カモミールの福音 ~花と〈家族〉に癒される優しい世界の物語~

南 鈴紀

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第九話 花綻ぶ夏の夜

第九話 七

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 慈乃は何も答えない代わりに聞く姿勢を見せた。
 ウタセはほっとしたように微笑して、小さく息を吸い込んだ。
「シノも察してると思うけど、ミト兄もニア姉も血の繋がった家族じゃない。僕の生みの母親は僕が小さいときに亡くなった。父親は再婚してから人が変わったようになって、継母と一緒になって僕を排除したがった。義理の弟が生まれてからそれは顕著になって、僕には家に居場所がなかった。学校にも行かせてもらえなくなって、その頃の僕は笑うことに恐怖を感じてた。まだ幸せだったときを思い出すから、自分に向けられる嘲笑が頭を過るから、笑顔を忘れた現実を受け入れたくなかったから、理由はいくつかあったと思う」
 痛ましい過去を、ウタセはただ淡々と述べる。そこに今の彼の感情は伴っていないように、慈乃には見えた。
「そのうち恩人やミト兄、ニア姉に出会って、僕は笑えるようになったよ」
 ウタセはふわりと優しく笑った。視界は確かに目前に広がる花園を映しているはずなのに、ウタセが見ているのは大切な出会い、その思い出のようだった。
「そうはいっても体は弱ってて、学舎でも勉強についていけないしでね。そんなときに出会ったのがレゲ先生だったんだよ。先生は字の読み書きから本来学舎で習うこと、僕の健康管理をする傍ら薬学のことも教えてくれた。僕にとってはミト兄やニア姉は本当の兄や姉のような存在で、レゲ先生は父親でもあって恩師でもあるような心から尊敬できる大人なんだ」
 憧憬の瞳には一片の陰りもない。ウタセはひたすらに前だけを見ていた。
 慈乃は心のどこかでずっと、ウタセは自分の対岸にいるひとだと思っていた。
 希望に満ちた目、まっすぐな志、眩しい笑顔……。
 過去に囚われ、かといって前にも後ろにも動けず、停めてしまった刻のなかで、いつしか生きることをも諦めた。そんな自分とは対極に位置するひとだと。
 ウタセは優しくて思いやりがある。けれども、心の傷にどこまで寄り添い、理解できるのかと少し疑ってもいたのだ。いくら善良なひとでも、完璧は存在しないと知っていたから。
 しかし、実際は違ったのだ。
 ウタセにも辛い過去や心の傷はあった。それでも、出会った人に感謝し、あたたかい思い出を慈しみ、強くあろうと努力していた。
 彼は心の痛みを知っていて、自分のことのように痛みを感じ、相手の傷に寄り添い、理解を示すことができるひと。
 その心のありようが慈乃とは違うだけで、本当は似ていたのかもしれなかった。
 知らず、頬に涙が伝った。
「ごめんね。優しいシノは泣いてしまうかもと思ったけど、それでも聞いてほしいと話したのは僕のわがまま」
 ウタセは袂から取り出したハンカチで、慈乃の涙をそっと拭った。その優しい物言いや仕草が、かえって慈乃の涙を止まらなくさせた。
「っ違うん、です。謝らないといけないのは、私、です」
 慈乃の意思とは関係なしに、目からは涙が、口からは言葉が溢れだす。
「出会ったときから、今だって……、こんなに良くしてくださる、のにっ。ウタセさんは、わかろうとしてくれる、けれど、理解はできない、だろう、って……。私からは、最も遠いひとだって、決めつけて、ました」
 ウタセは何も言わずに、慈乃の懺悔ともいえる告白を聞いていた。
「でも、それこそ詭弁です。私が、楽になりたい、だけのっ、ただの、言い訳です……っ。ウタセさんは、前を向く、努力をしていただけ、なのに。私が、私をつくりだしたっ、ことの、責任は、当然、私自身であるべき、なのに。あなたの優しさを、疑って、ごめんなさいっ。ごめんなさいっ……!」
「僕ね、シノは今が転換期なんじゃないかと思うんだ」
 優しい声が降ってきた。
「昔の僕が、誰かと出会って変われたように。そもそも、シノが疑ってかかるのは当たり前の心の防衛機能だよ。僕がシノと同じ立場なら、良いひとだなって感謝はすると思うけど、胡散臭いなとも思うしね」
 滲んだ視界の向こうであっても、ウタセがおどけたように笑ったのがわかった。
「変わるきっかけが僕より遅かっただけで、本来ならこれから知るであろうことを謝る必要なんてどこにもないんだよ」
 ウタセは慈乃をなだめるようにそう言うが、疑われて傷つかないはずがない。ウタセの優しさは本物だと知ったから、より強くそう思った。
 慈乃が言い募るより先に、ウタセが口を開いた。
「それでもシノが何か言うんだったら、僕は『ごめんなさい』じゃなくて『ありがとう』が聞きたいな。それは今すぐじゃなくていいから、シノが僕達との出会いをきっかけに変わって、変われた先で振り返った思い出が慈乃にとって慈しめるものだったら、そのときに『ありがとう』って言ってほしい」
 語調は強くないのに、その言葉は慈乃の胸に重く、深く響いた。
「いつか、必ず言います。きっと、ウタセさんに、一番に」
 一言一句に想いを込める。この瞬間を言霊で縫い留めるように。
 慈乃の瞳に力強い光が宿る。その眦で決意を新たにするように最後の滴が散った。

(きっと、この光景はずっと忘れられないだろうな)
 今の慈乃はなんだか虹に似ていると、ウタセは頭の片隅で思う。
 雨上がりの空に浮かぶ虹が無性に美しく感じられ、心に残る、あの感覚に似ているなと。
 やっと見られた晴れ間を、また曇らせるようなことはしたくない。
 ウタセは自らの過去を『少し』しか話さなかったことに後ろめたさを感じながらも、今はまだそのときではないと自分に言いきかせる。
 そして、後ろめたさ以上の感慨を笑顔に乗せた。
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