演じるのはもうやめます

たくわん

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開店当日の朝、アリシアは誰よりも早く店に到着した。まだ薄暗い時間帯だったが、彼女の心は高揚していた。スタッフたちも次々と到着し、最終確認を始める。

「茶器の配置は完璧ですか?」
「はい、お嬢様。すべて確認済みです」
「紅茶の在庫は?」
「十分にございます」
「焼き菓子は?」
「ブランシェ様が早朝から焼いてくださっています」

アリシアは深呼吸をした。準備は万端。あとは、客が来るのを待つだけだ。

しかし、開店時刻が近づくにつれ、不安が募ってきた。もし誰も来なかったら?社交界の人々は、元婚約者の店など見向きもしないのではないか?

「お嬢様、大丈夫ですよ」

トーマスが励ますように言った。

「あなたは最高の準備をした。あとは、自信を持って迎えればいい」

午前十時。開店の時刻。アリシアは緊張した手で、扉の鍵を開けた。

最初の数分間、誰も来なかった。通りを歩く人々は、看板を興味深そうに見るが、入ってこない。アリシアの心臓が早鐘を打つ。

そして十分後、扉が開いた。

最初の客は、アリシアの従姉妹であるソフィア子爵令嬢だった。しかし彼女は一人ではなかった。後ろには、社交界で影響力のある令嬢たちが五人ほど並んでいた。

「アリシア!おめでとう!」

ソフィアは満面の笑みで抱きついてきた。

「ソフィア…みんな…」
「あなたが婚約破棄された後、初めて本当に笑顔を見せたって聞いたの。それで、絶対に応援しようって決めたのよ」

ソフィアの友人の一人、レオノーラ伯爵令嬢が言った。

「私たちも、ずっとあなたに憧れていたの。でも、完璧すぎて近づきがたかった。今のあなたは、もっと素敵よ」

アリシアの目に涙が浮かんだ。

「ありがとう。本当に、ありがとう」

彼女たちを案内し、最高の紅茶を淹れる。アリシア自らティーポットを持ち、丁寧に説明する。

「これは東方から取り寄せた特別な紅茶です。香りを楽しんでから、ゆっくりと味わってください」

令嬢たちは感嘆の声を上げた。

「まあ、素晴らしい香り!」
「この色も美しいわ」
「お菓子も繊細で、紅茶によく合うわね」

しかし、最も彼女たちを驚かせたのは、アリシア自身の変化だった。

「アリシア、あなた、本当に変わったわね」

ソフィアがしみじみと言った。

「以前は、完璧だけど、どこか遠い存在だった。でも今は、こんなに近くに感じる」

アリシアは笑った。

「私、やっと自分になれたの。これが本当の私なのよ」

彼女たちとの会話は弾んだ。以前のように当たり障りのない社交辞令ではなく、本音で語り合う。笑い声が店内に響く。

昼過ぎには、噂を聞きつけた他の貴族たちも訪れ始めた。店の前には行列ができた。

「あの地味だった公爵令嬢が経営する店」という好奇心もあったが、一度入れば、その質の高さに驚く。紅茶の味、焼き菓子の繊細さ、そして何より、アリシア自身の情熱的な接客。

アリシアは厨房と客席を行き来し、時には重い荷物も自ら運んだ。汗をかき、髪が乱れても気にしない。その姿に、客たちは好感を持った。

「お嬢様、少し休まれた方が…」

スタッフが心配するが、アリシアは首を横に振った。

「大丈夫。これが楽しいの」

午後三時頃、思わぬVIPが訪れた。王太子妃殿下だ。お忍びでの来店だったが、護衛の存在ですぐに分かった。

店内がざわめく。アリシアは深呼吸をして、落ち着いて対応した。

「王太子妃殿下、ようこそお越しくださいました」
「アリシア様、素晴らしいお店ですね。噂は聞いていましたが、想像以上です」

王太子妃は優雅に席に着いた。アリシアは最高級の紅茶を選び、丁寧に淹れる。

「殿下、この紅茶は東方の皇帝も愛飲されているという特別なものです」

王太子妃は一口飲んで、目を細めた。

「素晴らしい。アリシア様、あなたは『完璧な淑女』だった頃も素敵でしたが、今の方がずっと輝いていますわ」

その言葉に、アリシアは込み上げるものを感じた。

「ありがとうございます、殿下。それが何より嬉しいお言葉です」

王太子妃は続けた。

「女性が自分の道を切り開く。それは簡単なことではありません。でも、あなたのような方がいることで、多くの女性が勇気をもらえるでしょう」
「恐縮です」
「いいえ。あなたは新しい時代の先駆けです。私も、微力ながら応援させていただきますわ」

