小説家眠多猫先生

景綱

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第二章 消えた眠多猫先生

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 玄関扉をそっと開けて「ただいま」と囁いた。猫の耳にはこのくらいの声でも聞こえているはず。『おかえり』なんて返事を期待したいところだが、気まぐれだしなるべく力を温存したいネムは、おそらく半分寝ながら尻尾でも振ってくるのが関の山だろう。 待てよ、猫は夜行性だからもしかしたらパッチリ目を開いて起きているってこともあるのか。ギラリと目を光らせ睨みを利かせているってこともあるのかも。想像したらブルッと寒気がした。

 果たしてネムの態度は如何に。あっ、そうだゴハンあげていないじゃないか。ネム、怒りの鉄拳ってことも。手じゃなく口でガブリかもしれない。

 今日は残業で遅くなってしまったからな。怒っている可能性大だ。

 いつもの夕ご飯よりも五時間遅れている。律儀に待っているのだろうか。ゴハンのある場所はわかっているっていうのに。ネムは、自分と一緒に食事をすると決めているようだから。なんか胸が痛む。帰りが遅れることはあっても、五時間はちょっと遅れ過ぎだ。虫の居所が悪くなきゃいいけど。

 忍び足でリビングへと向かう。一歩、二歩、三歩。リビングの入り口からいつも占拠している一人掛けソファーを覗き込んだとき、キラリと光る瞳が二つ。あまりにも異様な雰囲気に心臓がドクンと鳴った。

 暗闇の部屋に猫の黄金色の瞳が光っていたら、誰だって心拍数が上がるだろう。あの感じはご立腹かもしれない。
 参ったなぁ。速攻謝るべきだろう。

「ごめん、ネム。腹減り過ぎちまったよな。今すぐ用意するからな」

 カチャカチャ、カチャ。

 パソコンのキーボードを叩く音が鼓膜に響く。いったい何と書いたのだろうか。パソコン画面を確認するのを躊躇する自分がいた。嫌な予感がする。罵倒する言葉だろうか、それとも労う言葉だろうか。それで大きく違ってくるのだが。まあ、労いの言葉だとしてもそこに隠された怒りの本心があるのではないかと疑ってしまう。食べ物の怨みは恐ろしいと相場が決まっているじゃないか。そういうことに関しては、おそらく人も猫も一緒だろう。とにかく書かれていることを確認しなくては何も始まらない。真一は生唾を呑み込み、恐る恐るパソコンの画面を覗き込む。

『腹と背中がくっつくかと思ったぞ。食い物の怨みは恐ろしいというではないか。まさか知らぬとは言わせないぞ。すまないと思っているのなら、高級猫缶を鱈腹食わせるんだな』

 ネムが光らせた目を細めて、右手を上げるとニュッと爪を出した。

 これはかなりのご立腹だ。早いところゴハンを用意しなくては。怒りを収めるにはそれしかない。あの右手を下ろしてもらわなくては。高級猫缶はないんだけど、あれがある。

「ネム、わかったけど。今、高級猫缶は切らしてないんだよな、その代わり本マグロの切り身を炙ってやるからそれでいいだろう」と言葉を返す。

 すると、またカチャカチャカチャと猫式ブラインドタッチで素早く入力される。

『うむ、それでいい。早く支度しろ。それと、吾輩は感謝することはあっても怒ってなどいないからな。By nemu』

 格好つけちゃって、名前は日本語にしろって。まあいいけど。本マグロ効果で少しは機嫌が直ったのかもしれない。ローマ字表記が機嫌直ったという証だと思う。わかり辛いけど。ちょっとテンションが上がったとみていいだろう。

 あっ、そうそう気づいたかもしれないが眠多猫先生のこと最近じゃ『ネム』って呼んでいる。それだけ信頼関係が築けているってことだ。自分で言うのも気恥ずかしいけど、そういうことだ。って誰に向かって話しているのか。なんとなく誰かが疑問に思っているような気がしてしまう。妄想癖があるからな。悪い癖だ。

『なぁ、ネムって呼ぶ方がいいんだろう』と心の中で呟いた。考えてみれば『眠多猫先生』なんて呼んだのは一ヶ月くらいだけだったかも。よく覚えていないけど。それに、なんとなくネムと呼んだほうが反応は速い気がする。

 真一は瞬きをしてから微笑んだ。ネムもすぐに瞬きを返してくれた。けど、すぐにキーボードを叩き始めた。華麗なる爪捌きはいつ見ても圧巻だ。

『腹が空っぽで死にそうだ。早く炙って持ってこい。もう待てんぞ』
「すまない、今速攻やるから待っていろよ」

 真一はキッチンへ向かうと魚焼き器でマグロを焼いた。炙るとは言ったもののバーナーがない。ガスコンロで炙るという手もあるにはあるが、ちょっと危険な気がしてやめた。ネムはそのくらいの違いに難癖をつけたりしない。美味しければ問題ない。

 猫に本マグロなんて贅沢だと憤慨する者もいるだろうが、この家の主はネムと言っても過言じゃない。稼ぎ頭だと以前も話しただろう。いくら稼いでいると思っている。一億円くらいはいっている。って誰に話しているんだろう。そう思ったら、自然と頬が緩んでいた。またやっちまった。見えない相手と話す妄想癖はやめられない。

「できたぞ、本マグロだからな。ゆっくり味わって食べるんだぞ」

 真一の言葉はおそらく聞いていない。マグロに夢中だ。『美味い、美味い』と唸って食い散らかしている姿はほっこりする。これってそう聞こえるだけだろうけど、猫好きなら誰でも体験していることかもしれない。

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