整えれば。太く短い首も引き伸ばしてすっきりと長く、手足も骨延長し、骨盤も削って腰を細くすれば。大きな臀部と無駄に盛り上がった乳房も脂肪と筋肉を切り取り、フェロモン分泌腺を全て切除して臭いを消せば──と様々な方法を思いついたけれど、本物が存在しているのに紛い物を作ろうとするのも虚しいだけだ。だからそれらの手術を受けさせるのをやめた。
欲しいのは本物ただ一人。
偽物は内股になり、股間のところで両手を揉むようにしている。呂律のはっきりしない口調でおずおずと話しかけてきた。
「僕、この間の発情期も我慢してたから……そろそろセックスしてほし……」
言いかけた偽物を無視して部屋へ入る。
汚いマットレスに横たわっていた男性型Ωがこちらに気付いた。
そいつは這い登るようにして脚に縋り付いてくる。鼻を鳴らしながら下腹部あたりに顔を埋め、αの体臭を嗅げば瞬く間に発情状態になった。
我ながらこの、Ωを発情させる体質に嫌気がさす。フェロモンで相手を発情させる──こんなのまるでΩじゃないか。
Ωは鼻を鳴らして体臭を吸い込む。餌を食う魚のように口を動かして、鼻に、口に、肺の奥に、目一杯αフェロモンを取り込んでいる。
深い皺の刻まれた項が見る間に充血し、赤く膨れ上がる。皺の中から広がった粘膜のような薄い皮膚が外気に晒され、滑りを帯びる。
だがどんなに昂っても、このΩからはαの陰茎を勃起させ性交を促す種類のフェロモンは発散されない。それでも交感神経を興奮させる方のフェロモンは色濃く分泌されている。
番経験のない初なαであればこのΩに途方もなく苛立ち、あるいは惹かれ、追い詰めて蹂躙しようとするだろう。だがαの交感神経の活動を高め、Ωの肉体を 窮追させるだけでは不十分なのだ。理性を奪い、強制的にαの副交感神経を興奮させなければ性交には至らない。
Ωがフェロモンの力のみでαと番うためには、揮発性と効果の異なる数種類のフェロモンを分泌しなければならないのだ。
蹴り飛ばすようにΩを払えば、手足をばたつかせて部屋の中央まで転がった。獣のように四つん這いになって雄を求め、尻を高く上げてこちらに向ける。
そいつに近付き上から覗き込んでみると、背中の中央あたりに妙な刺青を入れているのが観察できた。裸の男女が握手しているような、変な印だ。
右足で背中の刺青を踏む。徐々に力を込めていくが、Ωはそれでもなお交尾の体勢を維持している。こいつの背骨や背筋はびくともしない。
どのΩも龍時以外は皆、筋骨は強靭で柔軟性と耐久性がある。こいつらは身長は低いが、太い首や胴体、太腿の筋肉量は健康なβの成人男性並みだという。腰部に至ってはβやαの女に比べてかなり大きい。これでこそ長時間の激しい性行為に狂い続けることが可能なのだ。
そのくせ腕や脛は昆虫の節足のように細く、無様で頼りない。足のサイズもまた小さいため、颯爽と歩いたり、俊敏に走ったりといった運動には到底向かない。
試しに指に唾液を絡ませ、遠慮なくΩの穴に捩じ込んでやれば早速よがりはじめる。
αやΩは唾液腺からもフェロモン物質が分泌される。Ωはαのフェロモン物質を膣内や直腸内にあるフェロモン受容体で受容すれば、化学的な刺激を得ることができる。さらにαの手指や陰茎による物理的刺激と相まれば、Ωは容易に性的快楽の極致に達するのだ。
性感を受けたΩは簡単に絶頂した。指を引き抜いてもまだ痙攣を続ける。だが案の定、オーガズムに達してもαに性交を促す種類のフェロモンは薄いままだ。決定的に分泌量が少ない。これでは「あいつ」の脳を支配できない。
「あいつ」──桧村良太。実に不愉快な男の名だ。虫唾が走る。
一度、龍時が寝静まった適時を見計らい、アパート付近まで行ってみたことがある。奪い返せなくてもせめて番として、なるべく側に居てやりたかったのだ。
あの桧村という若造が去った後であれば、まさか戻って来ることはないだろうと思っていたのだが、期待は裏切られた。
奴は戻って来たのだ、夜中の三時にも関わらず。エンジン音のするバイクではなく自転車を利用して。しかもその時一回きりではない。自転車で、徒歩で、あるいはバイクで、夜間は度々そうやって龍時の住処の周りを彷徨いているのだ。財宝を取られまいと警備するように。
夜は桧村が我が物顔で龍時を守り、日中となれば竹之内と同じ職場だ。鈴鬼や桜庭も不定期に接触している。こんな状態では、自分の番だというのに彼に近付くことすらできない。
悔しいが、やはり奴らの執着を龍時から他のΩへと置き換えないことには、彼を取り戻すことは難しいと悟った。
