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1話

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 ラベンダーの爽やかな香りが傑の鼻に微かに香った。しかし間宮傑(まみやすぐる)は普通の高校二年生で、ラベンダーの香りのする物や香水などは持ち合わせていない。ならば何故その様な香りが傑の鼻に届いたのか。
「間宮傑くん」
 その理由は明白。体からラベンダーの香りを漂わせる少女に、傑は壁ドンをされていたからだ。
「な、何か用事か?」
 周囲に立つ他の生徒達がざわざわと騒ぎ始める。そう、ここは傑の所属するクラス、二年B組の教室内である。しかし少女はそんな事をまるで気にする様子もなく傑にこう言い放った。
「あなた、私と結婚させてあげるわ」
 ・・・何故こうなったのか。何故この様な事態に陥ってしまったのか!それを考える為か傑の脳内に目の前の少女、橘恵梨香(たちばなえりか)と出会った昨日の事がフラッシュバックしてきた。
  ◇
 何の変哲もない。ごくごくいつもの日常。そんな日常の中で違うものと言ったら、傑の席の周りで盛り上がっている会話くらいのものだろう。
「んで!お前はどの子が好みよ!?」
「やっぱカーリンだろ!」
「お前!現役バリバリのアイドルは反則だろ!カーリンが嫌いな男なんていねーよ!」
 好きな女性のタイプ、と言った低俗な話題でよくぞここまで盛り上がれるものだ。そう考えながら傑は黙々と手を動かす。
「すーぐる!なーにやってんの!?」
「背後から飛びつくな。なに、いつもの内職さ」
 周りの会話には混ざっていなかった傑は突然背後から飛びついてきた男に苦笑しながら答える。後藤朔夜(ごとうさくや)。傑の唯一の友人であり悪友だ。
「お、後藤!お前はどんな女がタイプだ!?」
「オレ?オレは、そうだな。橘恵梨香かな!」
 クラスメイトの東野の発言に朔夜は少し考えた後答える。その答えに皆が納得したのか首を縦に振ったり視線を横に向けたりする。
 (橘恵梨香、か)
 クラスメイト達が顔を横に向けた理由は簡単。視線の先の廊下側の席に、橘恵梨香が座っているからだ。
「そうか。因みに俺は尻と長身がデカイ女が」
「やっぱ、橘はすげえよな」
 橘恵梨香。ロシア人と日本人のハーフで容姿端麗、成績優秀。その上、世界的な大企業である橘財閥の一人娘でもある。そんな完璧超人の様な人物。それが橘恵梨香である。
「でも、傑は嫌いなんだっけ?」
「別に橘恵梨香が嫌いって訳じゃない。俺が嫌いなのは金持ちという人間さ」
 傑が貴重な高校生の自由時間という時間に内職をしているのには当然理由がある。傑の父は一時期は名の知れた企業の社長で、裕福な子供時代を送っていた。しかし父は金を持ちすぎて盲目になったのか、ギャンブルに嵌り会社は倒産。多額の借金を抱えたまま自殺した。既に母も病気で他界しており祖父母も他界。残された借金は全てまだ成人もしていない傑の肩に重くのしかかった。
「そっか。まあ関係ないか!別にオレらは橘と交流がある訳じゃないしな!」
「本人がすぐ近くにいる中でそんな発言が出来るとは。お前は本当に考えなしだな」
「うっせ!」
 そう。橘恵梨香と間宮傑はクラスメイトではあるものの一才の関わりなどなかった。その時までは。
「あれ?」
 下校時間のチャイムが鳴り、席を立った傑が自分のポケットを探る。
「傑?どした?」
「お守りがない。肌身離さず持っていたのに!」
 鞄の中や机の中を焦りながら探す傑。その傑を見て朔夜は「そういえば体育の授業の時お前クラスの奴とぶつかって転んだよな」と呟く。
「体育館か!すまない朔夜!先に帰っててくれ!」
「傑!?ったく。しょうがねぇなぁ」
 朔夜と別れ体育館へ。いつもはバスケ部やバレー部の練習で騒がしい体育館だが、今日は部活が休みなので妙に静かだ。その静けさがなんとも不安を掻き立ててきて、傑は急いでお守りを探した。
「不味いぞ!あれを無くしたら菜奈になんて言えば!」
 菜奈とは傑の実の妹の事だ。傑が持ち歩いていたお守りは妹の菜奈の手作りで、絶対に持ち歩くと約束したと言うのに。
「あった!」
 地面に転がっていたお守りを見つけ、砂を払う。少し汚れてはいるもののこの程度の汚れなら問題ない。
「俺と付き合って下さい!」
