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Find a Way
25・α vs β
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「発情Ω投下事件」の犯人を追跡する良太は、神鏡を乗せ月輪地区をバイクで駆ける。
途中、協力者と思われる少年たちを追い越す度に、なぜか歓声が上がった。俺はお前らの番長を乗せるお神輿じゃないんだよ!と内心、突っ込みながらタグの表示が消えた辺りまでやってきた。
不景気だった時代にうち捨てられた地帯なのだろう。手入れされていない空き地や朽ちかけた建物が多く、人の気配はまるで無い。道路の両脇から背の高い雑草が覆い被さるように伸び、アスファルトはひび割れている。
整備されていない道路は、背の高い頑丈なフェンスの手前で終わっていた。フェンスの向こうは開けた土地が広がり、その上には高架線が聳えている。あちら側はもう月輪地区ではない。
良太はバイクを停車させた。位置情報共有アプリの画面には、まだ反応なし。
「反応が消えたのはこの辺だな。ここらに怪しい奴がいるとか、そういう情報入ってねえのか?」
「ちょっと待て、着信きてる」
神鏡はそう言ってヘルメットを脱ぐ。懐からスマホを取り出し、折り返しの電話をかけた。
「あ、刀童?今さあ、うん、高速の下のところの……」
電話の相手はガチ高定時の古参、月輪地区で生まれ育った刀童だ。地元には詳しい。
じゃあな、と存外早く神鏡は通話を終えた。
「仕事終わった奴から、幽銭の指示で網を張ってるってよ。そのうち引っ掛かるんじゃねえかな」
「そのうちって、んな悠長なこと……」
「まあ聞け」
天に渡された橋のごとき高架を指差して、神鏡は言う。
「いいか後輩くん、あの道路の下をくぐってあっち側へ抜ける道は、月輪には存在しねえんだ。花園に舞い戻るにしろ遠回りして雪城へ向かうにしろ、ここまで来て別の地区に瞬間移動するなんてのは不可能だ。峠を超えて隣の県に入ろうにも、人通りのある商店街の近くを通らなきゃなんねえしな」
神鏡は続ける。
「タグの電波も拾えねえような広い区間は、たぶんこの辺だけだ。ならまだ月輪に居る」
良太はスマホの画面に目を落とすが、追跡タグからの電波は途絶えたままだ。
「ちょっと前に月光舎っていう、元クリーニング工場を個人で買った奴がいるらしい。試しにそこ、行ってみっか」
「月光舎だな」
タグ電波の回復を待ちつつ〔月光舎〕を探す。
鉄道と高速道路の並走する高架線、その付近を探索するように単車を走らせた。
とある地点まで来たあたりで、ついに位置情報が表示される。奴が網に掛かったのだ。
「来た!」
良太の肩越しに、ホルダーにセットされたスマホを覗き込んでいた神鏡が声を上げる。それから少し伸び上がって左右を見渡し、
「あれ見ろ」
と斜め右を指す。
遠すぎて良太には見えないが、神鏡の目は雑草と廃墟の隙間から、かすんだ〔月光舎〕の白い文字をとらえることができた。位置情報の表示画面と照らし合わせてみても、そこに犯人が潜伏している可能性が高い。
目的地の付近まで移動し、廃工場の裏手に辿りついた。
ちょっと行ってみるわ、と神鏡はバイクの後ろから軽やかに舞い降りる。
「後輩くんはそこで待ってな。あんま近付くとバイクの音で、こっちの動きがバレるかもしれねーから」
と言い残し、さっさと〔月光舎〕に向かって歩き出した。
神鏡は錆びた金網を乗り越え、廃工場のシャッター前に至る。試しに手を掛けて開けてみようとしたが、案の定動かなかった。
他の入り口を探すか、と踵を返したところで、良太が金網の破れ目を強引にこじ開けてやって来た。
「αだろお前、来んなよ」
足手まといだ、と神鏡は良太を遠ざけようとしたが、何やらすこし思案して、
「なあ、Ωを拒否って入院してるやつ、友達なのか?」
と訊く。
良太は黙って深く頷いた。
なら仇はとりてえよな、と誰に同意を求めるでもなく神鏡は呟いた。
「よしよし、そんじゃあ俺がお前をΩから守ってやっから、離れんじゃねーぞ」
「バカにしてんのか」
睨みつける良太など大して気にせず、神鏡は壁伝いに移動する。横に連なる窓から中を伺おうとしたが、窓は半透明の断熱材が貼られているか、所々ボードで塞がれているので見ることはできない。
工場部分が終わったところで、二階建ての建築物が姿を現した。一階は店舗、二階は事務所といったところか。自動ドアなどのガラス面はベニヤ板で覆われ、スプレーで落書きがされてあった。
さて何処から入ろうかと店舗の脇にまわったところで、二人は黒い車を発見した。従業員用の出入り口として使われていたであろう、ドアのすぐ前に駐車してある。
特徴は犯人のものとされる車と一致しており、良太の付けたタグも確認された。車内を覗き込んでみたが、誰もいない。
「やっぱこの中に居るみてえだな」
神鏡はガルバリウムの外壁を見上げ、次いで出入り口のドアノブを静かに引いてみた。
「開いてる」
見ればドアのラッチとデッドボルトの部分にガムテープが貼ってあり、施錠できないようになっている。壊れているのだろうか。
五センチほど開けて中を覗き込む。工場側と違い、この建物の廊下には窓が面していない。光源の無い廊下は、良太にはほぼ真っ暗にしか見えなかった。
「よし行く」