残るフェロモン分泌促進剤のストックはあと一本。
こいつに投与したとしても、役に立つかどうかは不確定だ。
偽物に命じて病院から促進剤を入手させてはいるものの、あいつはフェロモン分泌が正常であるために効き目の強いものは処方されないのが難点だ。購入できる本数にも制限がある。
いっそのこと新たなΩを捕獲したほうがマシかとも思ったが、このところ売春の摘発が盛んなため、都合のいいΩが手に入りにくい。雪城地区の雪車町公園などは取り締まりの対象区域のひとつだ。他にも素人のΩがαとの性交を求めて集まる場所もあったのだが、それも今や廃れてしまった。警察の目も厳しい。
仕方がないが、しばらくこの出来損ないの様子をみておくしかなさそうだ。
左凪はΩの淫水で汚れた右手に消毒液のボトルを傾け、ぞんざいに清めた。それでもΩは腰をくねらせ、まだ足りない、と愛液と涙を垂らして懇願している。
このΩが性フェロモンを分泌するようになるまで時間を要した。
そしてようやく良太へのプレゼントが準備できたのは、数日後の月曜のことであった。
月曜の午後、四時に少し前。
良太は三時半からの休憩を終え、店舗二階の休憩室から一階へ降りる。応接スペースでは母と保険の外交員がなにやら話し込んでいた。顔見知りの外交員に軽く会釈をする。
事務所を出て工場へ行こうとしたところで、外の展示場に誰かいた。
歳の頃は四十代半ばあたりの男性。目元を覆い隠す前髪。黒いハーフコートに、埃のまぶされた黒い革靴。良太はこの男になんとなく奇妙というか、薄気味悪い印象を受けた。
来客用の駐車場には空きがある。どうやら自家用車ではなく、徒歩かタクシーで来た客人と見える。事務所にいる母も整備士の楠田も、この客人の存在に気付いていないのだろうか。
しかも良太がこの人物を妙だと感じたのは、男が展示場に居ながらも商品を選んでいる様子がなかったからだ。ただ事務所のドアの方を向き、じっと立っていた。
不審に思いながらも形式通りの挨拶をして客人に近付く。
「いらっしゃいませ、車をお探しですか?」
対峙した瞬間、この男も自分と同じαだと分かる。だが桜庭や鈴鬼、栃綯、早乙女といった今まで出会った同種とは何か違う。異質な気配だった。
「車が……」
重々しい声色。
「……故障したので、見に来て欲しい」
母は保険屋に応対中だし、整備士の楠田は工場で作業中。父も外出している。今この事務所で手が空いているのは良太ひとりだ。
「はい、じゃあ車、こっちに回してきてもらえませんか」
「動かない」
「全く動かない?」
「ええ」
あくまでも良太を車まで案内したいようだ。
これが例の発情Ω投下事件の起きる前であれば、なんの疑いも持たずこの男についていっただろう。だが今は「黒い乗用車」に警戒中だ。
メーカーと車種、カラーを訊ねたところ、
「種類は分からない。色は黒」
だという。良太はこれまで、自分の所有する車の車種もメーカーも知らずに乗り回しているドライバーなど見たことがなかった。この人は何か、どこかが決定的におかしい、と不信感が募る。しかも車は黒色、ますます怪しい。
幸いポケットには紛失防止用のタグとスマホがある。
この男が犯人かどうかまだ分からない。だがもし車内に白ランの少年がいたとしたら確実だ。その場合は車の調子を見る振りをして、タグを付ければ追跡できる。
発情したΩが乗って居ても、息を止めて鼻腔内にフェロモンを取り込まなければ正気を保てるはずだと良太は踏んだ。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
「分かりました、じゃあ車まで行きましょう」
快諾の言葉に気を良くしたのか、男は口を横に引いて歯を見せた。笑ったのだ。獲物が引っ掛かったとでもいうように。
良太は母に一声かけてから、男の後に従って会社の敷地を出た。
県道に面した桧村自動車の展示場を過ぎ、その車はハザードランプもつけず歩道の前に停車させてあった。
遠目に見ただけでも分かる黒い国産の高級車、全面スモークガラス、ゴールドのメッシュホイール、雪城ナンバー。柏葉から聞いた発情Ω投下に使われた車の特徴と一致する。
車まであと十五メートル──、十、九──
全く動かないと言っていたが、エンジンがかかったままであるところを見るとそれも嘘と思えてならない。
前をゆく男に声を掛ける。
「あそこで急に動かなくなった、ってことですか?」
「ええ」
振り向いたそいつ、いい笑顔だった。目元は長い前髪のせいで分からないが、弓なりのにたにたとした目をしてるはずだ。
こいつは確定か?
