9 / 32
猫地蔵
しおりを挟むみのりと稲山店長が、公園を出たすぐの道で難しい顔で話し合っていた。会話は聞き取れないが、ここからその様子がよく見える。いったい何を話しているのだろう。俺に聞かれちゃまずいことなのだろうか。
「ベンチで待っていてください」
稲山店長の何気ない一言に身体が硬直してしまった。背筋を正してしまう声音と凄みのある顔はなんだったのだろう。それくらい大事な話ってことなのか。俺もあそこに加わりたい。なぜ、俺はベンチで待たなきゃいけない。
こっそり聞きにいってみようか。ダメだ、ダメだ。ここで待つしかない。
ああ、もう気になる。
ベンチに座りふたりの様子を窺い、全神経を耳に集中させる。だが、どう頑張っても会話は聞こえてこない。
気になる。気になってしかたがない。我慢できない。近づいて盗み聞きだ。あたりを見回して項垂れる。隠れるような場所がない。こっちから見えるってことは、ふたりのところからここは丸見えだ。ベンチを離れたとわかれば、話もやめてしまうだろう。その前に逆鱗に触れてしまう。さっきの稲山店長の顔と声音を思い出してブルッと震えてしまった。
公園のベンチにひとり。なんだか仲間外れにされている気分だ。まあ、最初から仲間ではないか。あのふたりは何かを隠している。
「俺はどうすりゃいいんだろう」
溜め息を漏らしてぼそりと呟いたとき、みのりの素っ頓狂な声が響いてきた。
どうした。何があった。
「ねぇ、おじさん」
「えっ」
後ろから突然声をかけられてビクッとした。振り返ると五歳の俺が真面目な顔をして立っていた。まずい、接触してしまった。
「おじさんも悩みがあるの」
おじさんか。俺はまだおじさんって年齢じゃないんだけどな。まあ、この年の子供にとって俺はおじさんになるのか。そういえば見知らぬおじさんと会った記憶があったっけ。自分のことなのに。なんだか笑えてくる。そうか、俺の記憶はこのときのものなのかもしれない。あれ、今確か、『おじさんも』って。
悩みがあるんだな、きっと。子供の頃、俺は何を悩んでいたのだろう。正直、覚えていない。記憶の中の父と母は、優しくて笑顔が絶えない仲良し夫婦という印象しかない。俺だって幸せだったはず。いろいろあったのは母が亡くなってからだ。母が健在のときに悩みなんてあっただろうか。
「もしかして、君も何か悩み事があるのかな」
「うん」
「そうか。おじさんでよければ話を聞くよ」
「うん。あのね、パパが最近元気ないんだ。いじめられているのかな」
元気がない。虐められているってことはないと思うけど、なんでそうなったのだろう。そんなことあっただろうか。あったとしたら、覚えていないはずがない。なぜだろう。思い出そうとすると頭が疼く。おかしい。もしかしたら、それから何かがおかしくなりはじめたのかもしれない。母が病気になるのも近いんじゃ。すでに母が病気になっている可能性もあるのか。それで父の元気がないのかもしれない。ありえる話だ。
待てよ、母は元気そうだった。元気そうに振舞っているだけってこともあるのか。違う、そんなことはないはずだ。それなら、他に何かとんでもないことがあったのか。父が何かしたのだろうか。俺が何かしでかしたってこともある。思い出せない。母のこと以外に父の元気がなくなるようなことってなんだろう。この子が悩むくらいだから、相当なものだろう。この子の性格はわかる。俺なのだから当然か。
ダメだ。考えれば考えるほど、頭の疼きとともにこめかみあたりがチリッと痛む。
不安そうな顔の子供時代の俺がすぐそこにいる。
「パパに元気になってもらいたいよな」
「うん、どうすればいいと思う。ぼくにできることあるかな」
何かできることがあるのだろうか。
ふいにどこかの社が頭に浮かんできた。同時に『参拝すれば、すべて解決する』との声音もした。神様の声か。それにしても、どこの神社だろう。
『魔主稲荷神社へ来い』
声音に脳が震えた。聞いたことがない神社のはずなのに、頭の中に道筋が見えた。なんだ、これは。なんだか頭が変だ。頭の中に靄が広がっていく。軽く頭を振り目の前にいる男の子に目を向ける。五歳の俺だっけ。そうだ、伝えなきゃ。
