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第二十五話 脱獄❬室生犀星視点❭
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比呂志君を襲い、僕に怪我をさせた男が、脱獄したと
知らせが入ったのは早朝だった。
「室生先生、どうやら、比呂志さんと室生先生を襲った男が脱獄したようです。」
「脱獄だって?」
知らせに来たのはあの日、僕の応急手当てをしてくれた警官だった。
狙いは僕か、比呂志君か。
「報告、ご苦労様。僕は芥川家に向かうから
とみ子と子供たちを頼んだよ」
「承知いたしました。必ず守ります。室生先生もお気をつけて」
綺麗に敬礼した彼にもう一度、「頼んだよ」と告げて芥川家に急いだ。
「龍之介君、起きてるかい?」
戸を叩くと龍之介君はすぐに出てきてくれた。
「犀星君、こんな早朝からどうしたんだい?」
朝日は登りきっていないような時間帯だ、
疑問に思うのも無理はない。
「例の男が脱獄したと、今、警察から連絡がきた」
「それは、また、比呂志や犀星君が狙われるってことかい?」
龍之介君の声は震えていた。
「その可能性は高い。僕はここに残る。
龍之介君は文さんや子どもたちを連れて
室生家に向かってほしい。警官がいるから安全だ。」
家族を守るためなら僕はいくらでも盾になる。
「犀星君!! それは……」
心配してくれる龍之介の額に口づけして落ち着かせる。
「父さん、パパ、朝からどうしたの?」
僕たちの声で起きてきたらしい比呂志君が
寝間着のまま立っていた。
「実は、僕たちを襲った男が脱獄したんだ。
だから、龍之介や文さん、弟たちと一緒に室生家へ行ってほしいんだ」
「パパは!?」
「僕はここに残る。
大丈夫、家族は絶対に傷つけさせないから安心して」
比呂志君の目には恐怖と不安、そして心配が滲んでいる。
「パパがまた、怪我をしたら……」
「家長は家族を守るものだよ。大丈夫だから、室生家へ急いで」
裏口から龍之介君や文さんや子どもたち、 比呂志君を逃がし、
室生家へ向かわせ、僕は芥川家に残った。
数分後、男がずかずかと入ってきた。
「まだ、懲りてないようだね。そんなんだから
三十年も書いているのに、落選してばかりなのさ」
「お前に、何がわかる!! 三十年書き続けて、
ずっと、落選ばかり、家族にはまともな職につけと言われる始末。
お前や芥川のような成功者に何がわかる!!
ましてや、今回の受賞者は芥川の息子ときた。
どう考えても贔屓じゃないか!!」
被害妄想甚だしい。
「最初に言っておくが、この家には僕と君しかいない。
芥川家の皆は全員、安全な場所に避難させた。
思う存分、かかってこい」
僕はあえて挑発した。
「僕が誰かわかっているんだろう?硯肇さん」
「室生犀星……何で、俺の名前を……」
「色々、調べさせてもらったよ。僕は家族を傷つける人間は
誰であろうと許さない」
硯肇の目が鋭く光る。怒りと困惑が入り混じった表情だ。
手にしたナイフを握り直し、わずかに息を荒げる。
「くそ……くそっ……!」
彼の声には理性のかけらもなく、狂気だけが残っていた。
しかしその動揺こそ、僕が読み取るべき隙だった。
「君が襲ったのは、僕だけじゃない。比呂志君や家族まで……
だから、これ以上、許すわけにはいかない」
僕は刃の動きを冷静に観察しながら、一歩ずつ間合いを詰める。
硯肇は荒々しく前に踏み出す。
「ふざけんな……俺の人生を……!」
刃が空気を切る音が鳴り響く。
僕は微かに身をかがめ、彼の攻撃をかわす。
腕にかかる力を感じつつ、心の中は完全に静まっていた。
家族の無事を守る――それだけが、今の僕の全ての目的だ。
「逃げも隠れもさせない。ここで決着をつける」
声には揺るぎない覚悟が宿る。
僕は硯肇のナイフを左手で受け止め、手刀で気絶させた。
今回は手のひらを少し切った程度で済んだ。
僕は懐から手拭いを取り出し、止血した。
「室生先生、ご無事ですか!?」
