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第一章 吾輩は眠多猫である
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しおりを挟む眠多猫は何しているんだろうと様子を見ると、ノートパソコンを覗き込む眠多猫がいた。真一は声も掛けずにじっと見遣る。すると、パソコンのキーボードを押すような音がした。このままだと壊される恐れが。そう思ったら、眠多猫のもとへ足を向けて「おい、ちょっと何を――」と言いかけて口を噤んでしまった。
そこに書かれている言葉に目を見張る。一瞬、理解できずに頭が混乱してしまう。パソコン画面と眠多猫を交互に目を向けてブルッと身体を震わせた。
これをこいつが入力したってことか。
『助けてくれて、ありがとう。この恩は一生、忘れない。 眠多猫より』
「お、おまえが」
そんな馬鹿な。ありえない。けど、『眠多猫より』って。
今の状況を整理しようとあれやこれやと黙考する。だが、考えれば考えるほど頭の中の回線が絡まってオーバーヒートしそうになる。思考停止一歩手前って感じだ。いや、すでに停止しているかもしれない。
こいつ、漢字も理解しているのか。いやいや、そこじゃない。パソコン使えるのか。ってその前に、言葉を理解しているってことか。そうだとしても、パソコンなんて猫は見たこともないだろう。なのに、しっかり漢字変換までして。ああもう、わけがわからなくなってきた。頭がどうにかなりそうだ。
眠多猫はじっとこっちをみつめて「ニャン」と鳴く。そして目の前でカチャカチャとする。
『信じろ、これが吾輩の才能だ』
器用に爪を使ってタイピングしていく。変換もしっかり間違いなくしている。今見たことは、夢でもなんでもない。現実だ。猫がタイピングする姿を目の当たりにしてしまった。信じるしかないじゃないか。
再び、眠多猫の手が動く。爪捌きと言うべきか。流石に猫がブラインドタッチはできないようだ。一文字ずつ爪でキーを押している。けど、スムーズに押しているということは、どのキーを押せばいいのか理解している雰囲気だ。ということは、これもある意味ブラインドタッチ出来ていると言えるのかも。爪一本の猫式ブラインドタッチだ。恐るべし、眠多猫。
またしても思考が停止してしまう。
『おい、大丈夫か?』
無言で真一は頷いた。
『そうか、ならいい。とにかくしばらく厄介になる。よろしく頼むぞ。いずれ恩返しもせねばならないだろうが、それは後で考えるとする』
再び頷き眠多猫に微笑みかけた。まさか、猫と会話できるなんて考えもしなかった。しかも、恩を感じているなんて。
目頭が熱くなってしまった。そんなことを思っていたなんて。気づくと嫌がる眠多猫をギュッと抱きしめていた。そのとき、眠多猫からなんとも心地よい匂いが鼻腔を刺激した。草木の匂いだろうか、土の匂いだろうか、日向の匂いだろうか。とにかく自然を感じるような匂いだ。なんとも言い表せないこの匂いをずっと嗅いでいたい気分だ。眠多猫はやめろとばかりに身体を捩らせている。
「あっ、ごめん。苦しかったよな」
『苦しくはない。が、抱かれることは好きじゃない。今後はやめてくれ』
「わかったよ。なら、撫でるのもダメか?」
『それは、許してやる。撫でるときは首筋のマッサージもしてくれるとありがたい』
真一は頬を緩ませて頷き「可愛い奴だな」と呟いた。
『可愛いくはない。吾輩は格好いいがいい』
「そうか、そうだな。威厳を感じて凛々しくてすごく格好いいと思うぞ」
『当然だ。吾輩は』
そこでパソコン画面の文字が止まった。どうしたんだろう。眠多猫を見ると、目を逸らしてリビングを出ていってしまった。パソコン画面のカーソルが点滅を繰り返している。『吾輩は』のあとになんと続けようとしたのだろうか。気にはなるが、眠多猫にも言いたくないことくらいあるのだろう。なんだかこの先の人生が楽しいものになりそうな予感がしてきた。ずっと夢見ていたことがひとつ叶ったのだから。
猫と話してみたいって夢だ。
猫好きなら皆思っていることだろう。パソコンを通して猫と会話か。これって、もしかしたら面白い小説が書けそうだ。いいアイデアだと思う。ただ、文才がない。試しに少しだけ書いてはみるが、どうにもパッとしない。光るものを感じない。読み手としては人よりも見る目はあると思っている。出版社でいろいろ見てきたから、その点は確信がある。その目から見ても、自分が書く小説は駄作だ。編集長に見せたこともあるが、結果は「おまえに才能はない」で原稿を放り投げられてしまった。わかりきっていた結果だ。自分でもそう思う。
誰か才能ある小説家に話してみようか。そしたらいい作品が出来上がるかもしれない。けど、そうしたくないと胸の奥で訴えてくる自分がいることに気づく。
どうしたものか。嘆息を漏らして「俺に文才があったらな、いい小説書けるのに」と独り言を思わず呟いていた。その一言を眠多猫は聞いていたのか、スタスタとどこからともなく軽快なステップで戻ってきてタイピングをまた始めた。
『恩返し、思いついた。吾輩が代わりに小説を書いてやる』
パソコン画面に入力された言葉は、輝きを放っていた。もちろんそう見えただけだ。
「代わりにって。書けるのか」
『吾輩は文才とやらがある。任せておけ』
随分と強気だ。本当に文才があるのか。疑問も感じるが、任せてみてもいい気がした。眠多猫が一瞬笑った気がした。猫の笑みはちょっとばかり不気味さを感じる。
「眠多猫、やってくれるか。頼んだぞ」
眠多猫は頷いた。真一にはそう見えた。やはり、こいつはすごい。眠多猫はただの猫じゃない。そういえば、こいつ三毛猫の雄だった。もしかしたら、三毛猫の雄には人知を超えた物凄い才能が隠されているのかもしれない。こいつだけかもしれないが、今はそんなことはどうでもいい。このありえない現実に感謝しなくてはいけない。そう強く感じた。
この先の未来は明るいものになりそうだ。きっと。これが夢でないことを祈る。
一ヶ月程で完成された小説は、ド肝を抜かれるくらい衝撃的で心に響く物語だった。こんなところにダイヤモンドの原石が転がっていたと歓喜の声を上げたいくらいだ。けど、あくまでも個人的な感想だ。他の者にも読ませてみないと判断はつかない。
そうだ、小説大賞だ。応募してみようじゃないか。これが、ダイヤモンドの原石だとしたら、絶対に何かしらの反応があるはずだ。自分の目が確かだと信じたい。大賞も夢じゃないはずだ。
その結果、眠多猫の小説が本物だと認められた。本当に小説大賞で大賞を受賞してしまった。これではっきりした。言い過ぎかもしれないが、眠多猫の文才は有名小説家にも匹敵するものを持っている。数億円ものダイヤモンドに匹敵する逸材だ。
これはもう眠多猫先生と呼ぶしかないだろう。ということで、この日から眠多猫から眠多猫先生となった。
これが眠多猫先生のベストセラーとなるはじまりだった。
*
懐かしいベストセラー猫作家のはじまりの日を思い出しつつ、傍らで今日もカチャカチャと心地よい音を鳴らす眠多猫先生の執筆作業を見守っている。心の中で『ありがとうな』と呟いた。
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