小説家眠多猫先生

景綱

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第三章 再会……そして失くした記憶

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 潮の香りが鼻腔をくすぐる。そうそうこの感じ。空を仰げば青い空、目の前には碧い海が広がっている。細波の音を耳にするとなんとなく心が穏やかになった。実家に戻る前に寄り道をして浜辺へと足を向けてしまった。

 遠くに見える大型船になんとなく目を向けつつ、溜め息を漏らす。
 自分はいったい何をしているんだろう。こんなところでひとりたそがれているなんて。

 心地よい波音のサウンドが癒しをくれるはずだった。確かに穏やかな心持ちになった。けど、胸の奥に何かモヤモヤとするものがある。この懐かしい土地に戻ってから、モヤモヤする気持ちが増した気がする。なぜだろうか。考えたところで答えは出てこない。

 ふとこんなところでのんびりしている場合じゃない。そんな思いが込み上げて気が焦ってくる。胸騒ぎのような気持ちが湧いてくる。脳裏に浮かんできたのは、渡海神社と森の景色だった。はたして渡海神社に何かあっただろうか。あったとすれば二年前ここに帰省した時だろうか。どうにも霞がかかっているようで思い出せない。確か帰省しても神社には立ち寄らなかったはずだ。

 あれ、そうだったろうか。わからない。大事な何かを忘れている気がする。

 それにしても、なんで実家になんか帰りたいと思ったのだろうか。もちろん、実家はくつろげる空間だ。たまには親に顔を見せなきゃっていうのもあるけど。

 寄っては引いていく波を眺めていたら、背後から猫の鳴き声が聞こえてきた。

 振り向けば、そこにトラ猫がいた。野良猫かな。海にも猫が遊びに来ることがあるのか。真一は猫をじっと眺めていた。何かを思い出しかけたがすぐに消え失せてしまう。

 猫、猫、猫と心の中で繰り返し呟いてみたがこれといって思い当る節はない。

 なんだかおかしい。急に何が何でも渡海神社に行かなくてはいけない気がしてきた。頭の中でぼやける誰かの姿。あいつは、誰だろう。

 気がつくと足が勝手に渡海神社へ向かっていた。言っておくが足に意志があるわけじゃない。そりゃそうだ。

 浜辺を離れて、坂を登る。ローカル鉄道の小さな駅を脇目に、歩きに歩く。少しばかり歩みを進めたところで背後からガタゴトガタゴトと音がして振り向くと、一両編成の電車が通り過ぎて行った。田舎だなと再認識する光景だった。廃線になるのではと危惧されたこともあるけど、今も変わらず走り続けている。電車を見送り再び前を向く。

 最悪だ。急な上り坂が永遠に続いているようだ。タクシーでも呼べばよかったかも。
 真一は嘆息し項垂れて歩みを進めた。浜辺に寄らなければよかっただろうかと少し後悔した。左側に見える立派な寺を眺めつつ歩き続ける。

 神社へ行く前に一旦家で休んだ方がいいだろう。海の傍だというのに、まるで登山に来た気分だ。高台じゃなきゃいいのにとぼやきながら、急勾配の坂道を進んでいく。運動不足だと痛感した。絶対に筋肉痛になるだろう。

 実家の玄関前に到着すると、一気に汗が吹きあがってきた。いや、その前から汗は掻いていた。服の袖で拭いながら歩いてきたじゃないか。そんなことはどうでもいい。少し休みたい。何かさっぱりとした冷たいものが飲みたい。

 チャイムを鳴らし、「ただいま、母さんいるか」と玄関先から声をかける。しばらくの後、玄関扉が開かれて母の顔が覗いた。

「あれ、真一じゃないか。おかえり。帰ってくるなら、前もって言ってくれればよかったのに」
「すまない。急に帰りたくなったんだ。それより、なんか飲みたいんだけど」

「ああ、そうかい。ならば牛乳でもいいかい」
「いや、牛乳はちょっと。炭酸系があればいいけど、なきゃ冷たいお茶とかでもいい」

「お茶なら冷蔵庫にあったと思うよ」

 真一は靴を脱ぎ棄てキッチンへと向かい冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出すと一気飲みした。

「ところでかわいい猫の眠多猫ちゃんは一緒じゃないのかい」

 えっ、猫?
 母さん、何をねぼけたことを。猫なんて飼っていないじゃないか。まさかボケちまったのか?