室生家を警護していた警官とは違う警官が来た。
「手のひらを少し切りましたけど無事です」
警官はほっとした息をつき、硯肇を確認すると、
しっかりと手錠をかけた。
「これで、一応は安全ですね。室生先生、芥川家の方は……?」
僕は軽く頷く。
「全員、安全な場所に避難させました。室生家に着いたはずです」
これで危機は去った。
「此度は大変ご迷惑をおかけしました」
硯肇に手錠をかけた警官は僕に深々と頭を下げた。
僕は静かに頭を振る。
「いや、君たちは任務を全うしただけだ。感謝しているよ」
警官たちは少し安心したように笑みを浮かべ、
硯肇を車両に移動させる準備を始めた。
僕は手を押さえながらも、胸の奥にまだ小さな緊張が残っているのを感じた。
「室生先生、手当てを続けてください。応急処置だけでは不安です」
別の警官が声をかける。
「大丈夫だ。血は止めた。今はこれ以上問題はない」
僕は手拭いで手を軽く押さえ、冷静を装った。
硯肇が連行される際、彼は一瞬だけこちらを睨んだ。
その目に映る狂気と未練を、僕は冷静に受け止める。
それでも僕の中で、恐怖や憤りはもうほとんどなかった。
家族は無事で、警官がしっかりと抑えてくれている。
それが全てだった。
警官たちが現場を固め、硯肇を安全に移送するのを確認すると、
僕は深く息をついた。
手のひらの痛みが、今日の出来事の証としてじんわりと伝わってくる。
「……これで、本当に、一段落だ」
僕は小さく呟き、窓の外の光を見つめた。
朝の空気は冷たく澄んでいて、昨日までの緊張がゆっくりと溶けていく。
胸の奥に残る緊張と痛みを抱えながらも、僕は確信した――
家族を守るという覚悟さえあれば、どんな狂気も乗り越えられるのだ、と。
警官たちが去ったあと、僕は手拭いで手を拭い、
静かに部屋の片隅に腰を下ろした。
「室生家に帰ろう」
立ち上がり、倒してしまった居間の机を戻して芥川家を出た。
「ただいま」
室生家について、玄関を開けると龍之介君が抱き着いてきた。
「犀星君、お帰りなさい。あ、左手の手のひら……」
手拭いを巻いた左手の手のひらを見て龍之介君が眉を下げた。
「少し切っただけだよ。
さあ、中に入って朝食を食べよう。」
龍之介君の背中を押して家の中に入った。
「皆、待たせてすまなかったね。
犯人は再逮捕されたから、安心だ」
居間に入ると、とみ子が湯気の立つ味噌汁を配っていた。
比呂志君も弟たちも、
ほっとした顔でこちらを見ている。
「パパ!」
比呂志君が真っ先に駆け寄ってきて、僕の腰に抱きついた。
「比呂志君、もう大丈夫だ。
君や皆は、二度と狙わせない」
僕は片手で彼の頭を撫でる。
「犀星さん、左手、怪我してるんでしょう?
今、救急箱を持ってくるわね」
妻のとみ子は驚きもせず、
救急箱を取りに行った。
流石、元教師。
小さな切り傷くらなら動揺しない。
「これくらいの傷で済んでよかったですけど、
あまり、無茶しないでくださいね」
僕の傷を淡々と手当てするとみ子に
龍之介君も文さんも呆気に取られていた。
「あの、とみ子は驚かれないんですね……」
文さんの質問にとみ子は笑って言った。
「私は元教師ですから、切り傷や擦り傷なんて
見慣れているから驚くことではないわね」
「とみ子さんは肝が座ってるな」
龍之介の呟きにとみ子はくすっと笑った。
「子供たちの怪我や喧嘩なんて日常茶飯事ですもの、
一々、気にしていたらキリがないわ」
とみ子は包帯を巻き終わると台所に戻って行った。
「ありがとう、とみ子」
「どういたしまして」
台所に戻るとみ子の背に、安心と頼もしさを感じながら僕は小さく頭を下げた。
居間には、味噌汁の香り、焼き魚の香ばしさ、卵焼きの甘い匂いが広がっている。
文さんが茶碗を並べ、
比呂志君と弟たちが箸を配っていた。
「さあ、いただきましょう」
とみ子の声で皆が席につく。
「いただきます!」
子どもたちの元気な声が重なり合い、朝の光に溶けていった。
比呂志君は僕の隣に座り、落ち着かない様子で僕の左手を見つめていた。