王太子妃の訪問は、店の信用を一気に高めた。閉店時間になっても、客足は途絶えなかった。

夕方六時、ようやく最後の客を見送った。アリシアは椅子に座り込み、大きく息をついた。

「お疲れ様でした、お嬢様」

スタッフたちが労いの言葉をかけてくる。

「みんな、ありがとう。初日は大成功だったわ」

トーマスが売上の報告に来た。

「お嬢様、初日の売上は予想の三倍です」
「本当に?」

アリシアは信じられないという顔をした。

「ええ。これは大変な成功です」

その夜、屋敷に戻ったアリシアは、疲れ果てていたが、表情は輝いていた。父と執事が出迎える。

「お帰りなさい、アリシア」
「ただいま、お父様。セバスチャン」

公爵は娘を見て、満足そうに頷いた。

「初日はどうだった?」
「大成功でした。お客様もたくさん来てくださって、みんな喜んでくださって」

アリシアは興奮気味に報告する。その姿は、まるで遠足から帰ってきた子供のようだった。

「それは良かった。お前が幸せそうで、父も嬉しい」

その夜、アリシアは日記をつけた。母が遺した日記の隣に、自分の日記を置く。

『お母様、今日、私の店が開店しました。たくさんの方が来てくださって、本当に嬉しかったです。これからも、お母様のように、情熱を持って仕事をしていきます』

一方、その頃、ヴィクターは友人たちとの集まりに参加していた。そこで、『ローズ・アンド・ソーン』の話題が出た。

「ヴィクター、お前の元婚約者の店、すごい人気らしいぞ」
「ああ、聞いた。王太子妃殿下まで訪れたとか」
「お前、後悔してるんじゃないか?」

友人の一人が冗談めかして言ったが、ヴィクターは答えなかった。

実際、彼は複雑な感情を抱いていた。マリアンヌは可愛いが、社交界での立ち回りができず、ヴィクターの評判は徐々に下がっていた。

以前は、アリシアが完璧にすべてを処理してくれていた。人脈の管理、社交の段取り、家計の管理。すべてを。それがどれほど大変なことだったか、失って初めて分かった。

「ヴィクター?聞いてるのか?」
「ああ、すまん。何だった?」

ヴィクターは現実に引き戻された。しかし、心の中では、アリシアの笑顔が浮かんでは消えた。

翌日、『ローズ・アンド・ソーン』には昨日以上の客が訪れた。アリシアの成功の噂は、一夜にして社交界中に広まったのだ。

「あの地味だった令嬢が、こんなに輝いているなんて」
「やはり、婚約破棄は彼女にとって幸運だったのね」
「ヴィクター様は、とんでもない人を手放したものだわ」

人々の評価は一変した。以前「完璧すぎてつまらない」と言われていたアリシアは、今や「情熱的で魅力的な実業家」として称賛されていた。

アリシアは忙しい日々の中で、充実感を感じていた。これが、本当の人生。これが、自分らしい生き方。

ある日の午後、店に見慣れた顔が訪れた。ヴィクターの母、エドワード侯爵夫人だった。

アリシアは一瞬緊張したが、すぐに平静を取り戻した。

「侯爵夫人、いらっしゃいませ」
「アリシア様…いえ、アリシアさん。少しお話ししてもよろしいですか?」

夫人の表情は複雑だった。二人は奥の静かな席に座った。

「まず、お詫びを申し上げたい。息子が、あなたに対して失礼なことをしました」
「お気になさらないでください。もう過去のことです」

アリシアは穏やかに答えた。

「あなたは…恨んでいませんか?」
「恨む?いいえ。むしろ感謝しているくらいです」

夫人は驚いて目を見開いた。

「感謝?」
「ええ。あの婚約破棄がなければ、私は今でも偽りの自分を演じ続けていたでしょう。ヴィクター様は、私を解放してくださったのです」

その言葉に、夫人の目に涙が浮かんだ。

「あなたは…本当に強い方ですね。実は、私も若い頃、やりたいことがありました。でも、侯爵夫人という立場が…」

夫人は自分の人生を語り始めた。夢を諦め、期待される役割を演じ続けた日々。そしてアリシアを見て、自分の若い頃を思い出したと。

「アリシア、あなたのように生きられる女性が、もっと増えればいいと思います」
「ありがとうございます、夫人」

二人は和解し、夫人は店を後にした。アリシアは窓の外を見つめながら思った。

人生は、予想もしない方向に進む。でも、それが必ずしも悪いことではない。むしろ、新しい可能性への扉が開くこともある。

『ローズ・アンド・ソーン』の成功は、アリシアの人生の新しい章の始まりに過ぎなかった。これから、さらに大きな挑戦が待っている。しかし今のアリシアには、どんな困難も乗り越えられる自信があった。

なぜなら、彼女は今、本当の自分として生きているのだから。
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