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第一章 婚約破棄と旅立ち
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リーゼが王都を発って二日目の夜だった。
街道沿いの小さな宿場町で馬車を停め、安宿の一室に落ち着く。粗末だが清潔な部屋で、リーゼは窓辺に腰掛けて夜空を見上げた。
王都から離れるにつれ、不思議な感覚があった。胸の奥で張り詰めていた何かが、少しずつほどけていくような。同時に、体の内側からじわりと力が湧いてくるような。
「気のせいかしら」
呟いて、自分の手を見る。何も変わらない白い手。けれど指先がかすかに熱い。
同じ頃、王都エルステリアでは異変が起きていた。
北東区画の路地裏で、体長一メートルほどの魔獣が発見された。黒い毛並みに赤い目を持つ、低級の影狼だ。本来なら王都の結界内に魔物が入り込むことはありえない。
「三日前にも目撃情報がありました。これで四件目です」
衛兵隊の報告を受けた宮廷魔術師団長、オルトヴィンは眉をしかめた。
「結界に綻びが出ているということか」
「はい。北東区画を中心に、結界の魔力反応が著しく低下しております」
オルトヴィンは腕を組んだ。王都の大結界は百年以上にわたって魔物の侵入を防いできた。その維持には膨大な魔力が必要だが、なぜ今になって急に弱まるのか。
「原因を調査しろ。それから、クラウス殿下にもお伝えせねばなるまい」
クラウス第二王子は、報告を鼻で笑った。
「魔物が数匹入り込んだくらいで大騒ぎするな。衛兵を増やして対処すればいいだろう」
王子の私室には、ミレーユが当然のように同席していた。クラウスの隣のソファに座り、紅茶を優雅に啜っている。
「殿下のおっしゃる通りです。結界の揺らぎなんて、きっとすぐに収まりますわ」
ミレーユの声は蜜のように甘い。
「そうだろう。そもそも結界が弱まったのなら、ミレーユが補強すればいい。お前は聖女なのだからな」
「もちろんですわ。私にお任せくださいませ」
ミレーユは微笑んだ。しかしその瞳の奥に、一瞬だけ焦りが走ったことにクラウスは気づかなかった。
三日目、リーゼの馬車は山間部にさしかかっていた。
街道の両脇に深い森が迫り、日差しが遮られて薄暗い。御者が何度か後ろを振り返り、落ち着かない様子を見せている。
「お嬢様、少し急ぎますよ。この辺りは魔物が出ることもありますんで」
「はい、お願いします」
その言葉が終わらぬうちだった。
森の茂みが大きく揺れ、黒い影が飛び出してきた。影狼だ。しかも王都で見つかったものより二回りは大きい。
馬が嘶き、馬車が大きく揺れた。御者が手綱を引いて叫ぶ。
「くそっ、出やがった!」
影狼は三頭。馬車を囲むように展開し、赤い目をぎらつかせている。
リーゼは馬車の窓から身を乗り出し、息を呑んだ。御者は馬を制御するので精一杯で、護衛はいない。
怖い。体が震える。
だが同時に、胸の奥で何かが脈打った。
熱い。指先が、掌が、腕全体が熱を帯びていく。
影狼の一頭が馬車めがけて跳躍した。
「だめっ……!」
リーゼが両手を前に突き出した瞬間、まばゆい光が弾けた。
白銀の膜が馬車を包み込み、影狼を弾き飛ばした。衝撃で三頭とも地面に叩きつけられ、悲鳴のような遠吠えを上げて森に逃げ込んでいく。
静寂が戻った。
「な……何が起きたんだ……」
御者が呆然と振り返る。
リーゼ自身も理解が追いつかなかった。両手を見下ろす。さっきまでの熱はすでに引いていたが、掌にはうっすらと光の紋様が浮かんでいた。
「これは……」
結界。
今のは、紛れもなく結界術だった。しかも馬車全体を包むほどの。教会の検査では「微弱」とされたはずの力が、こんなことをしたのか。
紋様はすぐに消えた。だが、リーゼの心臓はまだ激しく打っていた。
恐怖だけではない。自分の中に眠っていた何かが、初めて目を覚ましたような感覚。
「お嬢様、大丈夫ですかい」
「え、ええ……大丈夫です」
震える声で答え、リーゼは深く息をついた。
馬車が再び走り出す。揺られながら、リーゼはじっと自分の手を見つめていた。
