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母がそこに
しおりを挟む隣でみのりがタブレットを見ながらひとり頷いている。いったい何を見ているのだろう。
「どうやら、大丈夫みたいね」
こっちに顔を向けて微笑むみのりに心臓が跳ね上がる。惚れてしまいそうになる。勘違いするな。いや、大丈夫だ。どこかで拒否する心も存在する。こういうタイプは苦手なのかもしれない。それでも、心がみのりへ流れてしまいそうにもなる。俺の心はどうなっちまった。これが巷で言う『あざと可愛い』ってやつだろう。違うのだろうか。
空を仰ぎ見て冷静さを取り戻す。今はみのりの虜になっている場合じゃない。
タブレットだ。気になる。いったい、あそこには何が映し出されているのか。
時歪みの管理者とか言っていた。それがどんな者のことなのかわからないが、おそらくタイムトリップした者の監視役みたいなものなのだろう。ということは、未来人とか。ありえる。それはそうと、『大丈夫』との言葉は何が大丈夫なのだろう。わからないままいるのは落ち着かない。ならば、訊くまでだ。
「大丈夫って何が」
「それは秘密ですよ」
人差し指を唇に当てて、微笑む。
まったくこいつは。ひとつひとつの仕種が可愛くもあり、イラつきもする。やっぱり、苦手かもしれない。
それにしても、秘密って。そう言われると好奇心の虫が騒ぎ出す。知りたいモードにスイッチオンだ。
俺はタブレットをそっと覗こうとする。その瞬間、みのりはタブレット画面を胸元に押し付け睨みつけてきた。
守りは鉄壁か。何も見えなかった。
みのりのやつ、まだ睨んでいやがる。
「わかった。もう見ないから。覗かないから。睨むなって」
「本当の本当ですね。なら、許してあげる。見ちゃダメだからね、ゆづっち。エッチなことは考えないこと。わかったわね」
おいおい、エッチなことって言ったか。なんだそれは。誰かが聞いていたら、完全に勘違いするじゃないか。俺が見ようとしたのはタブレットだ。
うわっ、睨みからの天使の微笑み。このツンデレ感は完璧だ。これは計算か。それとも天然なのか。なんだか『ゆづっち』と呼ばれるのも心地よく感じてしまう。みのりは、本当に不思議な存在だ。
「あのさ」
「もう、いいから。みんなに愛されるみのりちゃんだもん。仕方がないわ。これがあたしの罪ね」
ああ、もう。みのりが一番、勘違いしている。
俺を覗き込むようにして微笑むみのり。こいつ、わざとやっているんじゃないのか。
もうダメだ。心を奪われちまう。そうだ、稲山店長と話せば気持ちを切り替えられる。
あれ、いない。
稲山店長は帰ってしまったのかどこにも見当たらない。しかたがない。どうにか気持ちをリセットしなきゃ。そうそう、母だ。母に逢いたい。みのりのことなんて考えるな。単なる協力者だ。そう思え。
『母さん』
母の面影を思い出そうとするが、霞にかかってしまう。写真を見れば、母だとすぐにわかるのに。五歳のときの記憶だ。朧気になって当然だ。優しい存在だったことは間違いない。いつも笑っていた。そんな記憶が残っている。
逢いたい。母に逢いたい。おそらく家に行けばいるだろう。それならばそこへ向かおう。確か、家の場所は変わっていない。家を建て替えた年だったと記憶している。
逢いたい気持ちが募っていく。けど、逢ってもいいのだろうか。
突然、不安が過る。
「あのさ、家に行ってみたいんだけど大丈夫だろうか」
「家っていうと、えっと、実家ってことよね」
みのりは空を仰ぎ見ながら頬に人差指をあてて何かを考えている。
俺はみのりのあざと可愛い攻撃を無視して返答を待つ。逢えるのだろうか。なかなか返事がない。なんだか緊張してきて喉の渇きを覚える。ダメとか言われそうだ。ここは過去の世界だ。母と逢うことで未来が変わってしまう可能性がある。それってあっちゃダメなことだ。映画とかでとんでもないことが起きる場面を目にする。実際に、そんな場面に遭遇するとは思っていなかったけど、やっぱり映画の通りになってしまう恐れはあると思う。母に逢うのはやっぱり無理か。遠くで見るだけなら問題はないだろうか。それでもいいから母の姿をこの目で見たい。
待ち切れずにみのりに声をかけた。
「あの、母さんに逢うのはやっぱりダメだよね」
「ううん、大丈夫よ。逢わせてあげる」
思わぬ反応に呆気に取られてしまった。みのりはスカートを翻して一人で駆け出して行く。いいのか、大丈夫なのか。時歪みの管理者が言うのだから、問題ないのだろうとは思う。不安になりながらもみのりのあとを追いかけて行く。
みのりの背中を見ながら、ふと思う。時歪みの管理者って受け入れてしまっているけど、本当にそんな管理者がいるのだろうか。実は、全部夢でしたって結末ってことはないのだろうか。それはないか。こんなリアルな夢があるはずがない。疑問は他にもある。いろんな、なぜが頭の中を駆け巡る。いずれ、わかることなのだろうか。