「っっ!びっくりした、なんだ?」
 安堵感でいっぱいだった傑は突然響いた大声に驚き声のした方を見る。
「あいつはクラスメイトの船橋。告白されているのは」
 船橋が告白している人物を見て納得する。橘恵梨香だ。ロシア人譲りの綺麗な金髪が風に揺れるだけでとても絵になっている。
「ごめんなさい。あなたと付き合うつもりはないわ」
「そ、そんな!せめて理由だけでも!」
「恵梨香様は結論を出されました。お引き取り願います」
 諦めずに食いつこうとする船橋が同じくクラスメイトである水瀬のどかに止められる。水瀬は小柄で昼食などもいつも少量なのに恵梨香に接近しようとする船橋を力ずくで撤退させて行った。
「はぁ。今日だけで七回目。ほんと嫌になってくるわ」
「おつかれ様です恵梨香様。どうぞ」
「あら、流石のどか!気がきくわね」
 船橋を追い払ったのどかが恵梨香に何かを差し出し、それに恵梨香が躊躇わず口をつける。
 (恐ろしい程手慣れているな。水瀬が橘家お抱えのメイドだって噂は本当だったのか)
 つい告白現場を見てしまっていた傑だが、落ち着いてきたからか少し冷静になってくる。よく考えれば他人の告白現場など見るものではない。
 (帰るか)
 傑は家に帰ろうと足を踏み出すと、枯れ木を踏んでしまい大きな音が鳴る。
「誰!?」
 その音に反応した恵梨香が大声をあげ、すぐさま傑の元にのどかがやってくる。
「えっと、覗くつもりは無かったんだ。悪気があった訳じゃない」
「み、見たわね!私の最大の秘密を!」
「は?いや別にそんな秘密は見ていないが」
 橘恵梨香は男によく告白される。そんな事は学校中の誰もが知っている事で、秘密にする様なことでは無いと思うが。
「そっちじゃないわよ!あなたが見たのは、こっちよ!」
 恵梨香は赤面しながら手に持っていたものを傑の目の前に出す。そこに出された物は。
「マヨネーズ?」
 想定外過ぎるものに傑は思わず素っ頓狂な声を挙げる。
「誤魔化そうったって無駄よ!」
「え!?あ、いや」
「恵梨香様ストップ。この反応、間宮君は本当にこの事を知らなかったのでは?」
 のどかの言う通りだ。傑は確かに告白の現場に出くわしはしたが、途中から興味が尽きて現場を見ると言う行為はしていなかった。故にのどかが恵梨香に何を渡したのかという点は何も知らなかったのだ。
「え、えっと、つまり?」
「恵梨香様が自分で自分の秘密を暴露したと言う事になります」
 元々怒りで赤くなっていた顔が恥じらいによって真っ赤へと変わっていく。いや、真っ赤と言う言葉では言い表せない程赤い。
「えっと。じゃあ俺はこれで」
「待ちなさい!絶対に言いふらさないとここで約束なさい!絶対によ!」
「ああ勿論さ。他人の秘密を人に言いふらす様な事はしない。誓うよ」
 出来るだけ優しい言葉を選び恵梨香に言う。その言葉を信用したのか恵梨香は小さく頷いた。
「でもいつも飲んでる訳じゃないのよ!?猿どもが私の可愛さとお金に魅了されて次々告白にきて鬱陶しいからストレスで!」
 猿どもとはクラスメイトやこの学校の男達の事だろうか。随分と口が悪いお嬢様だ。
「そうか。美人にも美人なりの悩みがあるんだね。じゃあ俺はこれで」
 だがその思った事を口にはしない。なるべく穏便に済ませて明日からはこれまで以上に関わらない様に。
「待った。恵梨香様。恵梨香様が男どもに告白されるのは特定の恋人がいないからですよね?」
「ええ、そうね」
「ならば。特定の恋人を作り、その人と付き合っていると周囲に伝えることが出来れば、告白される事はないのでは?」
「・・・なるほど。あなた天才ね!」
 猛烈に嫌な予感がする!!!
「おっとー!もうこんな時間だ!卵のタイムセールに遅れてしまう!!では俺はこれで失礼するよ元気で過ごしてくれよ二人とも!!!」
 傑は逃げる様に校門を潜った。
  ◇
「まさか、そう言う事なのか!?」
 話は戻り現在。突然恵梨香に壁ドンされた傑が状況を理解するがもう遅い。
「うふふ。観念なさい。さあ、間宮傑くん!もう一度言ってあげるわ!!」
 ことの顛末を理解した傑に恵梨香はトドメと言わんばかりに大声を出して言う。
「光栄に思いなさい!私と結婚させてあげるわ!!!」
 
 金より大事なものはない! 第一話 婚約
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