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第一章 婚約破棄と旅立ち
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翌朝、リーゼは馬車の中で目を覚ました。
泣き疲れて眠ったらしい。王宮から実家のヴァイセン伯爵邸まで、侍女すら同行させてもらえなかった。御者が気まずそうに一人で馬を走らせ、リーゼは揺れる車内で膝を抱えたまま夜を過ごしたのだった。
伯爵邸の門が見える。重厚な鉄柵の向こうに、見慣れた白壁の屋敷。ここに帰ればまだ居場所がある、そう思いたかった。
玄関を開けると、出迎えたのは凍てつくような沈黙だった。
使用人たちが目を伏せてすれ違う。挨拶の声もない。昨夜の出来事はもう伝わっているのだろう。リーゼは胸の奥がずきりと痛むのを感じながら、廊下を進んだ。
「あら、帰ってきたの」
階段の上から声が降ってきた。姉のグレーテルだった。
二つ年上の姉は、ヴァイセン家の自慢の令嬢だ。母に似た豊かな金髪に端正な顔立ち。社交界での評判も良く、有力な侯爵家との縁談が進んでいると聞く。
その姉が、冷たい目でリーゼを見下ろしていた。
「恥さらし」
一言。
それだけで十分だった。
「王子殿下に婚約を破棄されるなんて。ヴァイセン家の面目は丸潰れよ。私の縁談にまで影響が出たらどうしてくれるの」
「姉様、私は――」
「言い訳はいらないわ。もともとあなたに王子の婚約者が務まるとは思っていなかったけれど、まさかあんな公衆の面前で切り捨てられるなんて」
グレーテルは嫌悪も隠さず、踵を返した。
「せめて家の中では目立たないようにしていてちょうだい」
足音が遠ざかる。リーゼは階段の手すりを握り、唇を引き結んだ。
自室に戻ると、部屋の様子が変わっていた。
クラウスから贈られた装飾品や書物は全て片づけられていた。それだけではない。窓際に置いていた花瓶もなくなり、壁のタペストリーも外されている。まるで客間のように素っ気ない空間。
「……そう」
使用人たちの態度で察していた。王子の婚約者でなくなったリーゼは、この家にとってもはや価値のない存在なのだ。
簡素なベッドに腰を下ろす。窓の外には冬枯れの庭が広がっていた。
リーゼは静かに両手を見つめた。
聖女の力。クラウスは「何の成果も見せたことがない」と言った。確かにその通りだった。幼い頃から微かな光を灯す程度のことしかできず、教会の検査でも「素養はあるが微弱」との評価を受けていた。
だが、時折不思議なことがあった。
夜中にふと目が覚めると、部屋の中がうっすらと光に包まれていることがある。庭で遊んでいた頃、野良犬が突然おとなしくなって足元に伏せたことがある。王都の街を歩くと、なぜか魔物除けの護符が反応しなくなることがある。
全て些細なことで、誰にも話さなかった。話したところで笑われるだけだと思ったから。
「私に、何ができるのだろう」
リーゼは呟いた。
王子の婚約者という立場を失った今、伯爵令嬢としての価値しか残されていない。だが次女で、しかもこれといった才能もないリーゼに、父が良い縁談を探してくれるとは思えなかった。
夕刻、食事の席に父の姿はなかった。母は三年前に亡くなっている。グレーテルは自室で食事を取ると侍女が告げた。
広い食卓に一人、冷めたスープを口に運ぶ。
味がしなかった。
夜更け、眠れずに窓辺に立つ。
王都の夜景がぼんやりと見えた。あの灯りの下で、クラウスはミレーユと笑っているのだろうか。
悔しさよりも虚しさが胸を満たしていた。五年という時間の重さと、それが何の意味もなかったという事実。
「これからどうすればいいの」
答えのない問いを、冬の夜空に投げかけた。
ふと、指先が淡く光った。気のせいかと思い目を凝らしたが、すでに消えていた。
リーゼは首を振り、冷たいシーツの中に潜り込んだ。
明日になれば何か変わるだろうか。変わらないだろう。それでも、朝は来る。
