ちょっと奇妙な小部屋 ホラー短編集

景綱

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7号室 無色透明の虚無

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 消える、消えていく。
 俺が消えていく。

 左手の指先が徐々に消えていく。痛みはない。始まった、待ちに待った透明人間に俺はなる。左足のつま先も消え始めた。
 これで、思う存分楽しんでやる。

 手始めに何からやろうか。銀行強盗をしてやろうか。銀行職員が働く最中、誰も気づくことなく白昼堂々と金を盗むことが出来る。監視カメラにも映ることもない。億万長者も夢じゃない。

 ダメだ、ダメだ。犯罪に手を染めるなんてことはやっちゃいけない。
 なら、どうする。
 嫌いな上司でも怖がらせてやろうか。それとも、露天風呂でも覗くか。

 ああ、馬鹿馬鹿しい。もっと凄いこと考えろ。うーむ、やっぱり銀行強盗やっちまおうか。なんて俺にはそんな度胸はない。透明人間になっても、性格は変えられない。

 タダで映画観て、タダで遊園地や動物園に行って遊んで、タダ飯でも食って呑気に過ごすってこともいいのかもしれないぞ。何をしたって誰にも気づかれることはない。躊躇してどうする。楽しくいこうじゃないか。

 そんな妄想をしている間にも、俺の身体はどんどん消えていく。あの爺さん特製の消え薬とは物凄い効力があるようだ。着ている服まで消えていくじゃないか。完全な透明人間だ。

 名前は忘れてしまったが、あの爺さんはおそらくこの世の者ではない。余所見している間に消え去ったからな。まあ勝手にそう思っているだけだが、もう会うこともないだろうからそんなこと気にすることはない。俺は、透明人間になって大いに満喫する。それだけだ。
 痛くもなきゃ、痒くもない。どうやら、副作用もなさそうだ。すこぶる快調だ。
 そろそろ完全に透明になったことだろう。姿見の前に立ち確認するとしよう。

「よし、完璧だ」

 鏡には背後の雑然とした部屋の様子が映っているだけ。ちょっとは掃除したほうがいいかもしれないと思いつつ、いつも後回しにしてしまう。もちろん、今日も掃除するつもりはない。
 さてと、出掛けるとしよう。みんなの驚く顔が目に映るようだとにんまりとする。

 スマホを持ってと。
 んっ、あれ。

 スマホを持った瞬間に、徐々に消え始めてしまった。どうしたことだ。かぶりを振って、深呼吸をひとつ。手にしていたスマホが完全に見えなくなってしまった。感触はあるのに。まあ、いいさ。気にしない、気にしないと心の内で唱えるように言い聞かせて玄関へと向かう。

 まずは通行人にでも声かけてびっくりさせてやれ。

 俺は玄関扉に手をかけた。そのとき、とんでもないことが起き始めた。
 嘘だろう。

 みるみるうちに、玄関扉が透明になっていく。それだけではない。壁も床も天井も透明に。おい、待て。俺の家が……。呆然と立ち尽くすしかなかった。

 忽然と消し去った一軒家。誰かを驚かすどころか俺自身が驚愕している。まさか、俺が触れたものすべてが消え失せてしまうってことなのか。そんな馬鹿なことがあってたまるか。

 恐る恐る消え去った家があるあたりを確かめてみた。ゆっくりと手を前に動かしていく。あ、何かが触れた。感触からすると間違いなくドアノブだ。家は目の前にある。けど、何も見えやしない。目に映るものは空き地だが、透明な家がここにある。

 なんてことだ。こんなこと俺は望んではいない。あのクソジジイ。

 頭に血が上っていく。だが、すぐに血の気が引いていった。あの爺さんの言葉が脳裏に蘇った。

「この薬は、おまえの望み通り透明にすることが出来る。どんなものでもな。がしかし、一度透明になってしまったものを戻すことは出来ないぞ。それでもいいのなら、おまえにやろう」

 確かにそう話していた。俺は、浮かれていた。透明人間になれる。ただそれだけで心が躍って楽しむ自分を想像していた。とんでもない過ちを犯してしまった。

 馬鹿だ、俺はとんでもない馬鹿者だ。どうしてもっと冷静に考えようとしなかったのだろう。
 どんなものでも透明に出来るとあの爺さんは話していたじゃないか。しかも、元に戻ることは出来ないと……。俺は急に自分の仕出かしたことに怖くなる。

「あれ、こんなところに空き地なんてあったかしら」
 目の前を通り過ぎていく女性が、首を傾げて通り過ぎていく。

「あ、ちょっと」
 思わず声をかけてしまった。

「え、嘘。幻聴かしら。嫌だ、幽霊じゃないわよね」

 女性は、悲鳴をあげて逃げていってしまった。
 俺は幽霊じゃない。ここにいるんだ。

 誰か、誰かいないか。あたりを見回すとブロック塀に猫が一匹日向ぼっこをしていた。あいつでもいい。俺に気づいてくれ。猫は、急に顔をあげて警戒している素振りを見せた。動物的勘が、俺の存在を感じているのだろう。だが、確認は出来ていないようだ。

 俺は猫の頭を撫でてみる。そしたら、猫の姿がまたしても透明になっていく。
 ああ、やっぱり。猫は完全に姿を消してしまった。深く息を吐き、ブロック塀を背に蹲る。どうしたらいいんだろうか。

「な、なに。嘘、嘘でしょ」

 なんだ、どうした。
 目の前に歩いてきた女子高生が目を見開き、口をぽかんと開けている。
 何をそんなに狼狽えている。まさか俺が見えているのか。いや、違う。俺の背後に目を向けている。何をそんなに……。

 えっ、嘘だろう。
 ブロック塀が透明になりつつある。しかも、背後の家も。
 ごくりと唾を呑み込み、ありえない光景をただただ眺めていた。
 地面も消え始めているじゃないか。あれ、さっきまでそこにいた女子高生までも透明になり始めている。俺は触れてなんかいないぞ。

 ああ、世界が消えていく。なにもかも、俺の目には映ることがない。
 俺は、俺は……。

「うわぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーー」

***

「宮田さん、宮田さん。わかりますか」
「えっ、ここは。あ、あんた、あんな薬渡しやがって」

 俺は起き上がるなり、目の前の爺さんに掴みかかった。

「宮田さん、落ち着いてください」

 爺さんの隣にいた女性が必死に俺の腕を掴んで止めにかかっている。なんだよ、止めるなって。あれ、この人は看護師か。よく見遣れば目の前の爺さんも白衣を着ている。

 医者なのか?
 ここは病院?

 あれ、俺はいったい。というか、俺の手が見える。ベッドも壁も床も窓も外の景色も全部見える。透明人間じゃなくなっている。すべてが元に戻ったというのか。
 爺さんは、元には戻らないって。

「少しは落ち着きましたか。あなたは、ずっと昏睡状態だったんですよ」
「昏睡状態、ですか?」
「そうです。目覚めたのも奇跡ですよ。もう三年になりますから」

 そうなのか。ということは、あれは夢なのか。いや、違うような気がする。

「あの、先生。俺ってなんで昏睡状態になっていたんでしょう」
「それはですね。私の試作品の薬を飲んだからですよ。あなた透明人間になりたいって言っていたじゃないですか。まあ、失敗してしまいましたけどね」

 爺さんの不敵な笑みに、俺は腰が抜けて頬を強張らせた。

「それじゃ……」
「なーに、心配はいりまえんよ。今度こそ、うまくいきますから」

「うわぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーー」


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