伝える。この子に。なぜだ。疑問が湧いた瞬間、頭の疼きが酷くなり自分が自分でなくなっていくように感じた。
「あのさ」
おかしい。伝えなきゃとの思いが強くなり、勝手に口が動いてしまう。
「良いことを教えてあげる」
五歳の俺に伝えようとしたとき、背中をドンと叩かれた。その瞬間、頭の中の靄が晴れていく。
振り返るとそこに猫がいた。
こいつはアパートにいた猫か。
「我は自性院の猫地蔵である」
しゃべった。嘘だろう。
「おい、聞いたか」
あれ、どうした。五歳の俺がぼんやりしている。
「その子供は我の術にかかっておる。今は、何を話しても耳に届かないぞ」
「術。なんでそんなこと」
「ふん、おまえのためだ。いや、この世のためでもあるのか」
どういうことだ。この世のためってずいぶん大きくでたな。
「あああ、ゆづっち。この子と話しちゃダメって言ったのに」
「大丈夫だ。みのり。我が止めたから問題ない」
「あああ、じぞちゃん。流石」
じぞちゃん。こいつ、そんな名前なのか。というか自性院の猫地蔵だとか言っていなかったか。もしかして、地蔵だからじぞちゃんなのか。いいのかそれで。
「おお、お猫様ではないですか。わたくしどもがいたらないばかりに煩わせてしまいました」
「なに、たいしたことはない。この世のためだ。こういうときこそ、仏と神が力を合わせねばならぬ」
「確かにそうですね」
仏と神とはいったいどういう意味だろう。
仏っていうのはこの黒白猫のことだろう。猫地蔵だもんな。神とは。稲山店長とみのりを見遣る。まさか、このふたりが。
稲山店長がニヤリと笑みを浮かべた。
「あなたの予想している通りですよ。わたくしは、ご存知、皆中稲荷神社の狐神です。そして、みのりはわたくしの眷属狐なのですよ」
「そうそう、だから稲山様って呼ばなきゃね。あたしは、みのりでいいけど」
驚きすぎて言葉が出てこなかった。
俺はとんでもない人と一緒にいるのか。あっ、人じゃない。狐神様と眷属、それに猫地蔵。なぜ、どうして。俺はいつご縁を結んだのだろう。一度しか参拝していない。猫地蔵に関しては会ったことすらないだろう。自性院の場所も知らなければ、行った記憶もない。それならなぜここに狐神と猫地蔵がいるのだろう。
俺は夢を見ているのか。
最初からトリップなんかしていないのではないか。アパートの部屋で居眠りしている可能性もある。いずれ、目が覚めて。なんだとなるんじゃ。それにしてはリアル過ぎるか。それなら現実なのか。そもそも、トリップ自体がありえない話じゃないか。考えれば、考えるほど現実味がない。リアルな夢もあるかもしれない。今更、何を言っている。稲山店長、みのり、猫地蔵を順に見遣り、やっぱり現実だと認めた。
「皆の者、こんなところで立ち話もなんだから、我の寺で話そうではないか。あそこなら邪魔も入らぬ」
稲山店長とみのりは頷き、猫地蔵に着いて行く。俺は、ぼんやりする五歳の俺を見遣り「ちょっと、この子はこのままで大丈夫なんですか」と問いかけた。
「大丈夫だ。そのうち目覚める。そして、おまえと話したことは忘れる。我の子分たちを守りにつかせたから邪魔者も手出しできぬであろう」
忘れるのか。俺はなんとなく覚えているけど記憶違いだろうか。それはそうと邪魔者って誰のことだ。さっきの声がそうか。えっと、なんて言っていただろうか。
ああ、もう。わけがわからない。俺はいったい何をしているのだろう。このままじゃ未来がおかしくなっちまうんじゃないのか。いいのか、これで。早く、帰った方がいいんじゃないのか。もとはと言えば俺が言い出したことだけど。母に逢いたいと思ったのが間違いだったのかもしれない。
「どうした。納得いかないか。そうだろう。おまえの記憶と違うかもしれないからな。今回は我がそう仕向けたのだ。本来の道に戻さねばならぬからな。そのためにおまえがここにいる」
猫地蔵はいったい何を話しているのだろう。本来の道ってなんだ。何が何だかわからない。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる