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第一章 婚約破棄と旅立ち
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婚約破棄から三日が経った。
リーゼの日々は灰色だった。自室と食堂の往復、時折庭に出て冬の空気を吸う。使用人たちは最低限の仕事はしてくれるが、以前のような笑顔はない。
その日の午後、珍しく父に呼ばれた。
ヴァイセン伯爵、ルドルフ・フォン・ヴァイセン。五十を過ぎた痩身の男で、口数が少なく、娘たちへの関心も薄い。母の生前はまだ多少の温かみがあったが、今では事務的な会話しか交わさない。
書斎に入ると、父は机の上の封書をリーゼの前に置いた。
「読め」
封蝋には見たことのない紋章が押されていた。狼と雪の結晶を組み合わせた意匠。
「ノルトハイム公爵家の紋章だ」
父がぼそりと言った。
ノルトハイム公爵。その名前はリーゼも知っている。エルステリア王国の北端に広大な領地を持つ名門。当主は若くして爵位を継いだ人物で、「氷の公爵」と渾名されていると聞く。社交界にはほとんど姿を見せず、謎に包まれた存在だった。
封を切り、中の書状に目を通す。格式ばった文面の中に、要点はこうあった。
「結界術の素養を持つ人材を広く求めている。ヴァイセン家の次女に素養があると伺い、ぜひ北方にお越しいただき、その力を我が領地の防衛に役立てていただきたい」
リーゼは何度か読み返した。
「お父様、これは……」
「渡りに船だ」
父の声には、感情というものが欠落していた。
「お前はもう王子の婚約者ではない。かといって、今のお前に見合う縁談などそうそうない。北方に行き、公爵家の役に立てるなら、それがお前の道だろう」
厄介払い。その言葉が脳裏をよぎった。
「断ることは……」
「できると思うか?」
父の目が冷ややかに光った。ヴァイセン家にとって、婚約を破棄された次女はもはや負債でしかない。公爵家からの申し出は、その負債を処理する好機なのだ。
「……わかりました」
他に何が言えただろう。
リーゼは書状を手に書斎を出た。廊下でグレーテルとすれ違った。姉はリーゼの手元の封書をちらりと見たが、何も言わずに通り過ぎた。
自室に戻り、書状をもう一度読む。
結界術の素養。教会の検査では「微弱」とされた力を、なぜ北方の公爵が知っているのだろう。しかも「広く求めている」というよりは、まるでリーゼ個人を指名しているかのような書きぶりだった。
疑問は残るが、選択肢はなかった。
このまま実家にいても、冷遇される日々が続くだけ。ならば、知らない土地で新しい生活を始めるほうがまだましかもしれない。
リーゼは小さな革鞄を引っ張り出し、荷造りを始めた。持ち物は驚くほど少なかった。クラウスから贈られたものは全て回収され、残っているのは質素な衣服と、母の形見の小さなブローチだけ。
銀細工の花をかたどったブローチを手のひらに乗せる。母がよく胸元につけていたものだ。
「お母様。私、北に行きます」
返事はない。でも、ブローチが手の中でほんのり温かい気がした。
翌日、父が手配したという馬車が門前に停まった。
見送りには誰も来なかった。
父は書斎に籠もったまま、グレーテルは外出中。使用人の一人が事務的に荷物を積み込むのを手伝っただけだった。
リーゼは屋敷を振り返った。十八年間暮らした家。楽しかった記憶もあるはずなのに、今はただ冷たい石の塊に見える。
「行きましょう」
御者に声をかけ、馬車に乗り込む。
走り出した車窓から、王都の街並みが流れていく。見慣れた大通り、市場の喧騒、教会の尖塔。全てが遠ざかっていく。
リーゼは前を向いた。
北方への道のりは七日ほどかかるという。その先に何が待っているのか、見当もつかない。
けれど不思議と、胸の奥に小さな灯がともった気がした。期待と呼ぶにはあまりにも頼りないが、絶望ではない何か。
