岩にくだけて散らないで

葉方萌生

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第九話 ほどけそうなこの想い

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 俊から電話がかかってきたのは、その日の夜のことだった。
 お風呂上がりに温かいカフェオレを飲んで、身体を温めながら読書をしていた時だ。
 スマホに表示された「天海俊」という名前に私は目を見開かずにはいられなかった。離れてから俊から電話が来たことは一度もない。すべてメッセージでのやりとりだった。どくん、どくん、と鳴る心臓を押さえながら、私はスマホの通話ボタンを押した。雨上がりの空に、部屋の窓から覗く月明かりが、夜の闇を幻想的にほの明るく照らしていた。

「……もしもし」

 誰にも聞かれないほどの小さな声で出たのは、電話の向こうの俊の息遣いを聞こうと必死だったからだ。

『凛。凛か?』

 懐かしい声が耳に飛び込んできて、私は全身が喜びで震えるのが分かった。俊の声を久しぶりに聞けて嬉しい、と全身が叫んでいるのを知って、また嬉しくなった。泣きそうだった。一言声を聞いただけなのに、少しだけたくましくなったけど、やっぱり十五年間私の隣にいてくれた男の子の声だと分かり、引っ越してから抱えてきた緊張感が一気に解れるのを感じた。

「うん。久しぶりだね、俊」

 自分でも驚くくらい素直に俊に言葉をかけていた。電話越しに、私たちの間を流れる空気が一気に弛緩したのが分かった。

『良かった……出てくれて。俺、もう二度と凛の声を聞けないんじゃないかって思って、不安だったんだ』

 電話の向こうから聞こえてきた安堵の声に、私はおかしくて笑ってしまう。

「もう二度となんて、大袈裟だよ。メールだっていつもしてるじゃん。たった八百キロメートル離れてるだけなのに」

『そうか、そうだな。八百キロメートル、それだけだ。たったそれだけなのに、こんなに遠く感じちまうなんてな
あ』

 遠い。東京から高知まで、高校生の私たちにとっては海外と変わらないんじゃないかって思うくらい、遠くに感じる。でも、高知にも同じように高校生がいて、夏の大会があって、東京の高校生と何ら変わらない生活を送っている。とても不思議だけれど、一生懸命に撮影をして汗を流す蓮と、サッカーでゴールを決める俊の姿が想像の中で重なった。

「……俊はさ、私に好きって言ってくれたじゃん」

 俊の吐息が、電話越しに聞こえるんじゃないかってぐらい、部屋の中は静まりかえっていた。自分しかいないから当然のことなのだが、それ以上に家の周囲に車や人がいないのが原因だろう。田舎の夜はとても静かだ。東京では周囲の雑音が家の中まで響いて、夜中でも耳障りな音が鳴っていることが多い。

『ああ、そんなこともあったな』

 俊は「忘れてたよ」とでも言うぐらいの軽さで答えた。だけど、俊の中であの「好き」が、まだ記憶にこびりついていることは私が一番よく知っている。

「私、好きって、どういうのか、その時分からなくて……傷つけて、ごめん」

 俊のことは昔から好きだった。でも、恋愛感情なのかと聞かれたら、その時の私は分からなかったのだ。
 でも今は。今なら、私も分かるのかもしれない。
 俊が息をのんだような間があって、私は心臓の音がばくばくと鳴っていることに気づいた。どうしてだろう。俊のことを想うと、私は自分じゃなくなったみたいになる。同時に蓮の顔が浮かぶ。俊と蓮は全然違うのに、私はどうして二人を比べるようなことをしてしまっているのだろう。

 気持ちを落ち着けようとして、窓の外に視線を這わせた。何もない、田舎の夜の静寂が、景色からでも伝わってくる。そんなの不思議だった。東京にいる時、私はろくに景色を楽しもうとしていなかった。ただ目の前に迫ってくる友達や俊との毎日を、一心不乱に駆け抜けていただけ。日常生活にこんな素敵な余白があることを、私は引っ越してきて初めて知ったのだ。

「俊……私を好きでいなくていいよ。自由になっていいよ。私が俊を縛りつけてるなら、私はどっかに行くから……だから——」

『バカだなあ、凛は』

 この場にそぐわない、クスクスという笑い声がして、私ははっと我に返る。俊の笑った顔が昔から好きだった。俊が笑うと、漫画みたいに目が一直線になって、その顔まで整っていてきれいで。私は俊の隣にいると、自分まできれいな人間の一部になれた気がして居心地が良かったのだ。

『ずっと気にしてたんだろ。バレバレなんだよ。俺は凛に謝って欲しいわけでもないし、傷ついてもいない。凛を好きでいるかどうかなんて、俺が勝手に決めることだ。凛にはただ、笑って欲しいんだ』

 俊の言葉は、道に迷いそうになっていた私の心を、月明かりみたいにほの明るく照らしてくれる。変わらない温もりが、電話の向こうから伝わってくる。だから私は、ここまで自分の足で立って歩いてこられたんだ。

「……ありがとう。私ね、今大事な動画を撮ってるの。蓮って男の子と一緒に。蓮は映像を撮るのが大好きで、オタクみたいなんだよ。完成したら、俊にも見せるね。いや、見て欲しい」

 俊と離れて、変わった私を見て欲しい。
 変わった私と変わらない私を見て欲しい。
 その上で、俊がまだ私を好きでいてくれるなら、私はこれほど嬉しいことはないと思う。
 俊がずっと守ってきてくれた道を、私はまっすぐに歩いていけるかな——。

『おう、がんばれ。待ってるから凛、がんばれ』

 俊、俊、俊。
 小さい頃から呼んでいた愛しい人の名前を心の中で何度も呟く。がんばれと励ましてくれる彼の言葉を胸の中で噛み締める。俊と心で呼びかける度に、まるい宝石みたいなイメージになって、溶けていく。
 ほどけそうなこの想いを、私はまだ守っている。


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