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第六話「怪しき茶壷と筆」
救われた命
しおりを挟む「栄三郎さん、その茶器は使わないのですか」
「んっ、ああそれはその。大切な知り合いから預かった貴重な品だからね。使わず飾っておくことにしたんだよ」
「そうですか。なら、先日蔵にしまっていた筆も高価なものなのですか」
「まあ、そんなところだ」
「そうですか。けど、使ってあげたほうが喜ぶのではないでしょうかね」
「んっ、そうか」
使ったほうが喜ぶか。確かに一理ある。
妻の燈子は微笑み別の急須でお茶を入れた。
茶壷の瑞穂と筆の舟雲がここへ来て三年になる。閻魔様より頂戴した品だ。蔵にしまっておくのも何か違う気がして床の間に飾っていた。燈子にはきっとただの茶壷と筆にしか見えていないだろうが、時折動き出しては話し相手になってくれる。なんとなくいい友のような感じだ。筆のほうはちょっと小言が多いせいで蔵にしまってしまったのだが文句を言っているだろうか。
「栄三郎さん、今日はお医者さんに行く日ですよ。そろそろ支度しないといけませんね」
「そうだったか」
栄三郎はカレンダーを見遣り今日の日付のところの印を確認した。確かにマル印と内科との文字が記されていた。
午前九時。もう始まっているか。
ゆっくり立ち上がり着替えをすると燈子に声をかけた。ところが燈子のほうの支度がまだだった。
「ちょっと待っていてくださいよ」
「ああ」
栄三郎は再び床の間の前に座り込み新聞を読む。
「おい、栄三郎」
「んっ、どうかしたか」
「栄三郎を急かせておいて、燈子のほうの支度が遅いっていうのはどういうことだ。それがいつも疑問に思ってな」
栄三郎はフッと笑みを浮かべて「そういうものだ。気にするな」と呟いた。
んっ、蔵にしまっていたはずの舟雲がなぜここに。蔵から抜け出して来たのか。どうやって。
「そうです、そうです。舟雲が気にすることではありません」
「まあ、そうなのだが。瑞穂はパパッと支度をすませるだろう。気にならないのか」
「別にいいじゃありませんか」
「ちょっと待て。舟雲、どうやってここへ」
「んっ、なにをそんなに驚いている。俺様には簡単なこと。蔵には窓があるではないか。抜け出すことなど容易なことだ」
そうなのか。瑞穂はクスクス笑っていた。
舟雲と瑞穂と話し込んでいると燈子が顔を出した。
「今、誰かとお話していませんでしたか」
「い、いいや」
「そうですか。おかしいですね」
「独り言だよ。気にするな」
「そうですか」
燈子は小首を傾げていたが「それじゃそろそろ出かけましょう」と玄関へと歩みを進めていく。
栄三郎も燈子のあとを追いかけようとしたところで瑞穂が呼び止めた。
「ちょっと待って。燈子を呼び止めてください。あと十分、いや五分、いやいや三分でいいので出掛けるのを遅らせてください」
三分。
なぜだとも思ったのだが瑞穂の真剣な表情に栄三郎は燈子を呼び止めた。きっと何か意味がある。そう直感した。
呼び止めたのはいいもののどうしたらいいのやら。
黙っていると怪訝そうな顔をして燈子が戻って来た。
とにかく出掛ける時間をずらさなくてはいけない。三分だ。三分ならなんとかなるだろう。なんでもいいから理由を考えろ。
「どうかしたんですか」
「あの、その。なんだ。あっ、そうそう診察券はどこへやったっけかな」
「どうしたんですか。まだボケるには早いですよ。診察券だったら私がまとめて持っているじゃないですか」
「ああ、そうだったか。それじゃ健康保険証もあるか」
「もちろん、、持っていますよ」
「そうか、そうか」
「じゃ行きましょう」
ダメだ、まだ三分経っていない。
「あっ、財布だ。財布はどこへやったかな」
「財布ですか。ポケットに入れたんじゃないですか」
「そうだった、そうだった」
「本当に大丈夫ですか」
燈子は心配そうな顔をして近づくと額に手を置いた。
「熱はなさそうですね」
「ああ、元気だ、元気。なんの問題もない」
「血圧が高いんじゃ」
「いやいや、大丈夫だ。今朝測ったが正常値だった。問題ない」
三分経ったか。ああ、まだだ。『行きましょう』って言うんじゃない。
何かないか。引き止める口実はないか。ああ、ない、ない、ない。意外と三分は長い。気にしないでいればあっという間なのに。
「栄三郎さん、お医者さんに行きたくないんですか」
「えっ、あっ、いや。そんなんじゃないんだ」
「だったら子供みたいに変な言い訳しないで早く行きましょう」
ダメだ。仕方がない。
あっ、そうだ。
「すまない。ちょっとトイレ行きたくなった。すぐだから待っていてくれ」
燈子はクスッと笑い「わかりました」と頷いた。
よし、これで三分経つだろう。
いつもよりゆっくりめでトイレを済ませて燈子に声をかける。
そのとき、どこかで爆発でもしたような音が響いてきた。
なんだ、何事だ。
燈子とともに外へ出るとすぐ近くの交差点で車が電柱に正面衝突して止まっていた。反対側にも側面をべコリと凹ませた車が止まっている。それだけではない。信号待ちしていたと思われる通行人が血を流して倒れていた。
そうか、そういうことか。
もしあのまま出かけていたらこの事故に巻き込まれていた。家からここまで自分たちの足なら三分くらいかかるだろう。
瑞穂に命を救われた。命の恩人だ。いや付喪神だから人ではないのか。そんな細かいことどっちでもいい。瑞穂に感謝しなくてはいけない。
お礼をするとしたら何がいいだろうか。ふと『使ってあげたほうが喜ぶのではないでしょうかね』との燈子の言葉が蘇る。高級な茶葉でも買ってお茶を入れるのもいいかもしれない。
帰ったらまず「ありがとう」と言わねば。
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