「……本当に痛くないの?」
「痛くないと言えば嘘になるけれど、大丈夫だ。
比呂志君の顔が見られるなら、それで十分だよ」
僕が笑うと、比呂志君は少し赤くなり、慌てて味噌汁をすすった。
龍之介君はその様子を見て、安心したように箸を取る。
「犀星君、無事に帰ってきてくれて、本当にありがとう」
「僕だって、君や文さん、子供たちの笑顔が見られる方がよほどありがたいよ」
湯気の向こうに映る皆の笑顔は、何よりの癒しだった。
事件は終わった。恐怖も怒りも、もう遠ざかっていく。
――今ここにあるのは、守るべき家族と、共に生きるための温かな時間。
僕は味噌汁をひと口すすり、胸の奥に広がる安堵を噛み締めた。
「パパ」
隣に座る比呂志君が、箸を持ったまま僕を見上げていた。
「……僕も、大きくなったら、パパを守るよ」
その瞳には恐怖よりも決意が宿っていた。
まだ幼いのに、心はもう家族を背負おうとしている。
「比呂志君……」
胸の奥が温かくなり、僕はそっと彼の頭を撫でた。
「ありがとう。でもね、パパは君が笑っていてくれるだけで十分なんだ。
守るのは僕の役目だよ。だから、比呂志君は元気に、
好きなことをして生きてほしい」
「……でも、僕もいつか」
「その時が来たら、きっと自然に分かるさ。焦らなくていい」
比呂志君は小さく頷き、味噌汁を口に運んだ。
龍之介君はそのやりとりを見て、ふっと笑う。
「犀星君、君は強いね……いや、強さというより、優しさかな」
「優しさか……。でもそれは、家族がいるから持てるものだよ」
僕は静かに返した。
窓の外には、すっかり昇った朝日が庭を明るく照らしている。
昨日までの暗い影はもうない。
――家族の声と匂いと温もりがある場所こそ、
僕の戦う理由であり、生きる意味なのだ。
箸を進めながら、僕は心の中で深く誓った。
二度と、この平穏を誰にも壊させはしない、と。
知らせが入ったのは早朝だった。
「室生先生、どうやら、比呂志さんと室生先生を襲った男が脱獄したようです。」
「脱獄だって?」
知らせに来たのはあの日、僕の応急手当てをしてくれた警官だった。
狙いは僕か、比呂志君か。
「報告、ご苦労様。僕は芥川家に向かうから
とみ子と子供たちを頼んだよ」
「承知いたしました。必ず守ります。室生先生もお気をつけて」
綺麗に敬礼した彼にもう一度、「頼んだよ」と告げて芥川家に急いだ。
「龍之介君、起きてるかい?」
戸を叩くと龍之介君はすぐに出てきてくれた。
「犀星君、こんな早朝からどうしたんだい?」
朝日は登りきっていないような時間帯だ、
疑問に思うのも無理はない。
「例の男が脱獄したと、今、警察から連絡がきた」
「それは、また、比呂志や犀星君が狙われるってことかい?」
龍之介君の声は震えていた。
「その可能性は高い。僕はここに残る。
龍之介君は文さんや子どもたちを連れて
室生家に向かってほしい。警官がいるから安全だ。」
家族を守るためなら僕はいくらでも盾になる。
「犀星君!! それは……」
心配してくれる龍之介の額に口づけして落ち着かせる。
「父さん、パパ、朝からどうしたの?」
僕たちの声で起きてきたらしい比呂志君が
寝間着のまま立っていた。
「実は、僕たちを襲った男が脱獄したんだ。
だから、龍之介や文さん、弟たちと一緒に室生家へ行ってほしいんだ」
「パパは!?」
「僕はここに残る。
大丈夫、家族は絶対に傷つけさせないから安心して」
比呂志君の目には恐怖と不安、そして心配が滲んでいる。
「パパがまた、怪我をしたら……」
「家長は家族を守るものだよ。大丈夫だから、室生家へ急いで」
裏口から龍之介君や文さんや子どもたち、 比呂志君を逃がし、
室生家へ向かわせ、僕は芥川家に残った。
数分後、男がずかずかと入ってきた。
「まだ、懲りてないようだね。そんなんだから
三十年も書いているのに、落選してばかりなのさ」
「お前に、何がわかる!! 三十年書き続けて、
ずっと、落選ばかり、家族にはまともな職につけと言われる始末。
お前や芥川のような成功者に何がわかる!!