と言ったか言わぬか、神鏡は躊躇せずにドアの内側に侵入する。前の所有者が使っていたであろうスリッパが、埃をかぶって残されていた。良太は靴を脱いで履き替えた方がいいかと戸惑ったが、神鏡はスニーカーのまま玄関の段差を越えて踏み入った。
「暗えな、電気来てんのかここ」
下駄箱の横にスイッチを見付けた神鏡は、それを二、三回押してみる。残念ながら明かりが灯ることはなかった。
しゃあねえか、と夜目の利く神鏡は濃い闇をものともせず歩いて行く。良太はスマホのライトをつけて後に続いた。
良太と神鏡が〔月光舎〕を探し当てるよりも、十五分ほど前。
標的に発情したΩを贈り損ねた左凪閨介は、根城にしている廃工場へと戻って来ていた。車に紛失防止タグを付けられていることなど知る由もない。
店舗脇の出入り口前に車を止める。後部座席から発情したΩを引っ張り出し、自力で歩かせようとしたが、Ωはぐにゃぐにゃとして足腰の骨を失ったような有様だ。埒があかないので、腕を掴み強引に引き摺った。
鍵の破損したドアを開けると、工場まで薄暗い廊下がのびている。
廊下の突き当たりにある引き戸を開けてすぐ、横にスチール製の掃除用具箱が設置されてある。雄を欲して耳障りな呻きをあげるΩをそこに押しやり、
「そこに居ろ」
と命じて閉じ込めた。
白い蘭服の男性型Ωが所在なさげに突っ立っている。彼の庇護者であるはずの〔番〕、左凪は一瞥もせず伏せた一斗缶の上に力無く腰を下ろした。
桧村良太を奴の職場から誘い出すところまでは予定通りだったのだ。だが、後部座席のドアを押し返されるなど想定外の展開だ。
車内に発情したΩがいることを事前に知っていたようにも思えるが、だとすればどこで知ったのか?なぜαでありながら、発情して性交準備の整ったΩを拒むのか?被害者たちの横の繋がりを知らず、一般的な感覚からずれた左凪には理解できない。
左凪にとって榊龍時以外のΩは不愉快な生き物だが、しかしそれなりに使えるモノではあるのだ。
売春で金を稼がせ、貢がせることもできる。発情期のフェロモンを麻薬のように使い、邪淫の限りをつくした宴に興じるαもいるほどだ。束縛を喜び監禁で安心を得る生き物だから、飼育は適当に閉じ込めておくだけでいい。生命力も強く、病気や怪我もすぐ治るので手間もかからない。
自らの過去や〔白幻〕に勤務していた経験上、αやΩの姿を星の数ほど目にしてきた左凪にとってそれは事実だ。例外はない。
淫乱で愚劣で鬱陶しいことに目を瞑れば、αへの依存心が強く、思考停止して言いなりになるΩはそこそこ使い勝手のいい代物だ。なのになぜΩを拒絶するのか、左凪には分からない。
苦悩するように頭を抱え込んだ左凪が、建物の外側から人の気配を感じたのはこのときだった。
外に誰かいる、と身構えたところで、その誰かがシャッターを開けようとした。
足音。話し声。人数はおそらく二人。建物の壁伝いに移動している。
左凪は物音を立てないように注意深く窓際に近付く。ガラスに貼られた半透明の断熱材を少しめくり、奴らの後ろ姿を確認した、あれは──
桧村良太!
まさかΩを追ってきたのか!
一体どんな方法でここを突き止めたのか定かでないが、あの若いαはやはりΩ欲しさに居場所を嗅ぎつけてやってきたのだと左凪は確信した。
ならばお望み通りにあのΩをくれてやろう、と北叟笑む。
蓄電器から延長コードを抜き、掃除用具入れの取手に結びつけた。中にはΩが潜んでいる。奴らがここに立ち入ってきたらコードを引いて、発情状態のΩを解き放つ。プレゼントは準備万端だ。
廊下の突き当たりにあるドアが開かれる音。標的が侵入してきた。
左凪は工場と店舗を隔てるアルミ戸を正面に見据え、工場内で待ち構える。
廊下の突き当たり、そこには上半分に磨りガラスの嵌ったアルミ製の引き戸がある。
引手に指をかけた神鏡は、
「開けるぞ」
と後ろの良太にそう言って、戸を開け放つ。
中には一人の男の姿。
まず神鏡が工場の中に立ち入る。
後続の良太が発情Ω入りの箱の前にさしかかったタイミングで、コードが引かれた。
スチールの軋む音と共に、柩のような匣の中に充満していたΩの性フェロモンが、空気中に一気に溢れ出る。
βの神鏡はこの強烈なΩフェロモンに影響を受けない。
しかしαの良太は、揮発性の高い多量の性フェロモンに毒されないわけがない。正面に立つ人物にのみ注意を向けていたこともあって、まさか横にある箱からΩが出てくるとは予想していなかったのだ。Ωの存在に気付いた時にはもう、目視できない化学物質の脅威に曝され、もろにフェロモンを吸い込んでしまった。
発情したΩの誘惑は、番経験のないαの脳に猛威をふるう。
ライトがついたままのスマホが、良太の手から滑り落ちる。
猛然とΩに襲い掛かろうとする良太の異常を察した神鏡は、咄嗟に肩を掴んで引き戻そうとした。
「お前ここ出ろ!外に行け!」
と厳しく叫んだが、返ってきたのは獣の呻きと理性の拒絶。
Ωの性フェロモンに曝露されたαは、恐怖の反動で臨戦態勢に入った動物のようだった。歯を食いしばり瞳孔は拡大して、体毛が逆立ち筋肉が強張っている。
こうなったら当初宣言した通り、良太を気絶させて番契約を阻止しなければならない。
寸分の狂いもなく顎を狙って振り抜かれた神鏡の拳は、瞬時に良太の意識を失わせた。
標的にΩをけしかける計画、二度目の失敗。
左凪は計画を妨害した慮外者のβに制裁を与え、縄張りから排除してやろうとした。
廃工場の中には、榊龍時を囲う檻を作る際に用意した資機材が残っている。その中から一・五メートルほどの異形鉄筋を取った。
相手はβ、俺は戦える!
