20 / 50
13号室 ぼくは誰なの(前半)
しおりを挟む助けて、助けて、助けて。
ぼく、殺されちゃう。
急げ、急げ、急げ。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
四肢に力を込めて、住宅街を全力疾走する。誰かの家の庭を駆け抜け、ブロック塀を乗り越え、道の曲がり角を曲がり逃げ回る。背後に迫り来る黒い影。ぼくの身体の倍はありそうだ。
ぼくは、走る。風を切って走り抜ける。四肢を高速に動かし、無我夢中で走る。それでも、背後から迫り来る黒い影は追い駆けてくる。
異様な殺気に身体の震えが突然やってくる。このままじゃ追いつかれてしまう。ぼくは何も悪いことをしていないはずなのに。どうしてなの、なぜなの。気づかないうちに悪いことをしてしまったの。教えてよ。
助けて、助けて、助けて。ぼく、殺されちゃう。そんなの嫌だ。
背後から伝わる怒りの気配。今にもぼくを呑み込もうかと覆い被さってくる気配。粘度の高い負のオーラを振り払い、一心不乱に駆け抜ける。
毒針のような鋭い視線が背後から貫いてくる。捕まったら、ぼくは殺されてしまう。
そんなのダメだ。死にたくない。生きたい。
急げ、急げ、急げ。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
捕まってなるものか。
そのとき、目の前に希望の光が灯った。ぼくの視界に小さな横穴が入り込む。あそこなら、あいつは入って来られないはずだ。
行け、行け、行け。
もっと早く、ぼくの足よ、動け。
足が壊れたっていい。死ぬよりはマシだ。捕まる前に、横穴に急げ。間に合ってくれ。頼む。ぼくは念じた。
そのとき、背中に何かが掠めた気がした。白い毛が舞った気もした。それでも、足を止めずに横穴へ突き進む。
ザザザッ。
はぁ、はぁ、はぁ。
身体中が脈動している。荒げた呼吸が鼓膜に響く。
やった、滑り込みセーフだ。間に合った。助かった。ぼくはまだ生きている。大きく息を吐くとゆっくりと身体を沈めた。
うううっ、い、痛い。
ホッとした瞬間、背中に走る激痛で顔を顰めた。どうやら、横穴に入り込む寸前に、あいつに背中を爪で引き裂かれたようだ。ズキンズキンと傷が疼く。けど、ぼくは生きている。こんな傷なんてたいしたことはない。大丈夫だ。嘗めさえすれば、そのうち治るはずだ。
真っ白な毛に真っ赤な血が染まっている。本当に治るだろうか。
興奮冷めやらぬまま、胸を上下させて荒い息をする。胸の奥で心臓が激しく鼓動を打ち付けている。もう大丈夫だ、少しは落ち着けと言い聞かせるのだが、背後からの唸り声が耳に衝きビクッと身体を震わせる。まだ、あいつはいる。
大丈夫、あいつはここへは入れない。諦めてくれるはずだ。
振り返ると、翡翠色に光った瞳が睨み付けてきた。思った通り、この狭い空間には入れないようだ。ぼくのところまで鋭い爪も届いてこない。イラついているようだ。
ここは無視してやり過ごすしかない。
そのとき、声が聞こえた。
「こら、ケンカしちゃダメでしょ」
女の子の声だ。
「相手は子猫じゃない。あんた、弱い者いじめはダメよ。ほら、あっち行きなさい」
女の子の声にチラリと目を向けるとあいつは、一度こっちに睨みを利かせて踵を返し去って行く。大きな身体を揺らしながら去って行く虎猫の後姿を見続けた。ブロック塀に飛び乗り脇道へと姿を消すまで見続けた。
身体の大きなあいつは、諦めてくれたようだ。よかった。女の子のおかげだ。
ぼくは血の滲む背中を嘗めながら、しばらく横穴で身を潜めていた。暴れていた心臓も次第に大人しくなっていった。と同時に、眠気が込み上げてきて瞼を閉じた。
「大丈夫、子猫ちゃん」
んっ、何?
薄目を開けて穴の外を見遣ると、そこには女の子の顔があった。助けてくれた女の子だろう。ありがたいけど、眠いんだ。放っておいてくれ。
「血が出ているわよ。お医者さん行かなきゃダメよ」
お医者さん? それってなんだ。
「ほら、こっちおいで。怪我治さなきゃダメよ」
そんなことわかっている。けど、放っておいてくれ。大丈夫だって、嘗めれば治るって。人間って大袈裟だな。心配してくれるのは嬉しいけど。
「子猫ちゃん、ねぇ」
ぼくは、女の子の声を聞きながら眠りについた。
***
「彰人、大丈夫」
「えっ、何? お母さんどうしたの?」
「なんだか、うなされていたから」
あれ、ぼくは……。ここはぼくの部屋?
