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第一章 婚約破棄と旅立ち
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旅の七日目、風景は一変していた。
緑の平原はいつしか白銀の世界に取って代わられ、吐く息が白く凍る。街道の両脇には雪を被った針葉樹が延々と並び、空は鉛色の雲に覆われていた。
リーゼは毛布にくるまり、馬車の窓から外を眺めた。王都ではこんな雪を見たことがない。
「もうすぐノルトハイム領に入りますよ」
御者が声をかけた。影狼の一件以来、この御者はリーゼに対して明らかに態度が変わっていた。あの夜は宿で酒を飲みながら、「すげえもん見た」と何度も繰り返していた。
やがて、街道の先に石造りの門が見えてきた。門柱に刻まれた狼と雪の結晶の紋章。ノルトハイム公爵領の入り口だ。
門番が馬車を止め、通行証を確認する。御者が書状を見せると、門番の表情が変わった。
「リーゼ・フォン・ヴァイセン様ですね。お待ちしておりました。お通りください」
待っていた。その言葉にリーゼは少し驚いた。
門をくぐると、雪景色の中に小さな集落が見えてきた。石造りの家々から煙突の煙が立ち上り、通りには人の姿もある。
馬車が集落を通り抜ける時、窓の外に気配を感じた。
人々がこちらを見ていた。好奇の目。だが、王都で感じた嘲笑や蔑みとは違う。どこか期待を含んだ、温かいまなざし。
子供が手を振った。リーゼは戸惑いながらも、小さく手を振り返した。
集落を過ぎ、さらに馬車は北へ進む。やがて丘の上に、灰色の城館が姿を現した。
ノルトハイム公爵邸。華美な装飾はなく、堅牢な石壁と高い塔で構成された北方らしい実用的な造り。しかしその佇まいには、王都の宮殿とは異なる威厳があった。
門前に馬車が停まると、すでに数人の使用人が整列して待っていた。その先頭に立つ長身の男が、にこやかに歩み寄ってくる。
「ようこそ、リーゼ嬢。長旅お疲れ様でした」
砂色の髪を後ろに撫でつけた、三十がらみの男だった。細い目が人好きのする笑みを作っている。
「私はハインリヒ。公爵の側近を務めております。以後お見知り置きを」
「リーゼ・フォン・ヴァイセンです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
慣れた挨拶を返しながらも、リーゼの胸は緊張で張り詰めていた。
「公爵様がお待ちです。お部屋にご案内したいところですが、先にご挨拶をと仰せで。お疲れのところ恐縮ですが」
「いえ、もちろんです」
ハインリヒに導かれ、城館の中に入る。石の廊下は冷えていたが、等間隔に置かれた魔導灯が温かな光を投げかけていた。
壁には北方の風景を描いた絵画や、歴代当主の肖像画が掛けられている。どの顔も厳めしく、北の厳しさを体現したような面構えだった。
執務室の前でハインリヒが扉を叩く。
「お連れしました」
「入れ」
低い声が返った。
扉が開き、リーゼは足を踏み入れた。
広い執務室だった。正面の大窓から雪原が一望でき、その手前の重厚な机の向こうに、一人の男が立っていた。
黒髪に、冬の湖を思わせる深い青の瞳。彫りの深い端正な顔立ちは、氷で刻んだように冷たい。長身で隙のない体躯。纏う空気そのものが凍てついているようだった。
アルヴィン・ヴォルフ・ノルトハイム。氷の公爵。
リーゼは膝が震えそうになるのを堪え、深く頭を下げた。
「リーゼ・フォン・ヴァイセンと申します。この度はお招きいただき……」
「顔を上げろ」
言葉は短く、抑揚がない。
リーゼが顔を上げると、青い瞳がまっすぐにこちらを見ていた。品定めするような目。リーゼは思わず視線を逸らしそうになったが、堪えた。
数秒の沈黙。
アルヴィンが机を回り込み、リーゼの前に歩み出た。近くで見ると、一層その威圧感が増す。だがリーゼが身構えたとき、アルヴィンは静かに手を差し出した。
「よく来た」
その声は、さきほどとは少しだけ違っていた。
冷たい声質は変わらない。だがその奥に、確かに温もりがあった。まるで氷の下を流れる地下水のように、注意しなければ気づかないほどのかすかな優しさ。
リーゼは恐る恐るその手を取った。大きくて硬い手だった。
「……ありがとうございます」
アルヴィンは一瞬だけ目を細めた。それが笑みなのかどうか、リーゼにはわからなかった。
「ハインリヒ、部屋に案内しろ。明日から話がある」
「かしこまりました」
手が離れた。温もりが消えて、冬の冷気が指先に戻ってくる。