ましてや、今回の受賞者は芥川の息子ときた。
どう考えても贔屓じゃないか!!」
被害妄想甚だしい。
「最初に言っておくが、この家には僕と君しかいない。
芥川家の皆は全員、安全な場所に避難させた。
思う存分、かかってこい」
僕はあえて挑発した。
「僕が誰かわかっているんだろう?硯肇さん」
「室生犀星……何で、俺の名前を……」
「色々、調べさせてもらったよ。僕は家族を傷つける人間は
誰であろうと許さない」
硯肇の目が鋭く光る。怒りと困惑が入り混じった表情だ。
手にしたナイフを握り直し、わずかに息を荒げる。
「くそ……くそっ……!」
彼の声には理性のかけらもなく、狂気だけが残っていた。
しかしその動揺こそ、僕が読み取るべき隙だった。
「君が襲ったのは、僕だけじゃない。比呂志君や家族まで……
だから、これ以上、許すわけにはいかない」
僕は刃の動きを冷静に観察しながら、一歩ずつ間合いを詰める。
硯肇は荒々しく前に踏み出す。
「ふざけんな……俺の人生を……!」
刃が空気を切る音が鳴り響く。
僕は微かに身をかがめ、彼の攻撃をかわす。
腕にかかる力を感じつつ、心の中は完全に静まっていた。
家族の無事を守る――それだけが、今の僕の全ての目的だ。
「逃げも隠れもさせない。ここで決着をつける」
声には揺るぎない覚悟が宿る。
僕は硯肇のナイフを左手で受け止め、手刀で気絶させた。
今回は手のひらを少し切った程度で済んだ。
僕は懐から手拭いを取り出し、止血した。
「室生先生、ご無事ですか!?」
室生家を警護していた警官とは違う警官が来た。
「手のひらを少し切りましたけど無事です」
警官はほっとした息をつき、硯肇を確認すると、
しっかりと手錠をかけた。
「これで、一応は安全ですね。室生先生、芥川家の方は……?」
僕は軽く頷く。
「全員、安全な場所に避難させました。室生家に着いたはずです」
これで危機は去った。
「此度は大変ご迷惑をおかけしました」
硯肇に手錠をかけた警官は僕に深々と頭を下げた。
僕は静かに頭を振る。
「いや、君たちは任務を全うしただけだ。感謝しているよ」
警官たちは少し安心したように笑みを浮かべ、
硯肇を車両に移動させる準備を始めた。
僕は手を押さえながらも、胸の奥にまだ小さな緊張が残っているのを感じた。
「室生先生、手当てを続けてください。応急処置だけでは不安です」
別の警官が声をかける。
「大丈夫だ。血は止めた。今はこれ以上問題はない」
僕は手拭いで手を軽く押さえ、冷静を装った。
硯肇が連行される際、彼は一瞬だけこちらを睨んだ。
その目に映る狂気と未練を、僕は冷静に受け止める。
それでも僕の中で、恐怖や憤りはもうほとんどなかった。
家族は無事で、警官がしっかりと抑えてくれている。
それが全てだった。
警官たちが現場を固め、硯肇を安全に移送するのを確認すると、
僕は深く息をついた。
手のひらの痛みが、今日の出来事の証としてじんわりと伝わってくる。
「……これで、本当に、一段落だ」
僕は小さく呟き、窓の外の光を見つめた。
朝の空気は冷たく澄んでいて、昨日までの緊張がゆっくりと溶けていく。
胸の奥に残る緊張と痛みを抱えながらも、僕は確信した――
家族を守るという覚悟さえあれば、どんな狂気も乗り越えられるのだ、と。
警官たちが去ったあと、僕は手拭いで手を拭い、
静かに部屋の片隅に腰を下ろした。
「室生家に帰ろう」
立ち上がり、倒してしまった居間の机を戻して芥川家を出た。
「ただいま」
室生家について、玄関を開けると龍之介君が抱き着いてきた。
「犀星君、お帰りなさい。あ、左手の手のひら……」
手拭いを巻いた左手の手のひらを見て龍之介君が眉を下げた。
「少し切っただけだよ。
さあ、中に入って朝食を食べよう。」
龍之介君の背中を押して家の中に入った。
「皆、待たせてすまなかったね。
犯人は再逮捕されたから、安心だ」
居間に入ると、とみ子が湯気の立つ味噌汁を配っていた。
比呂志君も弟たちも、
ほっとした顔でこちらを見ている。
「パパ!」
比呂志君が真っ先に駆け寄ってきて、僕の腰に抱きついた。
「比呂志君、もう大丈夫だ。
君や皆は、二度と狙わせない」
僕は片手で彼の頭を撫でる。
「犀星さん、左手、怪我してるんでしょう?