まだ〔伽〕にも行ってねえのに、どこで俺の情報を掴んだ。
でも偶然、車両の特徴が一致しているだけの可能性はある。
犯人だとしても桧村自動車にαが、俺がいると知らずに修理依頼しにきただけかも。
これから他所で発情Ωをばら撒くつもりかもしれない。
いずれ安全な人間かどうか判断するには、こいつの塒を突き止めるしかないな。
作業着のポケットからタグを取り出す。
これを車体に付けるなら、奴の見ていないアングルでなきゃいけない。まずは奴を運転席に座らせ、後ろを点検する振りをして後部座席に同乗者がいないか確かめる。スモークフィルムの透過率は二十パーセントくらいか。もっと近付けば中が見える。もし例の白ランのΩが居たら、これを車体にくっ付けてやる。
車のフロント部分まであと数歩。
ここで立ち止まる。
「あのうすみません、お客さんは運転席に乗っていてもらえませんか」
「どうして」
前髪で隠してはいるが、今度は訝しげな視線をこちらに向けているんだろう。
「合図をしたら、試しにアクセルを踏んでもらいたいので。俺は足回りに異常がないか見てみます、こっちの後ろの方を」
と言って助手席側の後部座席を指す。
目撃者の話ではΩが転がり出て来るのはリアドア、それも助手席側だ。奴が俺を罠に嵌めたいなら、獲物が自らそこへ接近することを歓迎するはずだ。
奴は薄ら笑う。ほらみろ、そうだろ?
車のタイヤ辺りを眺める振りをして、注意深く助手席側の側面に沿って歩く。奴はもう運転席だ。
発情したΩの出現に備えて、肺いっぱいに空気を吸い込む。
カーフィルム越し、車内に蠢く影。やっぱり中に誰か居る。一人、いや二人か。
タグを右手に注意深くリアドアの前を過ぎる。
車内には白ランのΩともう一人、発情状態で衣服を身に付けていないΩが乗っていた。
同乗している「偽物」が発情Ωを良太の前に蹴り出せば、あとは理性を失った獣同士。αはΩを後ろから犯し、項に噛みついて番の契約を交わすだけ。
いよいよ後部座席のドアが半分ほど開いたところで──
ドアは完全には開かなかった。
開ききる前に、外から良太が強引に押し返したのだ。
車内では発情したΩが出どころを塞がれ、顔面をガラスに打ちつける。
その隙に良太は、車の屋根に紛失防止用のタグを貼り付けた。
失敗を察知した左凪は車を急発進させ、逃走。
走り去る車からタグが落ちていないことを見届けた良太は、溜めていた息を吐き出した。
ドアの隙間から人間の肌色が見えた刹那の恐怖から解放されると、大きな鼓動と呼吸音が脳を叩く。
良太はすぐさま事務所に駆け戻る。
「ごめん!俺、早退する!」
と母に言い置き、次いで工場にいる楠田にも断りを入れバイクで駆け出した。
ホルダーにセットしたスマホで確認する限り、犯人の車はこのまま行けば月輪か雪城方面に向かうものと推測された。
良太はすでに、柿岡をはじめとする花園のグループにこのことを手短に報告している。だがまだ花園の仲間たちは勤務時間中に違いないのだ。良太がこれだけ融通がきくのも、実家の会社ゆえに甘えが許されているからだろう。他ではこうはいかない。
赤信号に引っ掛かっている間に、標的は月輪地区へ突入したことを示す。
幸いタグは車に付いたままで、順調に移動履歴を届けてくれている。だが追跡距離の範囲外に出てしまえば見失ってしまう。少なくともタグの半径一キロ以内に、追跡者と同メーカーの端末を持った者がいなければならない。
そこを考えると、後ほど余裕を持って探せばいいなんて悠長なことは言ってられなかった。
月輪、とくればガチ高の縄張りだ。誰かと合流したいところだが、まだ夜間定時の登校時間ではない。少なくとも花園高校ではそうだ。
だがガチ高の定時制といえば、実質ファイトクラブと化した「不良の天下一武道会」だ。授業も無いという。ならば早くきて暇を持て余している奴がいるかも、と良太は期待して単車を走らせた。
月輪高校。
私立の工業高校は県内でもなかなか珍しい。しかしてその実態は、全国から折り紙つきの不良が集う凶悪高である。
花園高校とはまた違った威圧感を放つ校舎。燻んだ灰色の学舎には、黒と白を基調とした数多の落書きが施されている。