馬車は王都の北門をくぐり、白い街道へと走り出した。
リーゼの日々は灰色だった。自室と食堂の往復、時折庭に出て冬の空気を吸う。使用人たちは最低限の仕事はしてくれるが、以前のような笑顔はない。
その日の午後、珍しく父に呼ばれた。
ヴァイセン伯爵、ルドルフ・フォン・ヴァイセン。五十を過ぎた痩身の男で、口数が少なく、娘たちへの関心も薄い。母の生前はまだ多少の温かみがあったが、今では事務的な会話しか交わさない。
書斎に入ると、父は机の上の封書をリーゼの前に置いた。
「読め」
封蝋には見たことのない紋章が押されていた。狼と雪の結晶を組み合わせた意匠。
「ノルトハイム公爵家の紋章だ」
父がぼそりと言った。
ノルトハイム公爵。その名前はリーゼも知っている。エルステリア王国の北端に広大な領地を持つ名門。当主は若くして爵位を継いだ人物で、「氷の公爵」と渾名されていると聞く。社交界にはほとんど姿を見せず、謎に包まれた存在だった。
封を切り、中の書状に目を通す。格式ばった文面の中に、要点はこうあった。
「結界術の素養を持つ人材を広く求めている。ヴァイセン家の次女に素養があると伺い、ぜひ北方にお越しいただき、その力を我が領地の防衛に役立てていただきたい」
リーゼは何度か読み返した。
「お父様、これは……」
「渡りに船だ」
父の声には、感情というものが欠落していた。
「お前はもう王子の婚約者ではない。かといって、今のお前に見合う縁談などそうそうない。北方に行き、公爵家の役に立てるなら、それがお前の道だろう」
厄介払い。その言葉が脳裏をよぎった。
「断ることは……」
「できると思うか?」
父の目が冷ややかに光った。ヴァイセン家にとって、婚約を破棄された次女はもはや負債でしかない。公爵家からの申し出は、その負債を処理する好機なのだ。
「……わかりました」
他に何が言えただろう。
リーゼは書状を手に書斎を出た。廊下でグレーテルとすれ違った。姉はリーゼの手元の封書をちらりと見たが、何も言わずに通り過ぎた。
自室に戻り、書状をもう一度読む。
結界術の素養。教会の検査では「微弱」とされた力を、なぜ北方の公爵が知っているのだろう。しかも「広く求めている」というよりは、まるでリーゼ個人を指名しているかのような書きぶりだった。
疑問は残るが、選択肢はなかった。
このまま実家にいても、冷遇される日々が続くだけ。ならば、知らない土地で新しい生活を始めるほうがまだましかもしれない。
リーゼは小さな革鞄を引っ張り出し、荷造りを始めた。持ち物は驚くほど少なかった。クラウスから贈られたものは全て回収され、残っているのは質素な衣服と、母の形見の小さなブローチだけ。
銀細工の花をかたどったブローチを手のひらに乗せる。母がよく胸元につけていたものだ。
「お母様。私、北に行きます」
返事はない。でも、ブローチが手の中でほんのり温かい気がした。
翌日、父が手配したという馬車が門前に停まった。
見送りには誰も来なかった。
父は書斎に籠もったまま、グレーテルは外出中。使用人の一人が事務的に荷物を積み込むのを手伝っただけだった。
リーゼは屋敷を振り返った。十八年間暮らした家。楽しかった記憶もあるはずなのに、今はただ冷たい石の塊に見える。
「行きましょう」
御者に声をかけ、馬車に乗り込む。
走り出した車窓から、王都の街並みが流れていく。見慣れた大通り、市場の喧騒、教会の尖塔。全てが遠ざかっていく。
リーゼは前を向いた。
北方への道のりは七日ほどかかるという。その先に何が待っているのか、見当もつかない。
けれど不思議と、胸の奥に小さな灯がともった気がした。期待と呼ぶにはあまりにも頼りないが、絶望ではない何か。
馬車は王都の北門をくぐり、白い街道へと走り出した。
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