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6章 汝
4 海
しおりを挟む一行は、おのおの遊ぶ前に食事の準備を、ということで、浜の脇に用意された水場で作業に取り掛かった。千逸はひとり火の準備、ほかのメンバーは調理の下ごしらえという割り振りで、霧島も包丁を持たされたのだが――。
「その手つきは……まさか料理したことない?」
ミツギにやんわりと指摘され、霧島は刃を入れようとしていたにんじんからぱっと手を離す。
「……まあ、しなくても生きていけるし、こういう何かを作る系は昔から苦手意識があって……」
「えーそうなんだ。意外!」
そうさらりと口を出したマユハは、すごい速さで包丁を動かしていた。その仕事ぶりに、千逸がこのために呼んだ、というのも納得できた。千逸がどれだけ包丁を使えるかはわからないが、仮にふたりだったら絶対に日が暮れてしまうだろう。
ミツギは人工肉を丁寧に同じ大きさに切りながら続ける。
「大抵さ、X型に興味持つのって、性への興味じゃなくて、料理とか刺繍とか細かい作業とマルチタスクしたいからなんだよね。指細くて繊細な作業しやすいし」
そのことばに違和感を持った霧島は聞いてみる。
「……ふたりとも、もとは男性だったのか?」
「そう!あたしもマユハも、もうすっかりこっちだけどねー」
「霧島くん、まさかX型試したことないの?」
マユハの問いに霧島は素直に頷く。
「やだー♡」
――なにが……やだ?
霧島が考え始めると同時に、ミツギは、野菜の皮を剥く花角に同じ問いをする。
「花角くんは?」
「……俺はあるよ」
「やっぱり?口調が柔らかいし、下ごしらえすごく上手だもん!」
――何もできなくて悪かったな。
霧島の心の声に被せるように、花角は口を開く。
「それは……多分野菜を扱い慣れてるからだと思うけど」
「ねえねえ、じゃあ、X型にしてみたのって最近?」
マユハの問いに、花角はすこし考えてから、
「いや、少し前、だね」
と言った。
「えー、どうして変えようと思ったの?」
「うーんと……好きな人のため、かな?」
そのことばに、ふたりから黄色い悲鳴が上がる。
「きゃー!待ってました!あたしたちみたいに不純な動機じゃないやつ!」
「いまなら昔みたいに性別が邪魔するとかないもんね!」
「本当!気軽に変えられるし、どっちもやって好きな方選べるし……好きな人のために変えるとか……まじ最高」
霧島はその陰でひとり思う。
――そういえば、花角のそういう話は初めて聞いたな。
いまの時代、恋愛は趣味のくくりに入っているので、ずっと興味のなかった霧島は花角にそういう話題を振ったことはなかった。しかしよく考えてみれば、確かに花角ならば、人にこうしろと言う前に自分を変えるだろう。優しく、思いやり溢れる人間であることは、霧島もよく知るところだ。
不意に、花角がこちらを見ていることに気づいた。
これまで見たことのない熱を持った視線に、霧島は驚き視線をそらす。
――まるで…………好きな人に向けるみたいだな。
そう思い戸惑っていると、霧島の視界の端に、火起こしを終えてこちらの様子を見に来たのだろう、千逸の姿があった。
それを捉えたミツギは不満げに言う。
「そういえば、千逸はずっと男だよね」
「ねー面白くない」
そんなふたりのあからさまな発言は、本人に届いたらしい。
「ふん、面白くなくて悪かったな。つまらなくて手が遅い男たちは立ち去るとしよう」
と言い、手持ち無沙汰に立っていた霧島の手を軽く握ると、
「霧島、行こう」
と手を引くので、ついていかない訳にはいかなかった。
「ねー!見た?千逸えげつな!」
「あれはもう、タイミングうかがってたよね」
「まあ、しょうがない!だって大本命だもん」
そんな女子二人の野次を背に、霧島は黙って千逸の後ろをついていった。
****
「……いいのか?準備を全部任せてしまって」
砂浜まで連れてこられた霧島は、あそこにいても自分が少しも役に立たないことを知っていたものの、一応確認する。
「大丈夫だ。あいつらはそのつもりで来てる」
「確かに……ふたりもそうは言っていたが」
――勝手に仕事を放棄したみたいで申し訳ない。
そう思う霧島の手を、千逸は再度、力を込めて握り直すと、突然かろやかに走り出した。
「――千逸?」
「せっかく来たんだ。楽しんだほうがいい」
そう言われるも、霧島は慣れない砂浜の上でついていくことに必死だった。温かい砂を足の裏に感じながら精一杯走ると、視界の端に群青が見えたと思えば、突然、目の前に波打ち際が広がったではないか。
「……まさか、映像ではなく本当に海なのか?」
そんな霧島のつぶやきに呼応するように、
「ああ。いくぞ」
とだけ千逸は言うと、手を握ったままそこに飛び込んだ。
濁流に飲み込まれたような大きな音と、冷たい水飛沫が肌を打つ。
それが唐突に静まり返ったかと思えば、ふたりは腰まで浸かった状態で海の中に立っていた。
霧島は濡れた顔を手で拭い、その心地よい冷たさに驚いた。
――まさか、本当に触れられるなんて。
海。それはかつて日本人にとって、非常に身近な存在だった。しかし『塵の時代』を経て、核による汚染を受けたことで、現在は忌避すべきものになってしまった。
しかし、魂に刻み込まれた海への憧憬は簡単には消えないのだろう。
素体交換を終えた後に、精神を安定するため海の仮想現実に一定時間おかれるのは、おそらくそれが科学的に実証されているからなのだと思われた。
ただ、このプラント内世界において、触れられる実際の水というのは極めて貴重だった。水は基本的にプラント内での内循環であるし、外から引く場合は、地下水を何層ものフィルターを使用して濾過しなければならない。
そのため、この量の水は大変貴重であり、てっきりただの投影であると霧島は思っていたのだった。
気づけば、隣には日差しに輝く千逸の姿があった。
「どうだ?最高じゃないか?」
そう言って笑うので、思わず疑問をなげかける。
「すべて、本物の水なんだな。……考えられない。まさかこの世界にこんなに水があるとは」
「……そうだな。資源の関係もあって、この量の水にはなかなか出会えない。楽しむといい」
そんな千逸のことばは、すでに霧島の耳へは届いていなかった。
冷たい水が身体を包み、ぞわりと皮膚を撫で、下から押し上げる浮遊感。
それをどこか懐かしいと感じている自分がいることに、霧島はこのとき気づいたのだ。
――この感覚を追っていけば、おそらく水のなかにいれば……あの夢の先に辿り着ける気がする。
肌を包む水がもたらしたものは、あの夢が実際に記憶の一部である可能性があること。
そしてその記憶こそが、自分のすべての鍵となる確信だった。
霧島は感覚に身を任せ、ぼんやりと海を歩く。
突然、視界が暗くなったのはそんなときだった。
「――ただ、見た目ほど奥行きはない。砂浜は表面だけで、奥はダイビングやシュノーケリングを楽しめるようにかなり深度がある。だから水を楽しむのなら、この辺にしておけ。泳いだことはないはず――っ……霧島!?」
そうして千逸が気づいたときには、霧島の姿は跡形もなく消えていたのだった。
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