ちょっと奇妙な小部屋 ホラー短編集

景綱

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13号室 ぼくは誰なの(前半)

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 助けて、助けて、助けて。
 ぼく、殺されちゃう。
 急げ、急げ、急げ。
 逃げろ、逃げろ、逃げろ。

 四肢に力を込めて、住宅街を全力疾走する。誰かの家の庭を駆け抜け、ブロック塀を乗り越え、道の曲がり角を曲がり逃げ回る。背後に迫り来る黒い影。ぼくの身体の倍はありそうだ。
 ぼくは、走る。風を切って走り抜ける。四肢を高速に動かし、無我夢中で走る。それでも、背後から迫り来る黒い影は追い駆けてくる。

 異様な殺気に身体の震えが突然やってくる。このままじゃ追いつかれてしまう。ぼくは何も悪いことをしていないはずなのに。どうしてなの、なぜなの。気づかないうちに悪いことをしてしまったの。教えてよ。

 助けて、助けて、助けて。ぼく、殺されちゃう。そんなの嫌だ。

 背後から伝わる怒りの気配。今にもぼくを呑み込もうかと覆い被さってくる気配。粘度の高い負のオーラを振り払い、一心不乱に駆け抜ける。
 毒針のような鋭い視線が背後から貫いてくる。捕まったら、ぼくは殺されてしまう。
 そんなのダメだ。死にたくない。生きたい。

 急げ、急げ、急げ。
 逃げろ、逃げろ、逃げろ。
 捕まってなるものか。

 そのとき、目の前に希望の光が灯った。ぼくの視界に小さな横穴が入り込む。あそこなら、あいつは入って来られないはずだ。

 行け、行け、行け。
 もっと早く、ぼくの足よ、動け。
 足が壊れたっていい。死ぬよりはマシだ。捕まる前に、横穴に急げ。間に合ってくれ。頼む。ぼくは念じた。
 そのとき、背中に何かが掠めた気がした。白い毛が舞った気もした。それでも、足を止めずに横穴へ突き進む。

 ザザザッ。
 はぁ、はぁ、はぁ。

 身体中が脈動している。荒げた呼吸が鼓膜に響く。
 やった、滑り込みセーフだ。間に合った。助かった。ぼくはまだ生きている。大きく息を吐くとゆっくりと身体を沈めた。

 うううっ、い、痛い。

 ホッとした瞬間、背中に走る激痛で顔を顰めた。どうやら、横穴に入り込む寸前に、あいつに背中を爪で引き裂かれたようだ。ズキンズキンと傷が疼く。けど、ぼくは生きている。こんな傷なんてたいしたことはない。大丈夫だ。嘗めさえすれば、そのうち治るはずだ。

 真っ白な毛に真っ赤な血が染まっている。本当に治るだろうか。
 興奮冷めやらぬまま、胸を上下させて荒い息をする。胸の奥で心臓が激しく鼓動を打ち付けている。もう大丈夫だ、少しは落ち着けと言い聞かせるのだが、背後からの唸り声が耳に衝きビクッと身体を震わせる。まだ、あいつはいる。

 大丈夫、あいつはここへは入れない。諦めてくれるはずだ。
 振り返ると、翡翠色に光った瞳が睨み付けてきた。思った通り、この狭い空間には入れないようだ。ぼくのところまで鋭い爪も届いてこない。イラついているようだ。
 ここは無視してやり過ごすしかない。
 そのとき、声が聞こえた。

「こら、ケンカしちゃダメでしょ」

 女の子の声だ。

「相手は子猫じゃない。あんた、弱い者いじめはダメよ。ほら、あっち行きなさい」

 女の子の声にチラリと目を向けるとあいつは、一度こっちに睨みを利かせて踵を返し去って行く。大きな身体を揺らしながら去って行く虎猫の後姿を見続けた。ブロック塀に飛び乗り脇道へと姿を消すまで見続けた。
 身体の大きなあいつは、諦めてくれたようだ。よかった。女の子のおかげだ。
 ぼくは血の滲む背中を嘗めながら、しばらく横穴で身を潜めていた。暴れていた心臓も次第に大人しくなっていった。と同時に、眠気が込み上げてきて瞼を閉じた。