眠りに落ちる直前、リーゼは知らなかった。この夜、王都の北東区画で、五年ぶりに魔物の目撃情報が報告されたことを。
泣き疲れて眠ったらしい。王宮から実家のヴァイセン伯爵邸まで、侍女すら同行させてもらえなかった。御者が気まずそうに一人で馬を走らせ、リーゼは揺れる車内で膝を抱えたまま夜を過ごしたのだった。
伯爵邸の門が見える。重厚な鉄柵の向こうに、見慣れた白壁の屋敷。ここに帰ればまだ居場所がある、そう思いたかった。
玄関を開けると、出迎えたのは凍てつくような沈黙だった。
使用人たちが目を伏せてすれ違う。挨拶の声もない。昨夜の出来事はもう伝わっているのだろう。リーゼは胸の奥がずきりと痛むのを感じながら、廊下を進んだ。
「あら、帰ってきたの」
階段の上から声が降ってきた。姉のグレーテルだった。
二つ年上の姉は、ヴァイセン家の自慢の令嬢だ。母に似た豊かな金髪に端正な顔立ち。社交界での評判も良く、有力な侯爵家との縁談が進んでいると聞く。
その姉が、冷たい目でリーゼを見下ろしていた。
「恥さらし」
一言。
それだけで十分だった。
「王子殿下に婚約を破棄されるなんて。ヴァイセン家の面目は丸潰れよ。私の縁談にまで影響が出たらどうしてくれるの」
「姉様、私は――」
「言い訳はいらないわ。もともとあなたに王子の婚約者が務まるとは思っていなかったけれど、まさかあんな公衆の面前で切り捨てられるなんて」
グレーテルは嫌悪も隠さず、踵を返した。
「せめて家の中では目立たないようにしていてちょうだい」
足音が遠ざかる。リーゼは階段の手すりを握り、唇を引き結んだ。
自室に戻ると、部屋の様子が変わっていた。
クラウスから贈られた装飾品や書物は全て片づけられていた。それだけではない。窓際に置いていた花瓶もなくなり、壁のタペストリーも外されている。まるで客間のように素っ気ない空間。
「……そう」
使用人たちの態度で察していた。王子の婚約者でなくなったリーゼは、この家にとってもはや価値のない存在なのだ。
簡素なベッドに腰を下ろす。窓の外には冬枯れの庭が広がっていた。
リーゼは静かに両手を見つめた。
聖女の力。クラウスは「何の成果も見せたことがない」と言った。確かにその通りだった。幼い頃から微かな光を灯す程度のことしかできず、教会の検査でも「素養はあるが微弱」との評価を受けていた。
だが、時折不思議なことがあった。
夜中にふと目が覚めると、部屋の中がうっすらと光に包まれていることがある。庭で遊んでいた頃、野良犬が突然おとなしくなって足元に伏せたことがある。王都の街を歩くと、なぜか魔物除けの護符が反応しなくなることがある。
全て些細なことで、誰にも話さなかった。話したところで笑われるだけだと思ったから。
「私に、何ができるのだろう」
リーゼは呟いた。
王子の婚約者という立場を失った今、伯爵令嬢としての価値しか残されていない。だが次女で、しかもこれといった才能もないリーゼに、父が良い縁談を探してくれるとは思えなかった。
夕刻、食事の席に父の姿はなかった。母は三年前に亡くなっている。グレーテルは自室で食事を取ると侍女が告げた。
広い食卓に一人、冷めたスープを口に運ぶ。
味がしなかった。
夜更け、眠れずに窓辺に立つ。
王都の夜景がぼんやりと見えた。あの灯りの下で、クラウスはミレーユと笑っているのだろうか。
悔しさよりも虚しさが胸を満たしていた。五年という時間の重さと、それが何の意味もなかったという事実。
「これからどうすればいいの」
答えのない問いを、冬の夜空に投げかけた。
ふと、指先が淡く光った。気のせいかと思い目を凝らしたが、すでに消えていた。
リーゼは首を振り、冷たいシーツの中に潜り込んだ。
明日になれば何か変わるだろうか。変わらないだろう。それでも、朝は来る。
眠りに落ちる直前、リーゼは知らなかった。この夜、王都の北東区画で、五年ぶりに魔物の目撃情報が報告されたことを。
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