今は、流れに身を任せるしかないか。母と逢える。その喜びを味わおう。
それはそうと、みのりは行先をわかっているのか。
「ちょっと、ちょっと。待てよ。俺の家、わかるのか」
みのりは立ち止まり振り返ると「ええ、もちろん。あたし、何度も行っているもん」と口角を上げた。
何度も。そんな馬鹿な。不動産屋で初めて会ったはずだ。首を捻り、みのりをみつめる。みのりの話が本当だったとしても俺とは会ったことがないと思う。違うのだろうか。まさか、隠れて父親と会っていたなんてことはないだろうか。すぐに頭を振った。みのりとはそういう女性なのだろうか。違うと思うけど。
「なに、なに、嫌だ、嫌だ。あたしとキスでもしようとしているの」
「ち、違うって」
「冗談よ。じゃ、行くわよ」
みのりは再び駆け出した。
みのりから数歩遅れて背中をみつめ追いかけて行く。こいつはいったいなんなんだ。完全にみのりのペースに呑み込まれている。どうしたものか。
何気なく、向こうからこっちへ歩いて来る人の姿に目を移して足を止めた。俺は慌てて電柱の陰に隠れる。
どうしよう。向こうから歩いて来るのは、間違いなく母だ。一緒にいるのは五歳のときの俺だろう。写真で見る母がすぐそこにいる。まさか、向こうから来るとは思っていなかった。確かに家の近所だから遭遇することはありえた。逢いたいはずなのに、実際に目にすると躊躇ってしまう。まだ心の準備ができていない。
心臓の鼓動が速まっていく。
「ちょっと、何隠れているの。ほら、逢いたいんでしょ」
「そうだけどさ。どうしていいか、わからなくて」
あっ、この香り。懐かしい。母の匂いだ。意外と覚えているものだな。化粧品の香りなのかシャンプーの香りなのかわからないが、自然と頬が緩んでいく。
母がチラッとだけこっちに目を向けて、目の前を通り過ぎていく。
隣で一緒に歩く五歳の俺とも一瞬目が合ったがすぐに前を向いて行ってしまった。
「行っちゃうよ。いいの」
上目遣いで覗き込まれて心臓が大きく反応する。そんな俺のことは気にするでもなくみのりは言葉を続けた。
「逢いたかったんでしょ。話をしても大丈夫よ。そんなに簡単に未来は変わらないから。あっ、でも息子だとは言わないでね」
そうか、未来は変わらないのか。
母の後姿を見遣り、唾を呑み込む。話といっても、何を話したらいいのだろう。
『未来から来たあなたの息子です。ずっと、逢いたかった』
浮かんだ言葉をすぐに頭から払い除ける。
それは言ってはいけないのだろう。言えたとしても、おかしな人だと思われて避けられてしまう。それとも母だったら信用してくれるだろうか。ダメだ、未来がおかしな変化をとげてしまったら困る。母の姿を見ることができただけでいい。元気な顔を見られただけでいい。
ただ、母にはもっと長生きしてほしかった。そんなこと願ってはいけない。それは許されることじゃない。未来を変えたい衝動にかられる。
ダメだ、おかしなことを考えてしまう。冷静でいられるうちに帰ったほうがいい。そう思うのに、心のどこかで父と母と俺と三人で暮らす未来を夢見てしまう。母が病気にならない人生を送れるとしたら。原因は父にある。きっと、そうだ。子供の頃のことではっきりとは覚えていないが、何かトラブルがあった。そのせいで母が精神的におかしくなっていき、病気になってしまった。トラブルが起きなければ、きっと母が長生きできた世界に変えられる。
父に逢って確認すればわかるはず。トラブルを回避させれば母と暮らせる未来がやってくる。
未来を変えることはいけないとわかっていても、どうしても母のいる未来を考えてしまう。
「あのさ、俺。父さんに逢って」
みのりは頭を何度も振り真剣な面持ちで「それ以上、言っちゃダメ」と人差し指を口に押しつけた。
俺はみのりの指を押し返して「なんだよ、俺はまだ何も言っていないぞ」と文句を言った。
「考えていることはなんとなくわかるもの。逢っちゃダメ。時が歪み、災いを呼んじゃうからダメ」
みのりの真剣な顔が真実を告げているとわかる。
「そうなのか。母はよくてなんで父はダメなんだよ」
「それは、その。とにかく、ダメなものはダメなの」
俺は溜め息を漏らして俯き「ダメか。なんとかならないのかな」と呟いた。
みのりはタブレットをじっとみつめて口をギュッと結んでいた。そうかと思うと、あたりを気にするように見回していた。
「まさか、そんな」
まさかってなんだ。俺もあたりに目を向けた。特に変わりはなさそうだ。それならタブレットに驚くことが表示されているのか。
俺はまたタブレットを覗き込もうとしてみのりに睨まれてしまった。
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