9 / 50
第一章 婚約破棄と旅立ち
9
しおりを挟む
北方に来て十日が経った。
リーゼの結界術は少しずつ上達していた。掌の前に展開する光の膜は人ひとり覆えるほどに成長し、持続時間も数十秒は保てるようになった。だが境界壁を修復するには、この何百倍もの力が必要だ。
その日の訓練は、いつもより力を込めた。
古文書に記されていた上級の構築法を試す。体の中心、臍の下あたりに意識を集中し、そこから全身に力を巡らせる。巡った力を両手に集め、一気に放出する。
光が弾けた。
今までとは桁違いの光量だった。結界の膜が風船のように膨らみ、訓練場全体を包もうとする。リーゼの体が浮き上がるような感覚に襲われた。
「す、すごい……」
歓喜したのは一瞬だった。
膨張する結界を制御できない。力が暴走し、光の膜が不規則に脈動を始める。リーゼの視界が白く染まり、耳鳴りがした。
「止めろ!」
アルヴィンの声が飛んだ。
止められない。体中の力が指先から際限なく流れ出していく。蛇口が壊れた水道のように、意志とは無関係に溢れ続ける。
結界が破裂した。
衝撃波が放射状に広がり、訓練場の柵が吹き飛んだ。リーゼの体も弾かれ、地面に叩きつけられそうになった。
その瞬間、背中に腕が回された。
アルヴィンだった。リーゼを抱きかかえるようにして地面との衝突を防ぎ、自らの体で衝撃を受けている。二人は雪の上を転がり、ようやく静止した。
「……っ」
リーゼは目を開けた。至近距離にアルヴィンの顔がある。蒼い瞳が真っ直ぐにリーゼを見下ろしていた。
「大丈夫か」
「は、はい。アルヴィン様こそ……」
リーゼはアルヴィンの腕の中から体を起こし、悲鳴を上げた。アルヴィンの左腕の袖が裂け、赤い筋が走っている。衝撃波の破片が掠めたのだ。
「腕が……! 血が出ています!」
「かすり傷だ」
アルヴィンは何事もないように立ち上がろうとしたが、リーゼが袖を掴んで止めた。
「かすり傷じゃありません。すぐに手当てを……」
「後でいい」
「よくありません!」
声が大きくなった。自分でも驚くほどの勢いだった。
アルヴィンが目を見開いた。おそらく、こんなふうに声を荒げられたことが珍しかったのだろう。
「私のせいで怪我をされたのに、後でいいなんて……そんなの、だめです」
リーゼの目に涙が滲んだ。暴走した力。制御できなかった自分の未熟さ。そのせいで目の前の人を傷つけてしまった。
アルヴィンはしばらくリーゼを見つめていた。やがて、ぽつりと呟いた。
「怒ってくれるのか」
「え……」
「俺の怪我に、怒ってくれるのか」
その声は驚きと、もう一つ別の何かを含んでいた。名前をつけるなら、それは戸惑いに似た喜びだった。
ハインリヒが駆けつけてきた。
「公爵様! お怪我を……」
「大したことはない。リーゼ嬢を部屋に送れ。今日の訓練は終わりだ」
「ですが……」
「送れ」
アルヴィンはそれだけ言うと、自ら医務室の方へ歩いていった。左腕を庇う仕草を隠そうともしない。いや、隠すことすら思いつかないのだろう。
部屋に戻ったリーゼは、椅子に座ったまま動けなかった。
エルザが温かい飲み物を持ってきてくれたが、手が震えてカップをうまく持てない。
「リーゼ様、ご自分を責めないでくださいね。力が暴走するのは珍しいことではないのですよ」
「でも、アルヴィン様が……」
「公爵様は大丈夫です。あの方は戦場でもっとひどい怪我をなさったこともあります。それよりも」
エルザがリーゼの手をそっと包んだ。