もし対戦相手がαならば、階級最下位の左凪は闘争を諦めてこの場所を去っていただろう。自分より上位のαに対して、縄張りを譲り渡さなければならないのだ。
だが敵がβならα同士の階級など関係ない。最下級の自分でも戦って守れるものがある、そう思うと勇気が湧いてきた。
初撃は左凪、渾身の力を込めて武器を振り下ろす。
神鏡はこれを余裕で躱わした。
それでも左凪は敵を仕留めようと躍起になるが、まるで当たらない。鉄の棒が何度も空振る音は、巨大な昆虫が場内を飛び回っているようだ。
素早い身のこなしで間合いを詰めた神鏡は、相手の顔面に拳を叩き込む。良太を気絶させた時と違い、あえて急所を外した攻撃だ。
左凪は殴られた勢いで大きく後退し、壁面に激突する。その衝撃で鉄筋は手から離れ、はるか後方に放り投げられた。けたたましい金属音が響く。痛みで顔は歪み、鼻から鮮やかな赤色が滴り落ちる。
「一方的に殴ってばっかなのは、性に合わねーんだ」
来いよ、と挑発された左凪は、ありったけの力で神鏡に殴りかかった。
ところが喧嘩慣れしていない人間の拳は、神鏡にダメージを与えることはできない。すぐさま反撃の拳が腹部にめり込み、左凪は片膝をついて蹲る。
側から見れば、獅子が余裕で獲物を甚振っているような喧嘩であったが、神鏡は左凪相手の争いにやりづらさを感じていた。
実力差がありすぎるため手加減が難しいのだ。これまで神鏡が対戦してきた猛者どもとは勝手が違う。ともすれば殴り殺してしまいかねない。
弱者なら弱者なりに逃げの姿勢を取るか、降参すればそこで終わりなのだが、相手が戦いを挑んでくる限りはそれに応えなければならない。
そうしている間に、掃除用具のロッカーから這い出たΩが蛭のように良太に絡みつきはじめていた。
「おいおいおい、なにやってんだコラ!」
いったん左凪を蹴り飛ばした神鏡はΩに近付く。
意識のない良太からΩを遠ざけたいが、なにしろ相手は真っ裸だ。まさか髪の毛を掴んで引き離すわけにもいかない。首根っこを掴もうにも、そこは炎症のように赤く腫れ上がり、少しでも触れれば破裂してしまいそうな危うさがある。腕や足などの素肌に触るのも気が引ける。
この人間をどう扱うべきか、神鏡は狼狽した。殴って気絶させりゃいいのか?と思ったが、小柄なΩの細い腕や脛が目に入る。こんな幼児みたいな奴に振るう暴力は、あいにく持ち合わせていない。
「ああもう面倒くせえな!」
仕方なく神鏡はΩの両足の踝を掴み、ジャイアントスイングのように投げ飛ばした。なるべく力を入れず、工場内のがらくたに打つからないよう細心の注意をはらって。
またしても武器を翳して襲いかかる左凪をいなし、そろそろこの喧嘩も終わりに──としたその時、良太が目覚めた。鈍々と上体を起こす。
気絶前に見せていた怯えと攻撃の状態ではないと勘付いた神鏡は、良太が正気に戻ったと安心した。しかし左凪は、先ほど絡みついたΩのフェロモンに曝露されたαが、性交のための最終段階に入ったと見極めた。その証拠に良太の股間はジーンズを押し上げ、固く勃起している。
こうなったαはΩを後ろから犯し項を噛んで番になるまで、否、番になったΩの性フェロモンの分泌が減少するまで正気を取り戻すことはない。痛みにもひどく鈍感になる。視野は狭窄し、音から隔絶され、ちょっとやそっとの刺激で性交を中断することもない。
左凪は攻撃を止め、Ωの元に駆け寄って抱き起こす。良太にΩを近付けて番わせるため、取り行ったのだ。
酔っ払いのように揺れながら立ち上がった良太は、弛緩した表情と視軸の定まらない動きで、その場をうろつき始める。
どうも様子がおかしい、と神鏡が良太の方へ気を逸らした隙を狙い、Ωを持ち抱えた左凪が突進する。
まさか左凪が自分ではなく、良太の方に行くと思わなかった神鏡の対処が遅れた。
生殖本能に支配されたαとΩに、再び遭逢の期が訪れる。
「なにやってんだ!」
怒号を発した神鏡が左凪を殴打する。お前もだ!と再度良太を気絶させようとしたが、今度はΩが邪魔で顎にうまく拳が当たらなかった。
左凪も左凪で、邪魔させるものか!と神鏡の胴に体当たりし、両腕できつく組みついて足止めしようと必死になる。肩や背中に神鏡の拳が振り下ろされた。凄まじい衝撃に耐える。
こうしている間にもΩは四つん這いになり、αを強請って卑語を吠える。良太は前にのめって倒れ込むようにΩに覆い被さった。股間をΩの尻に擦り付けるが、衣服があることすら判断できていない。ようやくベルトのバックルに手をかけるが、手指すら通常通りに動かせずもたついている。
こうしちゃいられない、と神鏡は良太の上着を引っ張ってΩから引き剥がす。仰向けに倒れた良太に、またもやΩが身をくねらせて絡まる。
相手が左凪一人ならまだしも、これに発情したαとΩが加わるものだから二進も三進も行かない。
滑稽な取っ組み合いに、神鏡の焦りが募り始める。
するとここで、工場のシャッターを外側から激しく叩く音がした。
「誰かいるか!」
外から呼びかける声。連合の誰かが駆けつけてくれたのだ。
神鏡は組み付く左凪を引き摺りながらシャッターへと近付き、内側からロックを解除した。
軋んだ音を立ててシャッターが持ち上がる。
紫色の黄昏を背景にして現れたのは、榊龍時だった。
左凪は予期せぬ人物の登場に目を瞠る。
銀髪の青年、彼こそは最愛にして唯一の〔運命の番〕。こうなるともうβの侵入者や良太など眼中にない。
魂で繋がった真実の〔番〕、榊の方へと両腕を広げる。幼児を抱き止める優しい母のように、あるいは妻を受け止める寛大な夫のように。
帰ってきたんだね、俺のもとに。
さあ、おいで!
「あの子」は──彼は自分の胸に飛び込んできてくれるんだ、と微塵も疑っていなかった。桧村良太は発情したΩのフェロモンに我を失ってあのざまだ。ここで俺を選ばないわけがない、と左凪は信じている。
榊はここへ来るなり一目で左凪閨介の存在を認識していた。忘れるわけがない。
かつて自分を凌辱し尽くした、殺してもなお飽き足らぬαの男がいる。不良の巣窟といわれる花園高校で経験を積み成長した今なら、あいつを打ちのめすことができる。だけど──
あんな奴に構っている暇はない!
