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第三章
エルネストのあれから
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百合の香りが私を包み込む。
なかなか喋られる状態にならない私の代わりに、エルネスト王子殿下が話し始めた。
「満月の夜は会えなくて寂しかったのは確かだ。その後から急に仕事が立て込んで疲弊していたのもあって、しばらく街に行っていなかった。俺は自分でも気付いていないほど落ち込んでいたらしく、レインマークが『たまには街へ行けばどうか』と提案したほどだ」
エルネスト王子殿下は私が草原の丘へ来なかった時から、街の中に私の匂いが消えた気がしたと話す。
「思えば初めて出会ったあの日も、俺はエクラの香りに誘われたのかもしれない。エクラと過ごしている間、俺はいつだってエクラの匂いを感じていた。なのに、あの日から何もかも掻き消されたように甘い香りがなくなった。それで、エクラに何かあったというのは察していた」
私を抱きしめたまま、エルネスト王子殿下は静かに語り続ける。背中を撫でながら、約束の夜から離れて過ごしていた時間のことを聞かせた。
あの満月の夜から三回目の満月を迎える直前、レインマークの薦めで気乗りしないがよく行っていた飲み屋に出向いた。その店にはいつも陽気に絡んでくるおじさんがいるらしく、気分転換になると思ったらしい。
「勿論、護衛つきだ。数人の騎士も平民に扮装して紛れ込んでいた」とエルネスト王子殿下は笑った。
「そこで、サラに会ったんだ。サラは俺の姿を見るなり駆け寄ってきた。レインマークもカーニルもサラを覚えていたから、隠し停めてあった馬車に移動した。エクラがドミナクス辺境伯と政略結婚したと聞いた時には戦慄が走った。エクラが俺以外の奴のものになる……しかも親よりも年上の男の……考えたくもなかった。それもすでに満月三周分も月日が過ぎている。サラは、この店にいればいつかは俺に会えると信じてひたすら待ってくれていた。あの草原の丘には騎士団が俺が来るのを見張っているから行かないほうがいいとも教えてくれた」
エルネスト王子殿下の話を聞きながら、私は少しずつ落ち着きを取り戻し、頷いて返せるまでになってきた。
その後、商人に扮装してドミナクス辺境地へ赴いたのだが、領民はエクラのことを誰一人として知らなかった。
「ただ婚約者を入城させたからと、ご祝儀という名の課税を取られたとだけあちこちで聞いた。その時からドミナクス辺境伯が怪しいとは思っていたんだ」
満月三周分過ぎた頃といえば、私が奴隷に成り下がった頃のような気がするが、記憶は定かではない。
エルネスト王子殿下は直ぐに王都に戻り、ドミナクス辺境伯について調べ始めた。すると報告書に違和感があると、過去に何度か調査が入っていたと知る。しかし証拠不十分で全て却下されていた。
その矢先に噂が広まったのがヴェイルハート伯爵の財政難だった。
虫の知らせを感じたと語る。
しかし下手に動いたところでまた証拠不十分になれば、しばらく調査にも入れない。
「その時、届いたのが密告書だったんだ。まさに待ち望んでいた告発だった。とにかくヴェイルハート伯爵への調査はできると、直ちに乗り出した。ドミナクス辺境伯への調査はもう少し決定打が欲しかった。しばらくして、二通目の密告書が届いた。これで特別調査団を送れると踏み込んだ。宰相も緊急性を認めてくれ、強制調査に踏み込めた」
エルネスト王子殿下はそこで私の顔を覗き込んだ。
想像以上にドミナクス辺境伯の政治は酷かったのだと言った。
「裕福層の領民でさえ、いつ領主に潰されるかヒヤヒヤして暮らしていた。税金が払えなくては容赦なく貧民まで落とされる。毎月の徴税だけならともかく、いつ課税が言い渡されるかも知れない。誰もが必死で働いていた」
案の定、ドミナクス辺境伯は領民から集めた税金を横領していた。
粗悪品も領民の知らない所で量産し、見つかれば領民に責任を問えるよう隠蔽していた。