ベッドだよね。ああ、そうか夢だったのか。
「うん、ちょっと怖い夢を見たんだ。でもね、ぼく、猫になったの。最初は楽しかったのに、大きな猫が襲ってきて」
ブルッと身体を震わせた。
「怖かったわね」
「うん」
ぼく、猫じゃなくてよかった。あんな怖い思いはもうしたくない。けど、あいつと出会わなきゃ楽しいかも。今度は、楽しい夢がいいな。そうだったら、猫の夢もいいかも。
「彰人、朝ごはん食べよう」
ぼくは頷き、ベッドから飛び起きた。
「あっ、そうだ。夢にね、麻衣ちゃんも出て来たんだよ。ぼくを助けてくれたんだ」
「そうなんだ。もしかして、彰人は麻衣ちゃんのこと好きなのかな」
母さんは微笑みながら問い掛けてきた。
好きだなんて。
「あら、顔が真っ赤よ。うふふ」
「もう、お母さんなんて知らない」
ぼくは、再び部屋に戻りベッドに寝転がった。
「彰人、ごめん。ごはん食べましょうよ。大好きな目玉焼き作ったんだけどな。食べないんだったらお母さんが食べちゃうわよ」
知らないよーだとぼくは、布団を頭から被って夢のことを考えた。あれ、なんだか腰のあたりが痛いな。どうしてだろう。寝間着をめくり上げて覗き込んでもよく見えない。触った感じだと傷はないみたいだけど。
どうにもズキズキする。おかしいな。
再び飛び起きて「お母さん、ちょっと背中見て」と寝間着をめくり上げる。
「どうしたの?」
「なんだかズキズキするんだ。変なんだ」
「うーん、何もないけどな。痛いの?」
「うん」
「なら、お医者さん行ってみようか」
えっ、お医者さん。
「行かない。何もないんでしょ。ならいい。ぼく、また眠くなっちゃったから寝るね」
「彰人、ダメよ。痛いんでしょ」
「大丈夫だってば」
ぼくは頭から布団を被って、背中から腰あたりに疼く痛みに顔を顰めつつ瞼を閉じた。
***
あれ、ここはどこだろう。
なんだかいい匂いがする。鼻先を上向きにして素敵な香りを吸い込んだ。ああ、幸せな匂いがする。美味しい香りだ。でも、ここはどこだろう。
うううっ。身体を動かした瞬間、背中が疼いた。眉間に皺を寄せて背中に目を向けた。
あっ、ぼくまた猫になっている。じゃ、これは夢なのかな。
「あ、シロちゃん目が覚めたのね」
突然、降り注がれた言葉に顔を上げるとそこには麻衣がいた。
「背中、まだ痛い? ちゃんとお医者さんに診てもらったから、大丈夫だからね」
お医者さんに。いつの間に。あれ、お医者さんってなんだっけ。
あっ、これは夢だ。現実じゃないんだ。そうだよね。
麻衣は話を続ける。
「シロちゃん、お腹空いたでしょ。美味しいスープ作ったんだ。目玉焼きもあるよ。食べてみる? 味付け薄くしたから大丈夫だと思うんだけどな」
「にゃ」
食べたい。この匂いは堪らない。すると、お腹がクゥーッと鳴った。
麻衣はニコリとして「じゃ、持ってくるね。シロちゃん」とキッチンの方へ小走りに消えていった。
『シロちゃん』ってぼくのことだろうか。おそらくぼくは白猫なのだろう。そんなことどうでもいい。今は早く食べたい。スープか。なんて美味そうな匂いだろう。目玉焼きもそそられる。もう一度、鼻先を上向きにして匂いを楽しんだ。
「はい、お待たせ。ちゃんと冷ましてあるからね。猫舌でも大丈夫よ」
ありがたい。目の前に出されたスープは覚めても幸せな香りを醸し出していた。となりの目玉焼きも美味そうだ。どっちから食べようか。
「どうしたの。食べないの」
チラッと麻衣を見遣り、スープをペロリと嘗めた。
なんとも優しい味がする。とろりとしたクリームスープだ。おおお、魚も入っている。タラみたいだ。目玉焼きの黄身が半熟でこれまたとろりとする。
なんて幸せなのだろう。美味し過ぎて思わず喉を鳴らしてしまう。
そうそう、こういう夢だったら毎日でも見たい。
「そんなにがっつかなくてもいいのよ。まだたくさんあるんだから。本当にシロちゃんかわいい」
頭を撫でられてちょっとビクッとしてしまう。
「ごめんね。邪魔しちゃったね。じゃ、ゆっくり食べてね」
麻衣はすぐ脇にあるソファーに座り、笑顔を見せてぼくに目を向けてくる。その眼差しが優し気で心地よかった。お腹も心も満足だ。皿の隅々まで嘗め尽くして綺麗に完食する。
お腹いっぱいになったら、また眠くなってきた。
ふかふかのソファーで眠ろうか。麻衣の膝の上も温かそうでいいかも。
***
0
あなたにおすすめの小説
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2026/1/13:『こえ』の章を追加。2026/1/20の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/12:『あけてはいけない』の章を追加。2026/1/19の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/11:『みきさー』の章を追加。2026/1/18の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/10:『つかまれる』の章を追加。2026/1/17の朝8時頃より公開開始予定。
2026/1/9:『ゆうじんのかお』の章を追加。2026/1/16の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/8:『ついてきたもの』の章を追加。2026/1/15の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/7:『かわぞいのみち』の章を追加。2026/1/14の朝4時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
百物語 厄災
嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。
小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
(ほぼ)1分で読める怖い話
涼宮さん
ホラー
ほぼ1分で読める怖い話!
【ホラー・ミステリーでTOP10入りありがとうございます!】
1分で読めないのもあるけどね
主人公はそれぞれ別という設定です
フィクションの話やノンフィクションの話も…。
サクサク読めて楽しい!(矛盾してる)
⚠︎この物語で出てくる場所は実在する場所とは全く関係御座いません
⚠︎他の人の作品と酷似している場合はお知らせください
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