両腕を広げて待ち構える左凪を素通りし、榊は良太に向かって走り出す。
榊は左凪より、良太を選んだのだ。
「え?龍時……」
無視された衝撃で呆けた左凪を神鏡が殴り飛ばした。
こいつと榊先生は知り合いか?と神鏡は訝しんだが、今はそれについて問いただすよりもまず喧嘩優先だ。目の前の敵と勝負し、甲乙を決しなければならない。
「余所見してんじゃねーぞ、てめえの敵は俺だ」
榊は駆け寄った勢いで良太を床に引き倒す。かつて麗子から特訓を受けた技をもって素早く組み伏せた。
だが良太はまともな状態でない上に、身体が大きく力もある。しかもフェロモンの魔力で痛みも大して感じていない。榊に組み伏せられながらも、本能のままΩを目指して踠き反抗する。このまま痛みを感じずに力尽くの抵抗を続けていれば、腕や肩の間接が壊れてしまう恐れがある。
さらに良太が身動き取れない状態になるや否や、Ωが性交を求めて縋り付いてくるのだ。
「離れてください!離れて!」
Ωを遠ざけるために良太の拘束を解くと、今度は良太がΩに向かう。
意識を失わせなければ、発情状態のαを止められないと分かってはいる。だが良太を失神させるために殴れるか、榊には自信が無かった。拳を振るったところで、躊躇いの混じった打撃で果たして良太を止められるだろうか。
力や技が不足しているからではない。榊にとって良太は唯一無二の愛おしい男なのだ。傷付けたいはずがない。
こっちは神鏡に頼んで自分は左凪を殺るか?それなら容赦なく殴れる。
いや、いっそのこと、Ωの首をへし折って殺した方が早いんじゃないか?そうすれば番契約を阻止できる、と悪魔的な閃きが脳裏をよぎったが──
そこまで落魄れちゃあいねえんだよ!
榊は悪の誘惑に逆らった。迷いを振り払う。良太に貼り付くΩを無情に引き剥がしてうち転がした。
フェロモンの虜になったαと、発情したΩの間に立ち塞がる。Ωの貞操を守るためではない。自分と良太の間に誰も割り込ませないためだ。
これはお前の本能と、私の意地の勝負だ。
拳を構えて狙いを定める。
失敗はしたくない、一発で決める。
ここだ、という一瞬を狙った榊の拳が良太の頭部を打った。
脳震盪を起こした良太が大きくよろめく。
固い床に叩きつけられないよう、榊は気を失った良太を受け止めた。抱き合うような形で二人は床の上に倒れる。
完全に脱力した良太の体の重みを味わい、どうやら上手くいった、と榊は安堵した。
次の相手はΩだ。上着のポケットから点鼻薬タイプのフェロモン分泌抑制剤を取り出し、Ωに投与する。
これでひとまず性フェロモンは抑えられるが、油断はできない。市販薬は一時的にフェロモンの分泌を抑制するものであって、発情を中止させる効果は薄いのだ。
辺りを見回した榊は、場内の隅に放られた白い布を発見した。
最初カーテンかと思ったそれはシーツと毛布であった。なぜ寝具がこんなところにあるのか疑問だが、丁度良いので使わせてもらうことにした。
Ωの裸体を毛布で包もうと背後にまわった榊は、その背中に刺青を見つける。αをアダム、Ωをイブと定める宗教団体〔楽園のきずな教会〕の紋章だ。
ここにきて例の印が現れたことで、やはり今回の事件は宗教がらみか、と思わざるを得なかった。
かたや左凪vs神鏡がどうなったかというと──
勝者、神鏡は「発情Ω投下事件」の犯人を詰問していた。
力量差による上下関係をしっかりと叩き込まれた左凪は疲労し、怯えと諦めで床にへたり込んでいた。
「あんたが発情したΩを、鈴鬼の前に置いてった目的はなんだ」
神鏡はしゃがみ込んで敗者に目線を合わせた。
本物の蛍のように光る虹彩に睨まれて、左凪は強烈な劣等感を植え付けられた。かつて榊が蛍みたいで綺麗だと褒めてくれた自分の瞳が、ひどく安っぽい偽造品のように思えてしまったからだ。
「言えよ、Ωに頼まれたのか?それとも宗教か?」
「か、関係ない、だろ、βには……」
たまらず顔を背ける。
「あるから聞いてんの」
「お前らに、わ、分かることじゃない、運命の番を……」
「なに?」
「取り戻すためだ!」
左凪は意を決して神鏡に挑み掛かろうとしたが、それも徒労に終わる。正確な打撃を与えられ、左凪は敢えなく気を失った。
「俺は情報を聞き出すとか、駆け引きとか、向いてねーんだよな。だいたい犯人捕まえてその後どうするかって、会合で決まってたっけ?」
ぶつくさ言いながら、神鏡はその辺で見つけたガムテープで犯人の口を塞ぎ、手足に厳重に巻きつけた。逃走防止のつもりだ。
「こっちは終わったけど、そっちどうよ?」
と榊に声を掛けて振り向く。
良太は倒れ、榊はΩを介抱しているようだった。向こうもケリがついたらしい。
工場の隅へΩを運んだ榊が手招きして呼ばうので、神鏡はそっちへ移動する。どうせ犯人は失神中だし、手足も縛ったのでここを離れても問題ないと判断した。
Ωはまだ発情が収まらないらしく、白い毛布に巻かれたまま身悶えして呻きを上げていた。
巨大な芋虫みたいで不気味だな、と神鏡は思った。そうでなくても神鏡の異質な目は、Ωの本質とも霊体ともいえるものを知覚してしまうのだから、余計に気持ちが悪い。恐る恐るといった様子でΩに近づく。
「……近寄って大丈夫かよ、それ」
「βならなんともありませんよ、ちょっとこれを見て下さい」
とても正気ではないΩに対して榊は一応、
「すみません、刺青を見せてくださいね」
と断わりを入れ、毛布をずらして肉の厚い背中を見せた。そこには直径五センチほどの、〔楽園のきずな教会〕の紋章が印されてある。
「これ、例の宗教のマークだな」
証拠を撮っとかねーとな、と神鏡は気軽にスマホを構える。