その他にも数えきれないほどの悪事が暴かれていく。
ため息を吐きながら、エルネスト王子殿下は体勢を整えた。
「居城に乗り込んだ時、僅かにエクラの匂いがした。確かにここにいたんだと確信した。ドミナクス辺境伯は最初こそ否定していたが、とある一室に俺は決定的な証拠を見つけた。それが、俺がプレゼントしたインクが飛び散ったシミだった」
エルネスト王子殿下は、その事実を知り、私にもう一度インクをプレゼントしてくれたのだ。
特注品のインクは原材料から特殊なのだと言った。オメガを監禁するためだけの部屋を、ドミナクスは掃除を怠った。それが仇となり、認めざるを得ない状況に追い込まれる。
所有物の中から、私から奪ったハンカチーフと羽ペンも押収された。
「あの羽ペンにもハンカチーフにも、王家の紋章が紛れている。『見る人が見れば分かる』デザインになっている。ハンカチーフの縁のレースは王家の紋章の柄がモチーフになっているし、羽ペンも羽に隠れて王家の紋章が刻まれている。これはエクラと私しか持っていない特別なものだ。言い逃れは、許されなかった。しかし、ドミナクス辺境伯は、エクラはここにはいないと供述した。逃亡したと。そしてそれを助けた奴がいると続けた」
セリオのことだと直ぐに察した。
セリオは私を先に逃がし、時間を空けて自分も逃げると言った。とにかく北に進んでくれと頼んだ。
いつか、絶対に再会しようと約束した。
「あの、その奴隷の子は……ドミナクス辺境伯の城にいましたか?」
どうか、逃げていてほしい。
見つからなかったと、エルネスト王子殿下の口から聞きたい。
せっかく落ち着いてきた心臓が、また大きく伸縮を始める。
エルネスト王子殿下の口から発せられたのは「見つけた」だった。
セリオは、ドミナクス辺境伯の居城から逃げ出せていなかった。
ドミナクス辺境伯はセリオが私を逃がしたと気付き、拷問にかけたらしい。
「ドミナクス辺境伯はその奴隷も今はいないと言ったが、彼は半死半生の状態で見つかった」
その言葉に、血の気が引いていくのを感じた。
エルネスト王子殿下は話を続けた。
なかなか喋られる状態にならない私の代わりに、エルネスト王子殿下が話し始めた。
「満月の夜は会えなくて寂しかったのは確かだ。その後から急に仕事が立て込んで疲弊していたのもあって、しばらく街に行っていなかった。俺は自分でも気付いていないほど落ち込んでいたらしく、レインマークが『たまには街へ行けばどうか』と提案したほどだ」
エルネスト王子殿下は私が草原の丘へ来なかった時から、街の中に私の匂いが消えた気がしたと話す。
「思えば初めて出会ったあの日も、俺はエクラの香りに誘われたのかもしれない。エクラと過ごしている間、俺はいつだってエクラの匂いを感じていた。なのに、あの日から何もかも掻き消されたように甘い香りがなくなった。それで、エクラに何かあったというのは察していた」
私を抱きしめたまま、エルネスト王子殿下は静かに語り続ける。背中を撫でながら、約束の夜から離れて過ごしていた時間のことを聞かせた。
あの満月の夜から三回目の満月を迎える直前、レインマークの薦めで気乗りしないがよく行っていた飲み屋に出向いた。その店にはいつも陽気に絡んでくるおじさんがいるらしく、気分転換になると思ったらしい。
「勿論、護衛つきだ。数人の騎士も平民に扮装して紛れ込んでいた」とエルネスト王子殿下は笑った。
「そこで、サラに会ったんだ。サラは俺の姿を見るなり駆け寄ってきた。レインマークもカーニルもサラを覚えていたから、隠し停めてあった馬車に移動した。エクラがドミナクス辺境伯と政略結婚したと聞いた時には戦慄が走った。エクラが俺以外の奴のものになる……しかも親よりも年上の男の……考えたくもなかった。それもすでに満月三周分も月日が過ぎている。サラは、この店にいればいつかは俺に会えると信じてひたすら待ってくれていた。あの草原の丘には騎士団が俺が来るのを見張っているから行かないほうがいいとも教えてくれた」