北方の公爵は、この力を見込んで招いたのだろうか。だとしたら、教会よりも先に見抜いていたことになる。
答えは、まだ遠い北の地にある。
街道沿いの小さな宿場町で馬車を停め、安宿の一室に落ち着く。粗末だが清潔な部屋で、リーゼは窓辺に腰掛けて夜空を見上げた。
王都から離れるにつれ、不思議な感覚があった。胸の奥で張り詰めていた何かが、少しずつほどけていくような。同時に、体の内側からじわりと力が湧いてくるような。
「気のせいかしら」
呟いて、自分の手を見る。何も変わらない白い手。けれど指先がかすかに熱い。
同じ頃、王都エルステリアでは異変が起きていた。
北東区画の路地裏で、体長一メートルほどの魔獣が発見された。黒い毛並みに赤い目を持つ、低級の影狼だ。本来なら王都の結界内に魔物が入り込むことはありえない。
「三日前にも目撃情報がありました。これで四件目です」
衛兵隊の報告を受けた宮廷魔術師団長、オルトヴィンは眉をしかめた。
「結界に綻びが出ているということか」
「はい。北東区画を中心に、結界の魔力反応が著しく低下しております」
オルトヴィンは腕を組んだ。王都の大結界は百年以上にわたって魔物の侵入を防いできた。その維持には膨大な魔力が必要だが、なぜ今になって急に弱まるのか。
「原因を調査しろ。それから、クラウス殿下にもお伝えせねばなるまい」
クラウス第二王子は、報告を鼻で笑った。
「魔物が数匹入り込んだくらいで大騒ぎするな。衛兵を増やして対処すればいいだろう」
王子の私室には、ミレーユが当然のように同席していた。クラウスの隣のソファに座り、紅茶を優雅に啜っている。
「殿下のおっしゃる通りです。結界の揺らぎなんて、きっとすぐに収まりますわ」
ミレーユの声は蜜のように甘い。
「そうだろう。そもそも結界が弱まったのなら、ミレーユが補強すればいい。お前は聖女なのだからな」
「もちろんですわ。私にお任せくださいませ」
ミレーユは微笑んだ。しかしその瞳の奥に、一瞬だけ焦りが走ったことにクラウスは気づかなかった。
三日目、リーゼの馬車は山間部にさしかかっていた。
街道の両脇に深い森が迫り、日差しが遮られて薄暗い。御者が何度か後ろを振り返り、落ち着かない様子を見せている。
「お嬢様、少し急ぎますよ。この辺りは魔物が出ることもありますんで」
「はい、お願いします」
その言葉が終わらぬうちだった。
森の茂みが大きく揺れ、黒い影が飛び出してきた。影狼だ。しかも王都で見つかったものより二回りは大きい。
馬が嘶き、馬車が大きく揺れた。御者が手綱を引いて叫ぶ。
「くそっ、出やがった!」
影狼は三頭。馬車を囲むように展開し、赤い目をぎらつかせている。
リーゼは馬車の窓から身を乗り出し、息を呑んだ。御者は馬を制御するので精一杯で、護衛はいない。
怖い。体が震える。
だが同時に、胸の奥で何かが脈打った。
熱い。指先が、掌が、腕全体が熱を帯びていく。
影狼の一頭が馬車めがけて跳躍した。
「だめっ……!」
リーゼが両手を前に突き出した瞬間、まばゆい光が弾けた。
白銀の膜が馬車を包み込み、影狼を弾き飛ばした。衝撃で三頭とも地面に叩きつけられ、悲鳴のような遠吠えを上げて森に逃げ込んでいく。
静寂が戻った。
「な……何が起きたんだ……」
御者が呆然と振り返る。
リーゼ自身も理解が追いつかなかった。両手を見下ろす。さっきまでの熱はすでに引いていたが、掌にはうっすらと光の紋様が浮かんでいた。
「これは……」
結界。
今のは、紛れもなく結界術だった。しかも馬車全体を包むほどの。教会の検査では「微弱」とされたはずの力が、こんなことをしたのか。
紋様はすぐに消えた。だが、リーゼの心臓はまだ激しく打っていた。
恐怖だけではない。自分の中に眠っていた何かが、初めて目を覚ましたような感覚。
「お嬢様、大丈夫ですかい」
「え、ええ……大丈夫です」
震える声で答え、リーゼは深く息をついた。
馬車が再び走り出す。揺られながら、リーゼはじっと自分の手を見つめていた。
北方の公爵は、この力を見込んで招いたのだろうか。だとしたら、教会よりも先に見抜いていたことになる。
答えは、まだ遠い北の地にある。
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