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第十一話 見てはならぬ光景 ❬芥川文視点❭
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私は二歳の也寸志をおんぶして買い物に出かけた際に
夫が室生さんと、その奥様のとみ子さんと並んで歩いているのを見て驚いた。
龍之介のあんな笑顔を見たのはいつぶりだろうか。
“心から楽しい”と溢れ出ている
満面の笑みなんて私は何年も見ていない。
家の中でさえ殆んど笑わない龍之介が
あの二人とは楽しそうに笑っている……
まるで、“本当の家族”のような光景に
胸が締め付けられるなような痛みを感じた。
室生さんが何を言ったのかはわからないけど
照れたらしい龍之介は室生さんの腕を叩き
それを見てとみ子さんが笑っていた。
龍之介のあんな“無邪気な子供”みたいな仕草は初めて見た。
私は買い物籠を持ったまま、その場に縫い付けられたように動けなかった。
友人の言葉に照れ、腕をたたき、それを見て、友人の奥方が笑う。
一見、普通の光景なのに私は取り残されたような気持ちになった。
家の中では決して声を上げて笑わない龍之介。
子供たちに向ける笑顔とは違う種類の笑顔。
少年のような無邪気で何の憂いのなく屈託な笑い声。
あぁ、この人はまだこんな笑い方ができるのだ。
けれど、その笑いは私の知らない場所で、私の知らない人たちと共有されている。
まるで私は「妻」ではなく、
ただの「家を守る係」に成り下がったような気がして、
胸の奥に重く冷たい石が沈んでいく。
「おかあさま……?」
背中の也寸志がもぞもぞと動いた。
子どもの小さな声に我に返り、慌てて歩き出した。
立ち尽くしたままでは、人目に涙を悟られてしまいそうだったから。
家に戻る道すがら、何度も何度も脳裏に蘇ったのは――
龍之介のあの笑顔。
私に向けられたことのない、無邪気で無防備な笑み。
あれを見てしまった瞬間から、
心のどこかで恐れていた疑念が、確信めいて膨らみはじめていた。
――龍之介には、私の知らない「居場所」があるのではないか。
その夜、夕餉の膳を囲んでいるときも、
子どもたちと話す夫の横顔の向こうに、
あの二人と並んで笑う姿が透けて見えてしまった。
その夜、私は子供たちを寝かしつけた後、
龍之介を問いただした。
――
「龍之介、今日、買い物の帰りにあなたが
室生さんと……奥方と、一緒に歩いているところを……
あんなに屈託なく無邪気に笑ってる龍之介なんて初めて見たわ」
「そうか……見られていたんだね。
誤解しないでほしいのは決して文や子供たちを
蔑ろにしているわけじゃない。
ただ、室生家では“自然体”でいられるんだ。
僕の態度は君の評価に繋がってしまうから
君の前ではどうしも、“よき夫”、“よき父親”でいようとして
肩の力が抜けないんだ……」
夫の言葉に私は愕然とした。
「……“自然体”」
「なんていうのかな……
“ただの芥川龍之介”でいられるのが室生家なんだ。
もちろん、文や子供たちのことは愛してるし幸せだ。
それでも、犀星君やとみ子さんの前では
自分を着飾る必要がないから……すまない」
室生家では全ての柵を脱ぎ捨てた龍之介は数時間前に見たような
屈託なく笑っているのだろう。
最後の謝罪で線を引かれた気がした。
その後は沈黙が続いた。
その後は沈黙が続いた。
隣の部屋からは三人の子供たちの寝息が聞こえる。
「ねぇ、子供がもう一人ほしいって言ったら抱いてくれる?」
自分でも試すような言い方をしている自覚はあるけど
どうしも確かめたかった。
龍之介の“心”が何処に向いているのかを。
「僕は構わないけど、文が大変じゃないかい?」
確かに也寸志もまだ二歳だけど、子育ては苦ではない。
「それなら、一緒に考えよう。男の子ばかりだから
今度は女の子がいいかな?」
龍之介の言葉に私は小さく口角を上げた。
「そうね、子育ては苦じゃないけど
男の子はやんちゃだからちょっと気が気じゃないのよね」
龍之介は微笑みながら、私の肩に手を回した。
その手の温もりに、胸の奥の冷たさが少しずつ溶けていくのを感じた。
「確かに、也寸志も手がかかるしね。けど、君と一緒ならなんとかなるだろう」
私は肩越しに彼の顔を見上げ、ほんの少し照れながら答えた。
「ええ、一緒なら大丈夫ね。……でも、今度は女の子かあ。想像するだけで楽しみだわ」
龍之介はふっと笑った。
その笑みは、買い物帰りに室生家で見た無邪気さとは違う、
私たち家族だけに向けられた優しい笑みだった。
「そうだね、文。今度はどんな子になるのか、二人で見守ろう」
私は背中の也寸志をぎゅっと抱きしめ、龍之介の手を握り返した。
子供たちの寝息が静かに響く夜の中で、
私たちの心は小さな未来を描きながら、静かに重なり合った。
この家にも、私たちだけの“居場所”がある。
龍之介が笑い、私が安心できる場所。
