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終章
1 春が来て
しおりを挟む日差しがすっかり暖かくなった――そう思いながらおりんは屋敷へと帰る道を歩いていた。腕に抱えた買い物かごの中には、先程露店で買ったばかりの大根と菜の花が顔を覗かせている。
季節はすっかり春になった。有島家の生活はというと、変わらないこともあれば少しだけ変わったこともあった。
屋敷に戻ってきたおりんは門をくぐり、中に入る前にぱっと上を見上げた。屋敷の屋根の上には、張り替えに励む清之進の姿があった。
「清之進さま、ご苦労さまでございます」
「おお、おりん。そなたも買い出しご苦労であった。む!その籠の中身は……菜の花とみた」
その鋭い視線に、おりんは思わず笑ってしまう。
「はい、そのとおりでございます。さすがは清之進さま、鷹のように鋭い目をしていらっしゃる。これからから湯がいて昼飯に出しますので、もうしばらく待っていてください。お呼びいたしますので」
「承知した。ではうまい飯を食べるためにも、あと少し頑張るとしようか」
屋敷から姿を消した清之進が戻ったあと、有島家はすっかり三人の生活に戻っていた。
当の本人である清之進はというと、あのあとしばらく屋敷でじっと姿を隠していた。
弟の惣次郎が言うには、久本が殺られたことを聞きつけた水戸の追手が、市中にうろついていたらしい。そのため冬の間は屋敷に隠れ、戸の張り替えなどおりんには難しい力仕事や、掃除の手伝いをしてすごしていた。ただ時折外に出たいようで、そのときは顔を頭巾で覆いおりんの従者のように、買い物に付き合っていたのである。
惣次郎はというと、相変わらず忙しそうに仕事に励んでいた。しかしどこか憑き物が取れたように、仕事のやり方がまるで変わってしまったらしい。
以前のように自分の手柄を追う事ばかりを考えず、いまはどちらかというと町民のために治安を守ることに尽力しているらしい。だからか、以前よりも屋敷に帰ってくるようになり――。
「ただいま、戻ったぞ」
こうして、昼飯を食べに戻るようになったのである。
出来上がったばかりの菜の花のお浸しと飯、大根の味噌汁を食卓に並べ終えたおりんは、立ちあがり出迎える。
「おかえりなさいませ。ちょうど昼飯が出来上がったところにございます。――清之進さまも、降りてきて下さいませ!」
すると、屋根の上から声が響いた。
「あい、わかった。今から急いで向かうぞ。ふたりとも待っておれ」
そういう訳で、有島家にはすっかり平穏な空気が流れていた。
食事を済ませたあと、惣次郎は午後の仕事へと戻っていった。おりんは片付けを手早く済ませ、茶を飲んでいた清之進に声をかける。
「お待たせしました。さあ、参りますよ。準備はできておりますか」
「うむ。失礼のないよう整えたが、どうだ?」
そう言ってつるりとした顎を見せるので、思わずおりんは笑いそうになる。
「はい。それで大丈夫でございます。姫様はたとえ清之進さまがどんな姿をされていようと、受け入れてくださる優しさの持ち主でいらっしゃいますから」
屋敷から出たふたりが向かったのは、千代が住む川島家であった。清之進が姿を消している間、千代の従者である滝本に世話になっていた時期があり、その感謝を伝えにと参ったのである。
甘味処で美味しそうな団子を見繕い出向いたところ、千代はおりんとその後ろの清之進を見て一瞬驚いた。しかし笑顔で屋敷の中へ招き入れてくれたのだった。
「その節は、滝本さまには大変お世話になりました」
すると後ろで控える滝本が礼をした。千代は微笑みながら口を開いた。
「何を言っているの、おりん。私があなたにこれまでどれだけ助けられたか。それを思えば、当たり前のことです」
千代はそう言ってはにかんだ。おりんが再度、深く深く頭を下げていると、千代はふとこんなことを言った。
「………そういえば、世間はようやく落ち着いてきましたね。有島さまも、最近は屋敷に戻るようになりましたか?」
「はい。先程も昼飯を食べに戻られたばかりです」
「それはよかった。最近は昔以上に下町を巡る頻度が多くなり、上からの評価は少し落ちてしまったと耳にしました。しかし師範代の腕を持つ水戸浪人を斬り捨てたという噂もあって、そんな方が見回りをしていると、町の皆はすっかり安心しているのですよ」
おりんは思わず後ろにいる清之進の顔を見たくなったものの、こらえた。
「……そういうこともあって、私は昔の有島さまよりも今の有島さまの方が、ずっと身近に感じます。本当に、最近は笑顔がとっても優しくなって……あれはきっと千代のおかげなのではないですか?」
「え、と……それはどうでしょうか。……でも、笑顔が素敵になられたというのは、私もそのとおりだと思います」
千代がどぎまぎ返すと、後ろからふっと小さな笑い声が聞こえた。きっと清之進さまが笑ったのだ――そうおりんが赤くなっていると、千代は言った。
「……それにしても、有島さまの御兄上さまがこんなに格好いいなんて」
「ははは。お褒め頂きありがたく存じます」
清之進はそう言って照れくさそうに笑った。確かに、髭を剃って綺麗に髪を結った彼は、惣次郎とは方向性は違うものの、男前の部類だった。
大きな目を細めて喜ぶ姿を前に、おりんは少しだけ心配する。
――清之進さま、大丈夫だろうか。
そんなことなど知らず、彼は続けた。
「たまたま江戸に来ていた凄腕の蘭学医に診てもらい、薬を調合してもらった結果、みるみる快方に向かいまして。いまはこうしておりんに付き添ってもらい、からだを慣らしているところなのです」
やはり、少しだけ棒読みだった。この人はこんな感じで、嘘を付きたくとも付けない体質なのだろう。ただ、それが清之進のいいところなのだとおりんには思えた。
千代は少しも気にせず微笑んだ。
「それはよかったですね。おりんは料理の腕もさながら看病も上手でしょう?きっと、それも力になったのではないですか」
「はい!姫様の言う通りにございます!おりんの飯はとにかくうまい」
「ふふふ。清之進さまは、なんて面白い方。おりん、これからも尽力するのですよ」
「はい!おふたりのために、これからも励みまする」
千代とおりん、そして清之進と後ろに控える滝本の、穏やかな笑い声があたりに響き渡る、穏やかな午後のひとときであった。
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