リーゼは執務室を後にしながら、握られた手の感触を反芻していた。
王都では誰一人として、あんなふうに「よく来た」と言ってくれなかった。
緑の平原はいつしか白銀の世界に取って代わられ、吐く息が白く凍る。街道の両脇には雪を被った針葉樹が延々と並び、空は鉛色の雲に覆われていた。
リーゼは毛布にくるまり、馬車の窓から外を眺めた。王都ではこんな雪を見たことがない。
「もうすぐノルトハイム領に入りますよ」
御者が声をかけた。影狼の一件以来、この御者はリーゼに対して明らかに態度が変わっていた。あの夜は宿で酒を飲みながら、「すげえもん見た」と何度も繰り返していた。
やがて、街道の先に石造りの門が見えてきた。門柱に刻まれた狼と雪の結晶の紋章。ノルトハイム公爵領の入り口だ。
門番が馬車を止め、通行証を確認する。御者が書状を見せると、門番の表情が変わった。
「リーゼ・フォン・ヴァイセン様ですね。お待ちしておりました。お通りください」
待っていた。その言葉にリーゼは少し驚いた。
門をくぐると、雪景色の中に小さな集落が見えてきた。石造りの家々から煙突の煙が立ち上り、通りには人の姿もある。
馬車が集落を通り抜ける時、窓の外に気配を感じた。
人々がこちらを見ていた。好奇の目。だが、王都で感じた嘲笑や蔑みとは違う。どこか期待を含んだ、温かいまなざし。
子供が手を振った。リーゼは戸惑いながらも、小さく手を振り返した。
集落を過ぎ、さらに馬車は北へ進む。やがて丘の上に、灰色の城館が姿を現した。
ノルトハイム公爵邸。華美な装飾はなく、堅牢な石壁と高い塔で構成された北方らしい実用的な造り。しかしその佇まいには、王都の宮殿とは異なる威厳があった。
門前に馬車が停まると、すでに数人の使用人が整列して待っていた。その先頭に立つ長身の男が、にこやかに歩み寄ってくる。
「ようこそ、リーゼ嬢。長旅お疲れ様でした」
砂色の髪を後ろに撫でつけた、三十がらみの男だった。細い目が人好きのする笑みを作っている。
「私はハインリヒ。公爵の側近を務めております。以後お見知り置きを」
「リーゼ・フォン・ヴァイセンです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
慣れた挨拶を返しながらも、リーゼの胸は緊張で張り詰めていた。
「公爵様がお待ちです。お部屋にご案内したいところですが、先にご挨拶をと仰せで。お疲れのところ恐縮ですが」
「いえ、もちろんです」
ハインリヒに導かれ、城館の中に入る。石の廊下は冷えていたが、等間隔に置かれた魔導灯が温かな光を投げかけていた。
壁には北方の風景を描いた絵画や、歴代当主の肖像画が掛けられている。どの顔も厳めしく、北の厳しさを体現したような面構えだった。
執務室の前でハインリヒが扉を叩く。
「お連れしました」
「入れ」
低い声が返った。
扉が開き、リーゼは足を踏み入れた。
広い執務室だった。正面の大窓から雪原が一望でき、その手前の重厚な机の向こうに、一人の男が立っていた。
黒髪に、冬の湖を思わせる深い青の瞳。彫りの深い端正な顔立ちは、氷で刻んだように冷たい。長身で隙のない体躯。纏う空気そのものが凍てついているようだった。
アルヴィン・ヴォルフ・ノルトハイム。氷の公爵。
リーゼは膝が震えそうになるのを堪え、深く頭を下げた。
「リーゼ・フォン・ヴァイセンと申します。この度はお招きいただき……」
「顔を上げろ」
言葉は短く、抑揚がない。
リーゼが顔を上げると、青い瞳がまっすぐにこちらを見ていた。品定めするような目。リーゼは思わず視線を逸らしそうになったが、堪えた。
数秒の沈黙。
アルヴィンが机を回り込み、リーゼの前に歩み出た。近くで見ると、一層その威圧感が増す。だがリーゼが身構えたとき、アルヴィンは静かに手を差し出した。
「よく来た」
その声は、さきほどとは少しだけ違っていた。
冷たい声質は変わらない。だがその奥に、確かに温もりがあった。まるで氷の下を流れる地下水のように、注意しなければ気づかないほどのかすかな優しさ。
リーゼは恐る恐るその手を取った。大きくて硬い手だった。
「……ありがとうございます」
アルヴィンは一瞬だけ目を細めた。それが笑みなのかどうか、リーゼにはわからなかった。
「ハインリヒ、部屋に案内しろ。明日から話がある」
「かしこまりました」
手が離れた。温もりが消えて、冬の冷気が指先に戻ってくる。
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