私はもう、あなたの所有物ではありません

たくわん

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第一章 婚約破棄と旅立ち

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境界壁を見た翌日から、リーゼの新しい日々が始まった。

朝は早い。日の出とともに起き、エルザが用意してくれた朝食をとり、午前中は屋敷の書庫で結界術の古文書を読む。アルヴィンが集めたという文献は膨大で、中には王都の教会にも存在しない貴重な写本まであった。

「こんなに揃っているなんて」

リーゼは分厚い革表紙の本を手に、感嘆の息を漏らした。

「公爵様が各地から集められたのですよ。北方の防衛のために、使えるものは何でも集める。そういう方です」

書庫の管理を任されている老齢の学者、フリッツが棚の整理をしながら答えた。

午後は実技の訓練に充てられた。屋敷の裏手にある訓練場で、リーゼは自分の力と向き合う。

最初の課題は、意図的に結界を張ることだった。

道中の魔物襲撃のとき、リーゼは無意識に結界を展開した。だがそれは恐怖に反応した本能的なもので、再現しようとしてもうまくいかない。

目を閉じ、両手を前に出す。体の奥底にあるはずの力を探る。何かが蠢く感覚はあるのに、指先まで届かない。

「力みすぎだ」

訓練を見に来たアルヴィンが、腕を組んで言った。

「結界術は力任せに引き出すものではない。体の中にある流れを、そのまま外に広げるような感覚だと古文書にはある」

「流れを、広げる……」

「川を想像しろ。堰き止めれば溢れるが、自然に流せば穏やかに広がる」

リーゼは深呼吸をして、力を抜いた。押し出すのではなく、流す。体の中心から指先へ、指先から空気へ。

ふわり、と掌の前に薄い光の膜が現れた。直径は三十センチほど。数秒で消えたが、確かに結界だった。

「あ……」

「できたな」

アルヴィンの声は相変わらず平坦だったが、リーゼは気づいた。ほんの少しだけ、声の温度が上がったことに。


日が経つにつれ、リーゼは屋敷の暮らしに馴染んでいった。

ハインリヒは何かと世話を焼いてくれた。書庫で難解な文献にぶつかると「それはこう読むんですよ」と教えてくれるし、食事の席では北方の風習や名物を楽しそうに語ってくれる。

「ハインリヒさんは、ずっと公爵様のお側に」

「ええ、幼馴染のようなものです。身分は違いますが、あの方は昔から分け隔てのない人でしてね。私のような平民上がりを側近に据えるくらいですから」

「平民の出なのですか」

「驚きました? 北方は王都ほど身分にうるさくないんです。実力と人柄で評価される。公爵様がそういう土壌を作ってこられた」

その言葉にリーゼは静かに感銘を受けた。王都の社交界では、生まれと家名が全てだった。


エルザとの時間も、リーゼにとって掛け替えのないものになっていった。

毎晩、寝る前にエルザが暖炉の火を確かめに来る。その時にぽつぽつと交わす会話が、リーゼの心を解きほぐした。

「リーゼ様、今日の訓練はいかがでしたか」

「少しだけ、結界を大きくできました。でもまだすぐに消えてしまって」

「焦ることはありませんよ。リーゼ様はまだいらしたばかりですもの」

エルザの声を聞いていると、亡くなった母を思い出す。母もこんなふうに、穏やかな声でリーゼを励ましてくれた。

「エルザさん」

「はい」

「ここに来てよかったと、思い始めています」

エルザは柔らかく微笑んだ。

「それは何よりです」


一方で、アルヴィンとの距離はなかなか縮まらなかった。

訓練には必ず顔を出し、的確な助言をくれる。だがそれ以外の場面では、リーゼと目が合うとすっと視線を逸らし、必要以上の会話を避けるように見えた。

食堂でも、アルヴィンはリーゼと同じ時間に食事を取ることが少ない。ハインリヒに聞けば「執務が忙しくて」と言うが、何かそれだけではない気配がある。

ある夕方、廊下ですれ違った。

「あ、アルヴィン様。今日の訓練のお礼を……」

「構わん。明日も同じ時間に」

それだけ言って足早に去っていく。だがすれ違いざま、リーゼは気づいた。アルヴィンの耳の先が、かすかに赤い。

寒さのせいだろうか。

「あの方はね、照れているのですよ」

背後からハインリヒの声がした。振り向くと、いつもの飄々とした笑みを浮かべている。

「照れ……?」

「人と接するのが苦手なんです。特に、年頃の女性とは。幼い頃から男所帯で育ちましたからね」

ハインリヒは肩をすくめた。

「どうか気長にお付き合いくださいませ。あれでも公爵様なりに、リーゼ嬢を歓迎しているのですよ」

リーゼは去っていくアルヴィンの背中を見つめた。広い肩、まっすぐな背筋。その後ろ姿が少しだけ、寂しそうに見えた。

「気長に、ですね」

リーゼは小さく笑った。北方に来て初めての笑顔だった。
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