小説家眠多猫先生

景綱

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第二章 消えた眠多猫先生

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 ああ、それにしても良い香りだ。よだれが出てしまう。

「なぁ、ネム。俺にも少し分けて貰っていいかな」

 ムクッとネムは頭を上げて瞬きをした。えっと、それは『食べてもいいぞ』と捉えてもいいのだろうか。きっといいのだろう。実は初めから少しだけ自分の分も取っておいていた。優しいところのある奴だと知っている。もうかれ
これ二年の付き合いだから、なんとなく考えていることがわかっている。

 いや、そうでもないか。突然、猫パンチ飛んでくることもあるからな。そういうときは、何に怒っているんだか。感情の起伏が激しいのも猫あるあるだろう。さてと、俺も食うか。

 軽く焼いてポン酢をつけてパクリ。やっぱり美味い。脂が乗っていて最高の味だ。買っておいて正解だった。マグロを白飯に乗せて掻き込み、腹を満たす。やっぱり本マグロは美味い。もちろん冷凍ものじゃない。生マグロのねっとりした感じが堪らない。白飯のおかわりを二度して、ご馳走さまをする。これもすべてネムの稼ぎのおかげだ。

 ありがとうな、ネム。

 ネムを見遣ると、すでに食べ終わりソファーにオヤジさながらに深く腰掛けて大股広げて毛繕いをしている。そう思ったら、いつの間にか目を閉じていた。もう寝ちまったのかと近づいていくと、パッと目を開けて「ニャ」とだけ鳴いた。

 寝る邪魔をしてしまったかもとその場を離れようとしたところ、再び「ニャ」と呼び止めるように鳴く。

「なんだ、どうした?」

 ネムの目線がパソコン画面に流れていく。なんだろうと何気なくパソコンへと目を移す。

 んっ? おおおっ⁉

 そこに表示されていたものは、新作『能ある猫は爪隠す』の完結したものだった。流石だ、締め切りまで三週間あまり残して書き上げるとは。

「お疲れさん」

 そう言葉をかけて、嬉しさのあまり思わず握手しようとネムの右手を握ってしまった。そのとたん、シャーの声とともに勢いのいい猫パンチが繰り出された。

 しまった、肉球を触られることがネムは嫌いだった。赤い三本線が右手の甲にクッキリ浮かんでいる。真一は笑みを零して、洗面所に向かう。とりあえず傷を洗い流しておくことにした。あとは軟膏でも塗っておこう。

 何はともあれ、新作執筆完了の報告には万々歳だ。

 これで一段落だ。本マグロが完成祝いも兼ねてしまった感じになった。今日はゆっくりしてもらおう。書き上げたとは言え、これで終わりというわけではない。出版社に原稿を送り校正をしてチェックが入り直さなくてはならない。まだ本になるスタート地点に立っただけだ。いろいろとやることがある。直しが数回繰り返すこともある。

 とりあえず、出版社にメールで送信だ。

 あっ、自分がまずは読まなきゃ。担当だもんな。ほほう、『命婦のおとど』が関わってくるのか。枕草子に出てくる猫だったはず。けど時代物ってわけでもないようだ。ほぼ現代の話か。 それにしても枕草子まで知っているとは凄い猫だ。自分よりも博識かもしれない。

 率直に面白い。今日は徹夜でこの原稿を読みチェックするとしよう。もちろん、編集長にも読んでもらう。三田は、編集長の前にネムの大ファンの一人でもある。きっと、届いたメールににんまりしていることだろう。今日は会社に泊まり込みだとぼやいていたから、この原稿がいいプレゼントになったことだろう。

 ファンなのは自分もだ。だから、自分へのプレゼントでもあるけどな。

 自分用に印刷しとかなきゃ。パソコンで読んでいたらそのまま引き込まれてしまう。チェック入れるのは紙媒体のほうがやりやすい。正直な話をするとネムの原稿はほぼそのままでも出版できそうな完成度の高いものだ。赤いチェック項目はゼロに近い。どんだけ天才なんだと最初の校正のときは驚いたものだ。

 印刷をしつつ、いつもの一人掛けソファーで丸くなっているネムを見遣り笑みを浮かべた。どこをどう見てもそこら辺にいる猫と変わりないように見えるんだが。頭を軽く撫でると、薄目を開けて聞こえるか聞こえないかくらいの声で鳴いた。

「ごめんな、起こしちゃったな。ゆっくり寝な」

 しょぼしょぼした目で一度こっちに視線を向けると、徐に起き上がりグゥーッと背中を盛り上げてから顔を反対側に向けて再び瞼を下ろすネム。

 家に帰っても仕事っていうのは普段なら嫌なんだけど、この原稿を読むことは誰よりも早く読めると心が躍ってしまう。仕事であり趣味を兼ね備えている感じだ。

 よし、印刷終了だ。チェック、チェック。

 真一は大きな欠伸をすると印刷された分厚い原稿を揃えて、改めて小説の冒頭を読み始めた。時間が経つのも忘れて没頭する。だが、今日はいつもよりも疲れが溜まっていたのか眠気が襲ってくる。このままではダメだ。区切りがいいところで一旦読むのを止めて、キッチンへと向かいコーヒーを入れ始めた。もちろん、インスタントコーヒーだ。それでも、仄かに香るコーヒーに気持ちが落ち着く。

 コーヒーが眠気覚ましにならないことは知っているが、飲みたい気分だからいいだろう。眠気覚まし効果を期待するならば、そうとうな量を飲まなくてはいけないと聞く。それよりも利尿作用のほうが効果覿面こうかてきめんだ。少しばかりトイレが近くなってしまうだろう、きっと。

 一口、コーヒーを啜り一息吐くと部屋に戻った。マグカップ片手に原稿の文字を追う。今回も直しを必要とするような違和感ある箇所はあまりない。編集長がどう感じるかはわからないが、そんなに大差ないだろうと思う。『すごい』という言葉がぴったりの小説だ。

 こんな入り込めるストーリーを自分も書くことができたなら……。ふとそんなことを思ってしまう。羨んでいるのかもしれない、猫に。いやいや、そんなことはない。大事な相棒だ。

『そうだろう』とネムに心の中で声をかける。熟睡しているネムの頭を撫でる。今度はなんの反応もない。少しばかり痙攣しているだろうか。夢でも見ているのだろうな、きっと。実際のところはわからないが、痙攣している感じになっているときは、夢を見ているらしい。

 可愛い奴だ。

 大きく息を吐き、続きを読み始める。

 一度は眠気に襲われたが、あまりもの面白さに眠気も吹き飛んだようだ。あっという間に丑三つ時を過ぎ、読み終わった頃には外が明るくなり始めていた。かなりの長編だ。読み終えた安心感からか腹の虫が鳴った。確かカップラーメンあったはずだ。それでも食べるとしよう。
 
三分も待てずに硬めの麺を啜る。醤油ラーメンのいい香りが立ち込めて、食欲が増す。ひとつじゃ足りないかもしれない。けど、カップラーメンは今食べているひとつしかなかった。残念だけど、仕方がない。まだ出社まで時間あるし仮眠でも取ろう。

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