「ジンさん、それやっちゃうと性的姿態撮影等処罰法に該当するかもしれないですよ」
「えっ、じゃあやめる。法律のこととかよく分かんねーし」
あっさりと素直に撮影を断念した神鏡だった。
日暮も近い。
電気も通っていない工場内は、刻一刻と闇の気配を濃くしてゆく。
あともう少しで、花園と月輪の仲間がここに来るだろう。
「ま、とりあえずひと段落だな」
神鏡は大げさに溜め息を吐く。人心地ついた榊も、釣られるようにして小さく息をもらした。
それぞれの相手に勝った榊と神鏡は、すっかり失念していたのだ。
その人物を一度も見ていなかった、ということもある。
犯人には協力者がいる。
白い学ランを着た、Ωの存在。
途中、協力者と思われる少年たちを追い越す度に、なぜか歓声が上がった。俺はお前らの番長を乗せるお神輿じゃないんだよ!と内心、突っ込みながらタグの表示が消えた辺りまでやってきた。
不景気だった時代にうち捨てられた地帯なのだろう。手入れされていない空き地や朽ちかけた建物が多く、人の気配はまるで無い。道路の両脇から背の高い雑草が覆い被さるように伸び、アスファルトはひび割れている。
整備されていない道路は、背の高い頑丈なフェンスの手前で終わっていた。フェンスの向こうは開けた土地が広がり、その上には高架線が聳えている。あちら側はもう月輪地区ではない。
良太はバイクを停車させた。位置情報共有アプリの画面には、まだ反応なし。
「反応が消えたのはこの辺だな。ここらに怪しい奴がいるとか、そういう情報入ってねえのか?」
「ちょっと待て、着信きてる」
神鏡はそう言ってヘルメットを脱ぐ。懐からスマホを取り出し、折り返しの電話をかけた。
「あ、刀童?今さあ、うん、高速の下のところの……」
電話の相手はガチ高定時の古参、月輪地区で生まれ育った刀童だ。地元には詳しい。
じゃあな、と存外早く神鏡は通話を終えた。
「仕事終わった奴から、幽銭の指示で網を張ってるってよ。そのうち引っ掛かるんじゃねえかな」
「そのうちって、んな悠長なこと……」
「まあ聞け」
天に渡された橋のごとき高架を指差して、神鏡は言う。
「いいか後輩くん、あの道路の下をくぐってあっち側へ抜ける道は、月輪には存在しねえんだ。花園に舞い戻るにしろ遠回りして雪城へ向かうにしろ、ここまで来て別の地区に瞬間移動するなんてのは不可能だ。峠を超えて隣の県に入ろうにも、人通りのある商店街の近くを通らなきゃなんねえしな」
神鏡は続ける。
「タグの電波も拾えねえような広い区間は、たぶんこの辺だけだ。ならまだ月輪に居る」
良太はスマホの画面に目を落とすが、追跡タグからの電波は途絶えたままだ。
「ちょっと前に月光舎っていう、元クリーニング工場を個人で買った奴がいるらしい。試しにそこ、行ってみっか」
「月光舎だな」
タグ電波の回復を待ちつつ〔月光舎〕を探す。
鉄道と高速道路の並走する高架線、その付近を探索するように単車を走らせた。
とある地点まで来たあたりで、ついに位置情報が表示される。奴が網に掛かったのだ。
「来た!」
良太の肩越しに、ホルダーにセットされたスマホを覗き込んでいた神鏡が声を上げる。それから少し伸び上がって左右を見渡し、
「あれ見ろ」
と斜め右を指す。
遠すぎて良太には見えないが、神鏡の目は雑草と廃墟の隙間から、かすんだ〔月光舎〕の白い文字をとらえることができた。位置情報の表示画面と照らし合わせてみても、そこに犯人が潜伏している可能性が高い。
目的地の付近まで移動し、廃工場の裏手に辿りついた。
ちょっと行ってみるわ、と神鏡はバイクの後ろから軽やかに舞い降りる。
「後輩くんはそこで待ってな。あんま近付くとバイクの音で、こっちの動きがバレるかもしれねーから」
と言い残し、さっさと〔月光舎〕に向かって歩き出した。
神鏡は錆びた金網を乗り越え、廃工場のシャッター前に至る。試しに手を掛けて開けてみようとしたが、案の定動かなかった。
他の入り口を探すか、と踵を返したところで、良太が金網の破れ目を強引にこじ開けてやって来た。
「αだろお前、来んなよ」
足手まといだ、と神鏡は良太を遠ざけようとしたが、何やらすこし思案して、
「なあ、Ωを拒否って入院してるやつ、友達なのか?」
と訊く。
良太は黙って深く頷いた。
なら仇はとりてえよな、と誰に同意を求めるでもなく神鏡は呟いた。
「よしよし、そんじゃあ俺がお前をΩから守ってやっから、離れんじゃねーぞ」
「バカにしてんのか」
睨みつける良太など大して気にせず、神鏡は壁伝いに移動する。横に連なる窓から中を伺おうとしたが、窓は半透明の断熱材が貼られているか、所々ボードで塞がれているので見ることはできない。
工場部分が終わったところで、二階建ての建築物が姿を現した。一階は店舗、二階は事務所といったところか。自動ドアなどのガラス面はベニヤ板で覆われ、スプレーで落書きがされてあった。
さて何処から入ろうかと店舗の脇にまわったところで、二人は黒い車を発見した。従業員用の出入り口として使われていたであろう、ドアのすぐ前に駐車してある。
特徴は犯人のものとされる車と一致しており、良太の付けたタグも確認された。車内を覗き込んでみたが、誰もいない。
「やっぱこの中に居るみてえだな」
神鏡はガルバリウムの外壁を見上げ、次いで出入り口のドアノブを静かに引いてみた。
「開いてる」
見ればドアのラッチとデッドボルトの部分にガムテープが貼ってあり、施錠できないようになっている。壊れているのだろうか。
五センチほど開けて中を覗き込む。工場側と違い、この建物の廊下には窓が面していない。光源の無い廊下は、良太にはほぼ真っ暗にしか見えなかった。