今、救急箱を持ってくるわね」
妻のとみ子は驚きもせず、
救急箱を取りに行った。
流石、元教師。
小さな切り傷くらなら動揺しない。
「これくらいの傷で済んでよかったですけど、
あまり、無茶しないでくださいね」
僕の傷を淡々と手当てするとみ子に
龍之介君も文さんも呆気に取られていた。
「あの、とみ子は驚かれないんですね……」
文さんの質問にとみ子は笑って言った。
「私は元教師ですから、切り傷や擦り傷なんて
見慣れているから驚くことではないわね」
「とみ子さんは肝が座ってるな」
龍之介の呟きにとみ子はくすっと笑った。
「子供たちの怪我や喧嘩なんて日常茶飯事ですもの、
一々、気にしていたらキリがないわ」
とみ子は包帯を巻き終わると台所に戻って行った。
「ありがとう、とみ子」
「どういたしまして」
台所に戻るとみ子の背に、安心と頼もしさを感じながら僕は小さく頭を下げた。
居間には、味噌汁の香り、焼き魚の香ばしさ、卵焼きの甘い匂いが広がっている。
文さんが茶碗を並べ、
比呂志君と弟たちが箸を配っていた。
「さあ、いただきましょう」
とみ子の声で皆が席につく。
「いただきます!」
子どもたちの元気な声が重なり合い、朝の光に溶けていった。
比呂志君は僕の隣に座り、落ち着かない様子で僕の左手を見つめていた。
「……本当に痛くないの?」
「痛くないと言えば嘘になるけれど、大丈夫だ。
比呂志君の顔が見られるなら、それで十分だよ」
僕が笑うと、比呂志君は少し赤くなり、慌てて味噌汁をすすった。
龍之介君はその様子を見て、安心したように箸を取る。
「犀星君、無事に帰ってきてくれて、本当にありがとう」
「僕だって、君や文さん、子供たちの笑顔が見られる方がよほどありがたいよ」
湯気の向こうに映る皆の笑顔は、何よりの癒しだった。
事件は終わった。恐怖も怒りも、もう遠ざかっていく。
――今ここにあるのは、守るべき家族と、共に生きるための温かな時間。
僕は味噌汁をひと口すすり、胸の奥に広がる安堵を噛み締めた。
「パパ」
隣に座る比呂志君が、箸を持ったまま僕を見上げていた。
「……僕も、大きくなったら、パパを守るよ」
その瞳には恐怖よりも決意が宿っていた。
まだ幼いのに、心はもう家族を背負おうとしている。
「比呂志君……」
胸の奥が温かくなり、僕はそっと彼の頭を撫でた。
「ありがとう。でもね、パパは君が笑っていてくれるだけで十分なんだ。
守るのは僕の役目だよ。だから、比呂志君は元気に、
好きなことをして生きてほしい」
「……でも、僕もいつか」
「その時が来たら、きっと自然に分かるさ。焦らなくていい」
比呂志君は小さく頷き、味噌汁を口に運んだ。
龍之介君はそのやりとりを見て、ふっと笑う。
「犀星君、君は強いね……いや、強さというより、優しさかな」
「優しさか……。でもそれは、家族がいるから持てるものだよ」
僕は静かに返した。
窓の外には、すっかり昇った朝日が庭を明るく照らしている。
昨日までの暗い影はもうない。
――家族の声と匂いと温もりがある場所こそ、
僕の戦う理由であり、生きる意味なのだ。
箸を進めながら、僕は心の中で深く誓った。
二度と、この平穏を誰にも壊させはしない、と。
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