エルネスト王子殿下の話を聞きながら、私は少しずつ落ち着きを取り戻し、頷いて返せるまでになってきた。
その後、商人に扮装してドミナクス辺境地へ赴いたのだが、領民はエクラのことを誰一人として知らなかった。
「ただ婚約者を入城させたからと、ご祝儀という名の課税を取られたとだけあちこちで聞いた。その時からドミナクス辺境伯が怪しいとは思っていたんだ」
満月三周分過ぎた頃といえば、私が奴隷に成り下がった頃のような気がするが、記憶は定かではない。
エルネスト王子殿下は直ぐに王都に戻り、ドミナクス辺境伯について調べ始めた。すると報告書に違和感があると、過去に何度か調査が入っていたと知る。しかし証拠不十分で全て却下されていた。
その矢先に噂が広まったのがヴェイルハート伯爵の財政難だった。
虫の知らせを感じたと語る。
しかし下手に動いたところでまた証拠不十分になれば、しばらく調査にも入れない。
「その時、届いたのが密告書だったんだ。まさに待ち望んでいた告発だった。とにかくヴェイルハート伯爵への調査はできると、直ちに乗り出した。ドミナクス辺境伯への調査はもう少し決定打が欲しかった。しばらくして、二通目の密告書が届いた。これで特別調査団を送れると踏み込んだ。宰相も緊急性を認めてくれ、強制調査に踏み込めた」
エルネスト王子殿下はそこで私の顔を覗き込んだ。
想像以上にドミナクス辺境伯の政治は酷かったのだと言った。
「裕福層の領民でさえ、いつ領主に潰されるかヒヤヒヤして暮らしていた。税金が払えなくては容赦なく貧民まで落とされる。毎月の徴税だけならともかく、いつ課税が言い渡されるかも知れない。誰もが必死で働いていた」
案の定、ドミナクス辺境伯は領民から集めた税金を横領していた。
粗悪品も領民の知らない所で量産し、見つかれば領民に責任を問えるよう隠蔽していた。
その他にも数えきれないほどの悪事が暴かれていく。
ため息を吐きながら、エルネスト王子殿下は体勢を整えた。
「居城に乗り込んだ時、僅かにエクラの匂いがした。確かにここにいたんだと確信した。ドミナクス辺境伯は最初こそ否定していたが、とある一室に俺は決定的な証拠を見つけた。それが、俺がプレゼントしたインクが飛び散ったシミだった」
エルネスト王子殿下は、その事実を知り、私にもう一度インクをプレゼントしてくれたのだ。
特注品のインクは原材料から特殊なのだと言った。オメガを監禁するためだけの部屋を、ドミナクスは掃除を怠った。それが仇となり、認めざるを得ない状況に追い込まれる。
所有物の中から、私から奪ったハンカチーフと羽ペンも押収された。
「あの羽ペンにもハンカチーフにも、王家の紋章が紛れている。『見る人が見れば分かる』デザインになっている。ハンカチーフの縁のレースは王家の紋章の柄がモチーフになっているし、羽ペンも羽に隠れて王家の紋章が刻まれている。これはエクラと私しか持っていない特別なものだ。言い逃れは、許されなかった。しかし、ドミナクス辺境伯は、エクラはここにはいないと供述した。逃亡したと。そしてそれを助けた奴がいると続けた」
セリオのことだと直ぐに察した。
セリオは私を先に逃がし、時間を空けて自分も逃げると言った。とにかく北に進んでくれと頼んだ。
いつか、絶対に再会しようと約束した。
「あの、その奴隷の子は……ドミナクス辺境伯の城にいましたか?」
どうか、逃げていてほしい。
見つからなかったと、エルネスト王子殿下の口から聞きたい。
せっかく落ち着いてきた心臓が、また大きく伸縮を始める。
エルネスト王子殿下の口から発せられたのは「見つけた」だった。
セリオは、ドミナクス辺境伯の居城から逃げ出せていなかった。
ドミナクス辺境伯はセリオが私を逃がしたと気付き、拷問にかけたらしい。
「ドミナクス辺境伯はその奴隷も今はいないと言ったが、彼は半死半生の状態で見つかった」
その言葉に、血の気が引いていくのを感じた。
エルネスト王子殿下は話を続けた。
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