「よし行く」
と言ったか言わぬか、神鏡は躊躇せずにドアの内側に侵入する。前の所有者が使っていたであろうスリッパが、埃をかぶって残されていた。良太は靴を脱いで履き替えた方がいいかと戸惑ったが、神鏡はスニーカーのまま玄関の段差を越えて踏み入った。
「暗えな、電気来てんのかここ」
下駄箱の横にスイッチを見付けた神鏡は、それを二、三回押してみる。残念ながら明かりが灯ることはなかった。
しゃあねえか、と夜目の利く神鏡は濃い闇をものともせず歩いて行く。良太はスマホのライトをつけて後に続いた。
良太と神鏡が〔月光舎〕を探し当てるよりも、十五分ほど前。
標的に発情したΩを贈り損ねた左凪閨介は、根城にしている廃工場へと戻って来ていた。車に紛失防止タグを付けられていることなど知る由もない。
店舗脇の出入り口前に車を止める。後部座席から発情したΩを引っ張り出し、自力で歩かせようとしたが、Ωはぐにゃぐにゃとして足腰の骨を失ったような有様だ。埒があかないので、腕を掴み強引に引き摺った。
鍵の破損したドアを開けると、工場まで薄暗い廊下がのびている。
廊下の突き当たりにある引き戸を開けてすぐ、横にスチール製の掃除用具箱が設置されてある。雄を欲して耳障りな呻きをあげるΩをそこに押しやり、
「そこに居ろ」
と命じて閉じ込めた。
白い蘭服の男性型Ωが所在なさげに突っ立っている。彼の庇護者であるはずの〔番〕、左凪は一瞥もせず伏せた一斗缶の上に力無く腰を下ろした。
桧村良太を奴の職場から誘い出すところまでは予定通りだったのだ。だが、後部座席のドアを押し返されるなど想定外の展開だ。
車内に発情したΩがいることを事前に知っていたようにも思えるが、だとすればどこで知ったのか?なぜαでありながら、発情して性交準備の整ったΩを拒むのか?被害者たちの横の繋がりを知らず、一般的な感覚からずれた左凪には理解できない。
左凪にとって榊龍時以外のΩは不愉快な生き物だが、しかしそれなりに使えるモノではあるのだ。
売春で金を稼がせ、貢がせることもできる。発情期のフェロモンを麻薬のように使い、邪淫の限りをつくした宴に興じるαもいるほどだ。束縛を喜び監禁で安心を得る生き物だから、飼育は適当に閉じ込めておくだけでいい。生命力も強く、病気や怪我もすぐ治るので手間もかからない。
自らの過去や〔白幻〕に勤務していた経験上、αやΩの姿を星の数ほど目にしてきた左凪にとってそれは事実だ。例外はない。
淫乱で愚劣で鬱陶しいことに目を瞑れば、αへの依存心が強く、思考停止して言いなりになるΩはそこそこ使い勝手のいい代物だ。なのになぜΩを拒絶するのか、左凪には分からない。
苦悩するように頭を抱え込んだ左凪が、建物の外側から人の気配を感じたのはこのときだった。
外に誰かいる、と身構えたところで、その誰かがシャッターを開けようとした。
足音。話し声。人数はおそらく二人。建物の壁伝いに移動している。
左凪は物音を立てないように注意深く窓際に近付く。ガラスに貼られた半透明の断熱材を少しめくり、奴らの後ろ姿を確認した、あれは──
桧村良太!
まさかΩを追ってきたのか!
一体どんな方法でここを突き止めたのか定かでないが、あの若いαはやはりΩ欲しさに居場所を嗅ぎつけてやってきたのだと左凪は確信した。
ならばお望み通りにあのΩをくれてやろう、と北叟笑む。
蓄電器から延長コードを抜き、掃除用具入れの取手に結びつけた。中にはΩが潜んでいる。奴らがここに立ち入ってきたらコードを引いて、発情状態のΩを解き放つ。プレゼントは準備万端だ。
廊下の突き当たりにあるドアが開かれる音。標的が侵入してきた。
左凪は工場と店舗を隔てるアルミ戸を正面に見据え、工場内で待ち構える。
廊下の突き当たり、そこには上半分に磨りガラスの嵌ったアルミ製の引き戸がある。
引手に指をかけた神鏡は、
「開けるぞ」
と後ろの良太にそう言って、戸を開け放つ。
中には一人の男の姿。
まず神鏡が工場の中に立ち入る。
後続の良太が発情Ω入りの箱の前にさしかかったタイミングで、コードが引かれた。
スチールの軋む音と共に、柩のような匣の中に充満していたΩの性フェロモンが、空気中に一気に溢れ出る。
βの神鏡はこの強烈なΩフェロモンに影響を受けない。
しかしαの良太は、揮発性の高い多量の性フェロモンに毒されないわけがない。正面に立つ人物にのみ注意を向けていたこともあって、まさか横にある箱からΩが出てくるとは予想していなかったのだ。Ωの存在に気付いた時にはもう、目視できない化学物質の脅威に曝され、もろにフェロモンを吸い込んでしまった。
発情したΩの誘惑は、番経験のないαの脳に猛威をふるう。
ライトがついたままのスマホが、良太の手から滑り落ちる。
猛然とΩに襲い掛かろうとする良太の異常を察した神鏡は、咄嗟に肩を掴んで引き戻そうとした。
「お前ここ出ろ!外に行け!」
と厳しく叫んだが、返ってきたのは獣の呻きと理性の拒絶。
Ωの性フェロモンに曝露されたαは、恐怖の反動で臨戦態勢に入った動物のようだった。歯を食いしばり瞳孔は拡大して、体毛が逆立ち筋肉が強張っている。
こうなったら当初宣言した通り、良太を気絶させて番契約を阻止しなければならない。
寸分の狂いもなく顎を狙って振り抜かれた神鏡の拳は、瞬時に良太の意識を失わせた。
標的にΩをけしかける計画、二度目の失敗。
左凪は計画を妨害した慮外者のβに制裁を与え、縄張りから排除してやろうとした。
廃工場の中には、榊龍時を囲う檻を作る際に用意した資機材が残っている。その中から一・五メートルほどの異形鉄筋を取った。
相手はβ、俺は戦える!