 真一は、小首を傾げて「母さん、何を言っているんだよ」と言い放った。

「何って、眠多猫ちゃんだよ。なんだ、いないようだね。お留守番だなんて可哀相に」
「もう勘弁してくれよ。猫なんて最初からいないだろう」

「それこそ、何を言っているの。ほら、怪我した猫助けたじゃないの。あの猫、元気にしているんでしょ」
「おいおい、母さん。本当にボケちまったんじゃ」

「ボケた。ふざけるんじゃないよ真一。あんたこそボケたんじゃないの。本当に忘れちまったのかい」

 真一は再び小首を傾げて母の言う眠多猫という存在を考えてみた。どう考えても、そんな猫は知らない。それにしても、おかしな名前をつけたものだ。母の妄想か、虚言癖でもあるのか、それとも本当にボケたのか。

「母さん」
「なんだよ。信じないのかい。真一、どうしちまったんだい。若年性健忘症ってわけじゃないでしょうに。もしかして、どこかで頭でも打ったんじゃ」

 母は突然、頭を掴み見回し始めた。

「何をするんだよ、もう。打っていないって。もういい、やめよう」
「信じていないね、その顔は。いいかい、ちゃんと証拠もあるんだからね、待っていなさい」

 母はぶつくさ言いながら、奥の部屋へと行ってしまった。証拠なんてあるわけがないじゃないか。そんな猫はいないのだから。真一は溜め息交じりで母の後姿を眺めて、後を追った。

 あれ、そういえば母は『眠多猫』って口にしたよな。俺の著者名じゃないか。
 そう思ったら、妙に気になり始めた。母はあの本が本当に猫の書いたものだと認識してしまっているのだろうか。やはり脳の病気なのかもしれない。これはまずい状況かも。

 母はリビングにあるサイドボードで何かを探していた。

「母さん、何をしているんだよ」
「眠多猫ちゃんの写真を探しているのよ」

 写真? そんなもの――。

「あった、あった」

 え、あったって。まさか、そんな写真があるはずがない。

 母の手にした写真を覗き込むと三毛猫を抱いた自分が写っていた。母のどうよとばかりのドヤ顔が少しばかり腹立たしく感じた。けど、この写真はどういうことだ。まったく記憶がない。日付は二年前のものだ。しかも写真は他にもあった。母はボケでもなんでもなく、間違っていたのは自分のほうだった。真一は思った、自分は記憶喪失なのか。いや、それはおかしい。記憶にないのは猫の存在だけだ。ふとベストセラーの本が脳裏に浮かんだ。あの本は、自分が書いたものじゃないのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなっていく。頭が痛くなりそうだ。

 一旦写真から目を離して考えを巡らしてみる。やはり記憶にない。再び写真を食い入るように見入るが、思い出されるものは何もなかった。

「ねぇ、母さん。この猫って怪我したのを助けたって言ったよな。俺、どこでこいつをみつけたか言っていなかったか」
「真一、本当に覚えていないの。大丈夫かい」

「ああ、たぶん大丈夫だ。とにかく、どこでこいつと」
「確か、渡海神社の鎮守の杜だって」

「渡海神社……。そうなのか」

 それで、渡海神社に行かなくてはと思ったのだろうか。深層心理の奥底で何か引っかかるものがあったのだろうか。やはり大事な何かを忘れているということなのか。このモヤモヤ感はそういうことなのかもしれない。

 母は真剣な面差しで「病院、行こうか」との声に真一はドキッとしたが「大丈夫だよ」と微笑み母の肩に手を置いた。母は頷きかけて「本当に」と問うてきた。
 まだ、心配した顔をしている。安心させてやらなきゃいけないけど真一は頷き返すことしかできなかった。

「あのさ、母さん。俺、神社に入ってくるからさ。きっと何かわかると思うんだ」と笑みを零して玄関へと足を向けた。

 背後から「気をつけてね」とだけ聞こえてきた。

 渡海神社はさっき登ってきた道と反対側へと向かう。今度は下り坂だ。何か手がかりがあればいいけど。母には『何かわかると思う』なんて口にしたけど、正直みつかる気がしなかった。
 胸の奥のモヤモヤが益々増えていく気がする。
 あそこを曲がればすぐに神社だ。なんだか心臓が痛い。胸に手を当てると、激しく脈打つ心臓の鼓動があった。

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