たとえ外の世界に他の居場所があったとしても、
ここで紡ぐ家族の時間は、何にも代えられない宝物なのだと、
私は確信した。
夫が室生さんと、その奥様のとみ子さんと並んで歩いているのを見て驚いた。
龍之介のあんな笑顔を見たのはいつぶりだろうか。
“心から楽しい”と溢れ出ている
満面の笑みなんて私は何年も見ていない。
家の中でさえ殆んど笑わない龍之介が
あの二人とは楽しそうに笑っている……
まるで、“本当の家族”のような光景に
胸が締め付けられるなような痛みを感じた。
室生さんが何を言ったのかはわからないけど
照れたらしい龍之介は室生さんの腕を叩き
それを見てとみ子さんが笑っていた。
龍之介のあんな“無邪気な子供”みたいな仕草は初めて見た。
私は買い物籠を持ったまま、その場に縫い付けられたように動けなかった。
友人の言葉に照れ、腕をたたき、それを見て、友人の奥方が笑う。
一見、普通の光景なのに私は取り残されたような気持ちになった。
家の中では決して声を上げて笑わない龍之介。
子供たちに向ける笑顔とは違う種類の笑顔。
少年のような無邪気で何の憂いのなく屈託な笑い声。
あぁ、この人はまだこんな笑い方ができるのだ。
けれど、その笑いは私の知らない場所で、私の知らない人たちと共有されている。
まるで私は「妻」ではなく、
ただの「家を守る係」に成り下がったような気がして、
胸の奥に重く冷たい石が沈んでいく。
「おかあさま……?」
背中の也寸志がもぞもぞと動いた。
子どもの小さな声に我に返り、慌てて歩き出した。
立ち尽くしたままでは、人目に涙を悟られてしまいそうだったから。
家に戻る道すがら、何度も何度も脳裏に蘇ったのは――
龍之介のあの笑顔。
私に向けられたことのない、無邪気で無防備な笑み。
あれを見てしまった瞬間から、
心のどこかで恐れていた疑念が、確信めいて膨らみはじめていた。
――龍之介には、私の知らない「居場所」があるのではないか。
その夜、夕餉の膳を囲んでいるときも、
子どもたちと話す夫の横顔の向こうに、
あの二人と並んで笑う姿が透けて見えてしまった。
その夜、私は子供たちを寝かしつけた後、
龍之介を問いただした。
――
「龍之介、今日、買い物の帰りにあなたが
室生さんと……奥方と、一緒に歩いているところを……
あんなに屈託なく無邪気に笑ってる龍之介なんて初めて見たわ」
「そうか……見られていたんだね。
誤解しないでほしいのは決して文や子供たちを
蔑ろにしているわけじゃない。
ただ、室生家では“自然体”でいられるんだ。
僕の態度は君の評価に繋がってしまうから
君の前ではどうしも、“よき夫”、“よき父親”でいようとして
肩の力が抜けないんだ……」
夫の言葉に私は愕然とした。
「……“自然体”」
「なんていうのかな……
“ただの芥川龍之介”でいられるのが室生家なんだ。
もちろん、文や子供たちのことは愛してるし幸せだ。
それでも、犀星君やとみ子さんの前では
自分を着飾る必要がないから……すまない」
室生家では全ての柵を脱ぎ捨てた龍之介は数時間前に見たような
屈託なく笑っているのだろう。
最後の謝罪で線を引かれた気がした。
その後は沈黙が続いた。
その後は沈黙が続いた。
隣の部屋からは三人の子供たちの寝息が聞こえる。
「ねぇ、子供がもう一人ほしいって言ったら抱いてくれる?」
自分でも試すような言い方をしている自覚はあるけど
どうしも確かめたかった。
龍之介の“心”が何処に向いているのかを。
「僕は構わないけど、文が大変じゃないかい?」
確かに也寸志もまだ二歳だけど、子育ては苦ではない。
「それなら、一緒に考えよう。男の子ばかりだから
今度は女の子がいいかな?」
龍之介の言葉に私は小さく口角を上げた。
「そうね、子育ては苦じゃないけど
男の子はやんちゃだからちょっと気が気じゃないのよね」
龍之介は微笑みながら、私の肩に手を回した。
その手の温もりに、胸の奥の冷たさが少しずつ溶けていくのを感じた。
「確かに、也寸志も手がかかるしね。けど、君と一緒ならなんとかなるだろう」
私は肩越しに彼の顔を見上げ、ほんの少し照れながら答えた。
「ええ、一緒なら大丈夫ね。……でも、今度は女の子かあ。想像するだけで楽しみだわ」
龍之介はふっと笑った。
その笑みは、買い物帰りに室生家で見た無邪気さとは違う、
私たち家族だけに向けられた優しい笑みだった。
「そうだね、文。今度はどんな子になるのか、二人で見守ろう」
私は背中の也寸志をぎゅっと抱きしめ、龍之介の手を握り返した。
子供たちの寝息が静かに響く夜の中で、
私たちの心は小さな未来を描きながら、静かに重なり合った。
この家にも、私たちだけの“居場所”がある。
龍之介が笑い、私が安心できる場所。
たとえ外の世界に他の居場所があったとしても、
ここで紡ぐ家族の時間は、何にも代えられない宝物なのだと、
私は確信した。
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