もし対戦相手がαならば、階級最下位の左凪は闘争を諦めてこの場所を去っていただろう。自分より上位のαに対して、縄張りを譲り渡さなければならないのだ。
だが敵がβならα同士の階級など関係ない。最下級の自分でも戦って守れるものがある、そう思うと勇気が湧いてきた。
初撃は左凪、渾身の力を込めて武器を振り下ろす。
神鏡はこれを余裕で躱わした。
それでも左凪は敵を仕留めようと躍起になるが、まるで当たらない。鉄の棒が何度も空振る音は、巨大な昆虫が場内を飛び回っているようだ。
素早い身のこなしで間合いを詰めた神鏡は、相手の顔面に拳を叩き込む。良太を気絶させた時と違い、あえて急所を外した攻撃だ。
左凪は殴られた勢いで大きく後退し、壁面に激突する。その衝撃で鉄筋は手から離れ、はるか後方に放り投げられた。けたたましい金属音が響く。痛みで顔は歪み、鼻から鮮やかな赤色が滴り落ちる。
「一方的に殴ってばっかなのは、性に合わねーんだ」
来いよ、と挑発された左凪は、ありったけの力で神鏡に殴りかかった。
ところが喧嘩慣れしていない人間の拳は、神鏡にダメージを与えることはできない。すぐさま反撃の拳が腹部にめり込み、左凪は片膝をついて蹲る。
側から見れば、獅子が余裕で獲物を甚振っているような喧嘩であったが、神鏡は左凪相手の争いにやりづらさを感じていた。
実力差がありすぎるため手加減が難しいのだ。これまで神鏡が対戦してきた猛者どもとは勝手が違う。ともすれば殴り殺してしまいかねない。
弱者なら弱者なりに逃げの姿勢を取るか、降参すればそこで終わりなのだが、相手が戦いを挑んでくる限りはそれに応えなければならない。
そうしている間に、掃除用具のロッカーから這い出たΩが蛭のように良太に絡みつきはじめていた。
「おいおいおい、なにやってんだコラ!」
いったん左凪を蹴り飛ばした神鏡はΩに近付く。
意識のない良太からΩを遠ざけたいが、なにしろ相手は真っ裸だ。まさか髪の毛を掴んで引き離すわけにもいかない。首根っこを掴もうにも、そこは炎症のように赤く腫れ上がり、少しでも触れれば破裂してしまいそうな危うさがある。腕や足などの素肌に触るのも気が引ける。
この人間をどう扱うべきか、神鏡は狼狽した。殴って気絶させりゃいいのか?と思ったが、小柄なΩの細い腕や脛が目に入る。こんな幼児みたいな奴に振るう暴力は、あいにく持ち合わせていない。
「ああもう面倒くせえな!」
仕方なく神鏡はΩの両足の踝を掴み、ジャイアントスイングのように投げ飛ばした。なるべく力を入れず、工場内のがらくたに打つからないよう細心の注意をはらって。
またしても武器を翳して襲いかかる左凪をいなし、そろそろこの喧嘩も終わりに──としたその時、良太が目覚めた。鈍々と上体を起こす。
気絶前に見せていた怯えと攻撃の状態ではないと勘付いた神鏡は、良太が正気に戻ったと安心した。しかし左凪は、先ほど絡みついたΩのフェロモンに曝露されたαが、性交のための最終段階に入ったと見極めた。その証拠に良太の股間はジーンズを押し上げ、固く勃起している。
こうなったαはΩを後ろから犯し項を噛んで番になるまで、否、番になったΩの性フェロモンの分泌が減少するまで正気を取り戻すことはない。痛みにもひどく鈍感になる。視野は狭窄し、音から隔絶され、ちょっとやそっとの刺激で性交を中断することもない。
左凪は攻撃を止め、Ωの元に駆け寄って抱き起こす。良太にΩを近付けて番わせるため、取り行ったのだ。
酔っ払いのように揺れながら立ち上がった良太は、弛緩した表情と視軸の定まらない動きで、その場をうろつき始める。
どうも様子がおかしい、と神鏡が良太の方へ気を逸らした隙を狙い、Ωを持ち抱えた左凪が突進する。
まさか左凪が自分ではなく、良太の方に行くと思わなかった神鏡の対処が遅れた。
生殖本能に支配されたαとΩに、再び遭逢の期が訪れる。
「なにやってんだ!」
怒号を発した神鏡が左凪を殴打する。お前もだ!と再度良太を気絶させようとしたが、今度はΩが邪魔で顎にうまく拳が当たらなかった。
左凪も左凪で、邪魔させるものか!と神鏡の胴に体当たりし、両腕できつく組みついて足止めしようと必死になる。肩や背中に神鏡の拳が振り下ろされた。凄まじい衝撃に耐える。
こうしている間にもΩは四つん這いになり、αを強請って卑語を吠える。良太は前にのめって倒れ込むようにΩに覆い被さった。股間をΩの尻に擦り付けるが、衣服があることすら判断できていない。ようやくベルトのバックルに手をかけるが、手指すら通常通りに動かせずもたついている。
こうしちゃいられない、と神鏡は良太の上着を引っ張ってΩから引き剥がす。仰向けに倒れた良太に、またもやΩが身をくねらせて絡まる。
相手が左凪一人ならまだしも、これに発情したαとΩが加わるものだから二進も三進も行かない。
滑稽な取っ組み合いに、神鏡の焦りが募り始める。
するとここで、工場のシャッターを外側から激しく叩く音がした。
「誰かいるか!」
外から呼びかける声。連合の誰かが駆けつけてくれたのだ。
神鏡は組み付く左凪を引き摺りながらシャッターへと近付き、内側からロックを解除した。
軋んだ音を立ててシャッターが持ち上がる。
紫色の黄昏を背景にして現れたのは、榊龍時だった。
左凪は予期せぬ人物の登場に目を瞠る。
銀髪の青年、彼こそは最愛にして唯一の〔運命の番〕。こうなるともうβの侵入者や良太など眼中にない。
魂で繋がった真実の〔番〕、榊の方へと両腕を広げる。幼児を抱き止める優しい母のように、あるいは妻を受け止める寛大な夫のように。
帰ってきたんだね、俺のもとに。
さあ、おいで!
「あの子」は──彼は自分の胸に飛び込んできてくれるんだ、と微塵も疑っていなかった。桧村良太は発情したΩのフェロモンに我を失ってあのざまだ。ここで俺を選ばないわけがない、と左凪は信じている。
榊はここへ来るなり一目で左凪閨介の存在を認識していた。忘れるわけがない。
かつて自分を凌辱し尽くした、殺してもなお飽き足らぬαの男がいる。不良の巣窟といわれる花園高校で経験を積み成長した今なら、あいつを打ちのめすことができる。だけど──
あんな奴に構っている暇はない!