「大丈夫、子猫ちゃん」

 んっ、何?
 薄目を開けて穴の外を見遣ると、そこには女の子の顔があった。助けてくれた女の子だろう。ありがたいけど、眠いんだ。放っておいてくれ。

「血が出ているわよ。お医者さん行かなきゃダメよ」

 お医者さん? それってなんだ。

「ほら、こっちおいで。怪我治さなきゃダメよ」

 そんなことわかっている。けど、放っておいてくれ。大丈夫だって、嘗めれば治るって。人間って大袈裟だな。心配してくれるのは嬉しいけど。

「子猫ちゃん、ねぇ」

 ぼくは、女の子の声を聞きながら眠りについた。

***

「彰人、大丈夫」
「えっ、何? お母さんどうしたの?」
「なんだか、うなされていたから」

 あれ、ぼくは……。ここはぼくの部屋?
 ベッドだよね。ああ、そうか夢だったのか。

「うん、ちょっと怖い夢を見たんだ。でもね、ぼく、猫になったの。最初は楽しかったのに、大きな猫が襲ってきて」

 ブルッと身体を震わせた。

「怖かったわね」
「うん」

 ぼく、猫じゃなくてよかった。あんな怖い思いはもうしたくない。けど、あいつと出会わなきゃ楽しいかも。今度は、楽しい夢がいいな。そうだったら、猫の夢もいいかも。

「彰人、朝ごはん食べよう」

 ぼくは頷き、ベッドから飛び起きた。

「あっ、そうだ。夢にね、麻衣ちゃんも出て来たんだよ。ぼくを助けてくれたんだ」
「そうなんだ。もしかして、彰人は麻衣ちゃんのこと好きなのかな」

 母さんは微笑みながら問い掛けてきた。
 好きだなんて。

「あら、顔が真っ赤よ。うふふ」
「もう、お母さんなんて知らない」

 ぼくは、再び部屋に戻りベッドに寝転がった。

「彰人、ごめん。ごはん食べましょうよ。大好きな目玉焼き作ったんだけどな。食べないんだったらお母さんが食べちゃうわよ」

 知らないよーだとぼくは、布団を頭から被って夢のことを考えた。あれ、なんだか腰のあたりが痛いな。どうしてだろう。寝間着をめくり上げて覗き込んでもよく見えない。触った感じだと傷はないみたいだけど。
 どうにもズキズキする。おかしいな。
 再び飛び起きて「お母さん、ちょっと背中見て」と寝間着をめくり上げる。

「どうしたの?」
「なんだかズキズキするんだ。変なんだ」
「うーん、何もないけどな。痛いの?」
「うん」
「なら、お医者さん行ってみようか」

 えっ、お医者さん。

「行かない。何もないんでしょ。ならいい。ぼく、また眠くなっちゃったから寝るね」
「彰人、ダメよ。痛いんでしょ」
「大丈夫だってば」

 ぼくは頭から布団を被って、背中から腰あたりに疼く痛みに顔を顰めつつ瞼を閉じた。

***

 あれ、ここはどこだろう。
 なんだかいい匂いがする。鼻先を上向きにして素敵な香りを吸い込んだ。ああ、幸せな匂いがする。美味しい香りだ。でも、ここはどこだろう。

 うううっ。身体を動かした瞬間、背中が疼いた。眉間に皺を寄せて背中に目を向けた。
 あっ、ぼくまた猫になっている。じゃ、これは夢なのかな。

「あ、シロちゃん目が覚めたのね」

 突然、降り注がれた言葉に顔を上げるとそこには麻衣がいた。

「背中、まだ痛い? ちゃんとお医者さんに診てもらったから、大丈夫だからね」

 お医者さんに。いつの間に。あれ、お医者さんってなんだっけ。
 あっ、これは夢だ。現実じゃないんだ。そうだよね。
 麻衣は話を続ける。

「シロちゃん、お腹空いたでしょ。美味しいスープ作ったんだ。目玉焼きもあるよ。食べてみる? 味付け薄くしたから大丈夫だと思うんだけどな」
「にゃ」

 食べたい。この匂いは堪らない。すると、お腹がクゥーッと鳴った。
 麻衣はニコリとして「じゃ、持ってくるね。シロちゃん」とキッチンの方へ小走りに消えていった。

『シロちゃん』ってぼくのことだろうか。おそらくぼくは白猫なのだろう。そんなことどうでもいい。今は早く食べたい。スープか。なんて美味そうな匂いだろう。目玉焼きもそそられる。もう一度、鼻先を上向きにして匂いを楽しんだ。

「はい、お待たせ。ちゃんと冷ましてあるからね。猫舌でも大丈夫よ」

 ありがたい。目の前に出されたスープは覚めても幸せな香りを醸し出していた。となりの目玉焼きも美味そうだ。どっちから食べようか。

「どうしたの。食べないの」

 チラッと麻衣を見遣り、スープをペロリと嘗めた。

 なんとも優しい味がする。とろりとしたクリームスープだ。おおお、魚も入っている。タラみたいだ。目玉焼きの黄身が半熟でこれまたとろりとする。
 なんて幸せなのだろう。美味し過ぎて思わず喉を鳴らしてしまう。
 そうそう、こういう夢だったら毎日でも見たい。

「そんなにがっつかなくてもいいのよ。まだたくさんあるんだから。本当にシロちゃんかわいい」

 頭を撫でられてちょっとビクッとしてしまう。

「ごめんね。邪魔しちゃったね。じゃ、ゆっくり食べてね」

 麻衣はすぐ脇にあるソファーに座り、笑顔を見せてぼくに目を向けてくる。その眼差しが優し気で心地よかった。お腹も心も満足だ。皿の隅々まで嘗め尽くして綺麗に完食する。
 お腹いっぱいになったら、また眠くなってきた。
 ふかふかのソファーで眠ろうか。麻衣の膝の上も温かそうでいいかも。

***

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