室生犀星の後悔

華愁

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第十話 妻としての不安と勘❬芥川文視点❭

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夫の芥川龍之介の帰りが遅い日が
多くなった。

私に冷たいわけでもなく子供たちにも
優しいし、一緒に遊んでくれるが
行き先は話してくれないし
たまに、満たされたような表情をしている。

ふと、思った。

“特別な人”ができたんじゃないかと。

時折、夫の着物から漂ってくる“料理”の香り。

どなたかのお宅にお邪魔しているのか
外食しているのか、とにかく、
私の作る料理とは違う香りが内心を掻き乱す。

「文、ただいま」

玄関まで行くと龍之介さんの着物から
今日は栗ご飯の香りがした。

甘くて香ばしい香り……

明らかに外食ではなく誰かのお宅に寄ってきた証。

「龍之介……」

何を言いたいのか気付いたらしい。

「あぁ、栗ご飯の香りがするかい?

実は昼食を“文学仲間”の室生犀星君の家で頂いたんだ。

犀星君の奥方のとみ子さんが炊いたんだよ。

秋の味覚に合わせて用意したらしくて
僕も家族水入らずのところにお邪魔するのは
遠慮しようかとも思ったんだけと室生家の子供たちにも
是非、食べて行ってほしいとせがまれてしまったからね。

とても美味しかったよ」

理屈はわかる。朝から出かけていたから
その時から室生さんの家にいて、文学の話していて
白熱し昼食をご馳走になることになったのだろう。

「そう、よかったわね」

頭では理解できても心が納得していない。

「夕飯まで書斎にいるから」

そう言われてしまっては私に返す言葉はない。

「わかった、夕飯ができたら呼ぶわ」

あんなに無気力で一時は私たち家族や
文学さえも放り出した龍之介が
今では毎日、書斎に籠り、たまに、満たされたような
表情をするようになったのは何故なのか……

本当に“特別な人”が……?

「母さん?」

七歳の長男・比呂志が心配そうに声をかけてきた。

私ははっとして、比呂志の方に視線を向けた。

「……どうしたの、比呂志」

「母さん……お顔がこわいよ」

子供の言葉は、時に鋭く心の内を突いてくる。

私は慌てて笑顔を作り、息子の頭を撫でた。

「ごめんなさいね。

ちょっと考え事をしていただけよ」

「……父さんのこと?」

比呂志は幼いながらもよく見ている。

私は答えに窮し、ただ抱き寄せた。

「父さん、ね。比呂志はどう思う?」

「うん……。父さん、前より楽しそうだよ」

その言葉に胸が痛んだ。

そう、あの人は楽しそうなのだ。

家族の前では見せなかった、
どこか解き放たれた表情を見せるようになった。

「でもね、母さん」

比呂志が小さな声で続けた。

「ぼくは、母さんがいちばんすきだよ」

その無垢な言葉に、私は思わず涙がにじんだ。

「ありがとう……比呂志」

抱きしめると、子供の温もりが胸に広がる。

けれど同時に、不安の影も消えない。

龍之介にとって、
私や子供たちは本当に“いちばん”なのだろうか。

それとも……。

私はその夜、布団に入りながら、夫の寝息を聞いた。

隣で眠る姿は以前と変わらない。

だが、彼の心の奥には、
私の知らない何かが芽生えている。

それが文学への情熱なのか、それとも“特別な人”なのか。

答えはまだ、見えなかった。
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