両腕を広げて待ち構える左凪を素通りし、榊は良太に向かって走り出す。
榊は左凪より、良太を選んだのだ。
「え?龍時……」
無視された衝撃で呆けた左凪を神鏡が殴り飛ばした。
こいつと榊先生は知り合いか?と神鏡は訝しんだが、今はそれについて問いただすよりもまず喧嘩優先だ。目の前の敵と勝負し、甲乙を決しなければならない。
「余所見してんじゃねーぞ、てめえの敵は俺だ」
榊は駆け寄った勢いで良太を床に引き倒す。かつて麗子から特訓を受けた技をもって素早く組み伏せた。
だが良太はまともな状態でない上に、身体が大きく力もある。しかもフェロモンの魔力で痛みも大して感じていない。榊に組み伏せられながらも、本能のままΩを目指して踠き反抗する。このまま痛みを感じずに力尽くの抵抗を続けていれば、腕や肩の間接が壊れてしまう恐れがある。
さらに良太が身動き取れない状態になるや否や、Ωが性交を求めて縋り付いてくるのだ。
「離れてください!離れて!」
Ωを遠ざけるために良太の拘束を解くと、今度は良太がΩに向かう。
意識を失わせなければ、発情状態のαを止められないと分かってはいる。だが良太を失神させるために殴れるか、榊には自信が無かった。拳を振るったところで、躊躇いの混じった打撃で果たして良太を止められるだろうか。
力や技が不足しているからではない。榊にとって良太は唯一無二の愛おしい男なのだ。傷付けたいはずがない。
こっちは神鏡に頼んで自分は左凪を殺るか?それなら容赦なく殴れる。
いや、いっそのこと、Ωの首をへし折って殺した方が早いんじゃないか?そうすれば番契約を阻止できる、と悪魔的な閃きが脳裏をよぎったが──
そこまで落魄れちゃあいねえんだよ!
榊は悪の誘惑に逆らった。迷いを振り払う。良太に貼り付くΩを無情に引き剥がしてうち転がした。
フェロモンの虜になったαと、発情したΩの間に立ち塞がる。Ωの貞操を守るためではない。自分と良太の間に誰も割り込ませないためだ。
これはお前の本能と、私の意地の勝負だ。
拳を構えて狙いを定める。
失敗はしたくない、一発で決める。
ここだ、という一瞬を狙った榊の拳が良太の頭部を打った。
脳震盪を起こした良太が大きくよろめく。
固い床に叩きつけられないよう、榊は気を失った良太を受け止めた。抱き合うような形で二人は床の上に倒れる。
完全に脱力した良太の体の重みを味わい、どうやら上手くいった、と榊は安堵した。
次の相手はΩだ。上着のポケットから点鼻薬タイプのフェロモン分泌抑制剤を取り出し、Ωに投与する。
これでひとまず性フェロモンは抑えられるが、油断はできない。市販薬は一時的にフェロモンの分泌を抑制するものであって、発情を中止させる効果は薄いのだ。
辺りを見回した榊は、場内の隅に放られた白い布を発見した。
最初カーテンかと思ったそれはシーツと毛布であった。なぜ寝具がこんなところにあるのか疑問だが、丁度良いので使わせてもらうことにした。
Ωの裸体を毛布で包もうと背後にまわった榊は、その背中に刺青を見つける。αをアダム、Ωをイブと定める宗教団体〔楽園のきずな教会〕の紋章だ。
ここにきて例の印が現れたことで、やはり今回の事件は宗教がらみか、と思わざるを得なかった。
かたや左凪vs神鏡がどうなったかというと──
勝者、神鏡は「発情Ω投下事件」の犯人を詰問していた。
力量差による上下関係をしっかりと叩き込まれた左凪は疲労し、怯えと諦めで床にへたり込んでいた。
「あんたが発情したΩを、鈴鬼の前に置いてった目的はなんだ」
神鏡はしゃがみ込んで敗者に目線を合わせた。
本物の蛍のように光る虹彩に睨まれて、左凪は強烈な劣等感を植え付けられた。かつて榊が蛍みたいで綺麗だと褒めてくれた自分の瞳が、ひどく安っぽい偽造品のように思えてしまったからだ。
「言えよ、Ωに頼まれたのか?それとも宗教か?」
「か、関係ない、だろ、βには……」
たまらず顔を背ける。
「あるから聞いてんの」
「お前らに、わ、分かることじゃない、運命の番を……」
「なに?」
「取り戻すためだ!」
左凪は意を決して神鏡に挑み掛かろうとしたが、それも徒労に終わる。正確な打撃を与えられ、左凪は敢えなく気を失った。
「俺は情報を聞き出すとか、駆け引きとか、向いてねーんだよな。だいたい犯人捕まえてその後どうするかって、会合で決まってたっけ?」
ぶつくさ言いながら、神鏡はその辺で見つけたガムテープで犯人の口を塞ぎ、手足に厳重に巻きつけた。逃走防止のつもりだ。
「こっちは終わったけど、そっちどうよ?」
と榊に声を掛けて振り向く。
良太は倒れ、榊はΩを介抱しているようだった。向こうもケリがついたらしい。
工場の隅へΩを運んだ榊が手招きして呼ばうので、神鏡はそっちへ移動する。どうせ犯人は失神中だし、手足も縛ったのでここを離れても問題ないと判断した。
Ωはまだ発情が収まらないらしく、白い毛布に巻かれたまま身悶えして呻きを上げていた。
巨大な芋虫みたいで不気味だな、と神鏡は思った。そうでなくても神鏡の異質な目は、Ωの本質とも霊体ともいえるものを知覚してしまうのだから、余計に気持ちが悪い。恐る恐るといった様子でΩに近づく。
「……近寄って大丈夫かよ、それ」
「βならなんともありませんよ、ちょっとこれを見て下さい」
とても正気ではないΩに対して榊は一応、
「すみません、刺青を見せてくださいね」
と断わりを入れ、毛布をずらして肉の厚い背中を見せた。そこには直径五センチほどの、〔楽園のきずな教会〕の紋章が印されてある。
「これ、例の宗教のマークだな」
証拠を撮っとかねーとな、と神鏡は気軽にスマホを構える。
「ジンさん、それやっちゃうと性的姿態撮影等処罰法に該当するかもしれないですよ」
「えっ、じゃあやめる。法律のこととかよく分かんねーし」
あっさりと素直に撮影を断念した神鏡だった。
日暮も近い。
電気も通っていない工場内は、刻一刻と闇の気配を濃くしてゆく。
あともう少しで、花園と月輪の仲間がここに来るだろう。
「ま、とりあえずひと段落だな」
神鏡は大げさに溜め息を吐く。人心地ついた榊も、釣られるようにして小さく息をもらした。
それぞれの相手に勝った榊と神鏡は、すっかり失念していたのだ。
その人物を一度も見ていなかった、ということもある。
犯人には協力者がいる。
白い学ランを着た、Ωの存在。
応援ありがとうございます!
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