小説家眠多猫先生

景綱

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第一章 吾輩は眠多猫である

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 真一は久々に連休が取れ田舎に帰省した。真一の田舎は海の見える高台にある町だ。

 窓を開けると、そよ風が頬を撫でる。海が近いから風が強い日が多いのだが、今日は心地よい風を感じられる。きっとあの海から吹く風がここまで流れてきているのだろう。太陽の光を反射して煌めいている海の景色は心を洗ってくれるようだ。

 久しぶりにこの場所に立ちしばらく真一は景色を堪能して笑みを零す。ここから望む景色はこんなにも贅沢なものだったのかと再認識させられた。水平線を見渡せば地球は丸いのだなとわかる。実家はそんな場所にあった。こんな話をしたら、きっと羨ましがられることだろう。

 子供の頃はこの景色がそんなに贅沢なものだと思ってもみなかった。当たり前の景色だった。というか、この町の住人はみんなこの景色を見て育っている。当たり前の景色となりそんなに心を惹かれるものではなくなっているかもしれない。贅沢極まりない。

 本当に気持ちいい風だ。磯の香りが鼻腔をくすぐるはずだった。あれ、感じないか。磯の香りはどこへいった。海からはなれているからここまでは届かないのか。記憶の中では磯の香りも波音も感じていたのに。

 記憶とは曖昧なものだ。

 遠くに見える静かな海を眺めているだけで勝手に記憶の紐を引っ張り出してきて磯の香りも波の音を感じる気がしていただけだ。そういうものかと思うと頬が緩んだ。空を仰ぎ見ると、雲一つない青い空にカモメなのかウミネコなのかわからないが優雅に羽を広げている。

 そういえば早起きしては朝陽に手を合わせ、黄昏時には夕陽を眺めつつその日の反省をするなんてことを日課として繰り返していたな。そんな懐かしい思い出がここにはある。なんだか感傷的になっている自分に苦笑いを浮かべた。都会暮らしに疲れていたのかもしれない。いや、自分が住んでいるところは都会とは呼べないかも。下町と呼ばれるような人情味あるちょっと昭和を感じさせる場所だから。

 それでも、この自然ある景色は味わえない。本当に贅沢な場所だ。ここからは、海から顔を出す日の出も海に沈み行く日の入りも見ることができる。そんな場所はそんなに多くはないはずだ。本当に煌めく海は綺麗だ。昔はよく海へ遊びに行ったものだ。ここのところ海辺を歩くこともなかったし、あとで海にでも行ってみようか。

 ひとつの記憶を紐解くと他の記憶も蘇らせるものだ。海の他にもよく行く場所があった。神社だ。確か近くにあったはずだ。そう向こうに見えるこんもりとした森に確かあったはずだと記憶が蘇る。神社と同時に猫がいたことも思い出した。野良猫たちがよく集まっていた気がする。誰かが猫の集会所だなんて冗談言っていたのも思い出す。

 友達が言っていたのか見知らぬ人の話を小耳に挟んだだけなのかは忘れてしまったがちょっと行ってみるのもありかもしれない。そう思ったら居ても立っても居られなくなり母に「ちょっと出てくる」とだけ言伝て家を飛び出した。猫がいたらいいけど。海に行くことより猫に逢いたくなってしまった。

 遠くの海を眺めつつ下り坂を進むと惰性で自然と走り出しそうになり、ブレーキをかけて進む。見遣ればすぐに目につくが、眼下に木々が広がる一帯がある。ちょっとした隠れ家のような神社だ。子供のころはそう話していたっけ。記憶を辿るだけで、子供の頃に戻ったような感覚になり頬を緩ませる。神社に近づくと木々の葉が天を覆い自然のアーチが出迎えてくれた。癒されるな、この道は。そして懐かしい。

 うぅっ。

 突然の不協和音に耳を押さえて蹲る。頭が割れそうだ。何が起きたのだろう。

 猫の鳴き声も不協和音に混ざって聞こえる気がする。猫が喧嘩をしているのだろうか。耳を劈#__つんざ__#くような鋭い音がする。

 こんなことは初めてだ。額からじんわりと汗が浮かぶ。急にムカムカした感じが込み上げてきた。今度は耳鳴りだ。ごくりと唾を呑み込み様子をみるが、治まることはない。

 そのときどこかはわからないが鳥居の映像が頭の中に浮かんで消えた。と思ったら不協和音は消え去り気持ちのいいひんやりとするそよ風が磯の香りを連れて首筋を通り過ぎていった。じんわりと浮かんでいた額の汗を拭い取りあたりを見回す。もちろんおかしな点はどこにも存在しない。何かの電波が不協和音を生んだのだろうか。確か近くに電波塔があったはずだ。その影響なのかもしれない。それとも知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたのだろうか。

 大きく息を吸い吐き出して天を仰ぐ。空は生い茂る深緑の葉のアーチで青い空を見ることができなかったが、木漏れ日の煌めきに心が癒された。

 真一は嘆息を漏らし歩みを進める。

 もうすぐそこに神社はあるはずだ。あの角を曲がってすぐのところに。今起こった異変が凶兆でないことを祈るのもいいかもしれない。普段、来ない自分のお願いを聞いてくれるとも思えないが、挨拶しておいて損はないだろう。

 神社か。そういえば、神社に参拝することなんて何年ぶりだろう。初詣も行っていないからな。子供のころはよく神社に行っていたのに。そんな奴が願い事などしていいものだろうか。ならば謝罪の参拝でもするか。

 子供の頃の記憶は間違っていなかった。木々に囲まれるように確かに目的の神社は存在していた。

 鳥居には『渡海神社』と書かれている。これってどう読むんだったっけ。そのまま読めば『とかいじんじゃ』だけど。それでいいのか。

 考えても答えは出てきそうにない。スマホをポケットから取り出し検索をかける。ああ、会っていた。『とかいじんじゃ』だ。ふむふむ、綿津見大神わだつみのおおかみと猿田彦大神が祭神なのか。二柱祀られているのか。そういえば、神様はなぜ柱と数えるのだろう。一柱、二柱って面白い数え方だ。考えたところで答えは出てこないから無意味なことはやめておこう。

 ここは結構古い神社だったのか。はっきりしていないようだけど奈良時代末から平安時代創建らしい。なんとなく厳かな雰囲気があるし、気持ちがシャキッとしていい。思ったよりも社は大きくない。子供の頃の記憶ではもう少し大きく感じていたけど違うものだ。それだけ自分が小さかったってことかもしれない。真一はひとり頷き、社の前まで足を進めた。

 少ない賽銭に後ろめたさを感じつつ投げ入れてご神体があろうであろう正面に目を向ける。二礼二拍手をして神様に名前を名乗り今まで無事過ごせてこられたことのお礼と参拝していなかったことの謝罪を心の中で呟いた。最後に、災厄が起きませんように、そしていい出逢いがありますようにとお願いをして一礼し帰ろうと踵を返した途端に社の裏手から呻き声が聞こえた気がして立ち止まった。

 今のは……人か?

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