ここの番長、神鏡空明と良太は顔見知りとはいえ、勝手に校内に立ち入ってはあらぬ誤解を受けかねない。
まずは幽銭あたりに連絡を、としたところで、全日の生徒と思われる少年たちの集団が中から出てきた。
良太は少年らを呼び止め身分を明かし、誰か定時の連中がいたら呼んで来て欲しいと頼んでみる。リーダー格らしき人懐っこそうな少年は存外、快く引き受けてくれた。子犬のように校内へ駆けて行く。
なんだガチ高にも「素直な子供」がいるじゃないか。と良太は関心したが、実のところ少年らは花園がウチの定時に喧嘩を売りに来た!と勘違いして面白がっているだけなのだ。
早く早くと急かされて、暗い校舎の奥から現れた二つの光る目。藍色の羽織、艶消しの黒いざんばら髪。
「なんだよもー、誰が来たって」
猫科の猛獣みたいな欠伸をして出てきたのは、神鏡だった。
「あ、榊先生の後輩くんじゃん。なに?俺とタイマンか」
いいねやろうよ、と神鏡は手招きしてすっかりその気だが、喧嘩どころじゃないと良太は却下した。
「他に誰かいねえのか、幽銭か刀童さん、鈴鬼さんは」
「この時間だとまだ誰も来てねーよ。つか、何しにきたわけ」
「いま犯人を追ってんだよ」
「犯人?」
「例のΩの!」
良太は神鏡にタグの仕組みを手短に説明した。神鏡と共に少年らも真剣な眼差しで聞いていた。うまく伝わったかどうかは、定かでないが。
「えーつまり、タグの周りにお前と同じ機種のスマホ持った奴が居れば、犯人の現在地が分かるってわけだな」
「そうだ。でもこの辺は関係者以外立ち入り禁止になってる場所も多い。工場の敷地は広いしな。こっちで動ける奴がいれば、あちこちに散って電波を受信……ああっヤバい!」
「えっなに」
「消えた!」
ついさっきまで移動中を示していたタグの位置情報が、画面から消えた。受信範囲から外れたのだ。良太は急いでバイクにまたがりエンジンをかける。
「と、とにかく俺は消えたあたりまで行ってみる!お前はガチ高の皆に指示を……」
「待て。俺も乗せていけ」
神鏡は良太と共に追跡すると言う。
「二人乗りできるだろ、その単車。移動しながら幽銭に連絡入れっからよ」
それから神鏡は集まっていた全日の少年たちに言いつける。
「いいかお前ーら、こないだ話した犯人がいま俺らの領域にいる。αを守れ、単独行動させんな。ここに居ねえ奴らにもすぐ伝えろ」
曲がりなりにも月輪地区で幅を効かせているガチ高の頭だけあって、偉そうな態度は様になっている。
「それとこいつと同じスマホの奴、いろんな所にバラけろ」
との番長の指示を補足するように、メモ帳と鉛筆を構えた少年が、
「同じ機種同士を電波で繋いで、網を張るってことっすね?」
と確認する。喧嘩は苦手そうだが、情報の通達と収集で生き抜くタイプだろう。
自分たちの縄張りに犯人が侵入していると知った子供たちは「面白くなってきた」とか「盛り上がっていこうぜ」とか、これから祭りにでも行くかのような騒ぎだ。大はしゃぎで走り去って行く。
バイクの後ろに乗せろと要求した神鏡だったが、ヘルメットなど持っているはずもない。
「お前、メットは?」
「ねーけど」
「ああもう仕方ねえな!」
良太は自らヘルメットを脱いで神鏡に渡した。それを受け取った神鏡は、ひらり、とタンデムシートに飛び乗る。
なんで榊さんのために取り付けたシートにこいつを乗せなきゃならないんだ、とそこは甚だ不満な良太であった。
しかしこれから犯人を追い詰めた先に、発情したΩが待ち構えているかもしれない。そこを考えると神鏡にいてもらった方が安全だ。
噂によれば神鏡は一人で仙銅一派に立ち向かい、主格を打ち負かした強者だという。本人曰く、発情したΩがいてもαをノックアウトして番契約を防いでやる、とのことだ。いずれ他に定時の連中がいないことには神鏡を護衛に連れて行くしか無い。
黒いヘルメットを被った神鏡は、
「よっしゃー、出発進行」
と気の抜けた声で前方を指差す。
「振り落とされても拾わねえからな!」
「レッツゴー、後輩くん」
俺はお前の運転手じゃねえぞ、と良太は喚きながらバイクを発進させた。
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