「公爵様がお怒りにならなかったでしょう? それどころか真っ先にリーゼ様を庇われた。あの方がそうなさるのは、よほどのことですよ」
リーゼは俯いたまま、頷いた。
あの瞬間、アルヴィンは迷わなかった。リーゼを守るために、自分の体を盾にした。氷の公爵と呼ばれる人が。
「怒ってくれるのか」
あの時の声が、耳の奥で繰り返される。まるで、誰かに心配されること自体に慣れていないような。
リーゼは目を閉じた。明日、必ず謝ろう。そして、もっと強くなろう。暴走するのではなく、制御できる力を身につけよう。
この人を、二度と傷つけないために。
リーゼの結界術は少しずつ上達していた。掌の前に展開する光の膜は人ひとり覆えるほどに成長し、持続時間も数十秒は保てるようになった。だが境界壁を修復するには、この何百倍もの力が必要だ。
その日の訓練は、いつもより力を込めた。
古文書に記されていた上級の構築法を試す。体の中心、臍の下あたりに意識を集中し、そこから全身に力を巡らせる。巡った力を両手に集め、一気に放出する。
光が弾けた。
今までとは桁違いの光量だった。結界の膜が風船のように膨らみ、訓練場全体を包もうとする。リーゼの体が浮き上がるような感覚に襲われた。
「す、すごい……」
歓喜したのは一瞬だった。
膨張する結界を制御できない。力が暴走し、光の膜が不規則に脈動を始める。リーゼの視界が白く染まり、耳鳴りがした。
「止めろ!」
アルヴィンの声が飛んだ。
止められない。体中の力が指先から際限なく流れ出していく。蛇口が壊れた水道のように、意志とは無関係に溢れ続ける。
結界が破裂した。
衝撃波が放射状に広がり、訓練場の柵が吹き飛んだ。リーゼの体も弾かれ、地面に叩きつけられそうになった。
その瞬間、背中に腕が回された。
アルヴィンだった。リーゼを抱きかかえるようにして地面との衝突を防ぎ、自らの体で衝撃を受けている。二人は雪の上を転がり、ようやく静止した。
「……っ」
リーゼは目を開けた。至近距離にアルヴィンの顔がある。蒼い瞳が真っ直ぐにリーゼを見下ろしていた。
「大丈夫か」
「は、はい。アルヴィン様こそ……」
リーゼはアルヴィンの腕の中から体を起こし、悲鳴を上げた。アルヴィンの左腕の袖が裂け、赤い筋が走っている。衝撃波の破片が掠めたのだ。
「腕が……! 血が出ています!」
「かすり傷だ」
アルヴィンは何事もないように立ち上がろうとしたが、リーゼが袖を掴んで止めた。
「かすり傷じゃありません。すぐに手当てを……」
「後でいい」
「よくありません!」
声が大きくなった。自分でも驚くほどの勢いだった。
アルヴィンが目を見開いた。おそらく、こんなふうに声を荒げられたことが珍しかったのだろう。
「私のせいで怪我をされたのに、後でいいなんて……そんなの、だめです」
リーゼの目に涙が滲んだ。暴走した力。制御できなかった自分の未熟さ。そのせいで目の前の人を傷つけてしまった。
アルヴィンはしばらくリーゼを見つめていた。やがて、ぽつりと呟いた。
「怒ってくれるのか」
「え……」
「俺の怪我に、怒ってくれるのか」
その声は驚きと、もう一つ別の何かを含んでいた。名前をつけるなら、それは戸惑いに似た喜びだった。
ハインリヒが駆けつけてきた。
「公爵様! お怪我を……」
「大したことはない。リーゼ嬢を部屋に送れ。今日の訓練は終わりだ」
「ですが……」
「送れ」
アルヴィンはそれだけ言うと、自ら医務室の方へ歩いていった。左腕を庇う仕草を隠そうともしない。いや、隠すことすら思いつかないのだろう。
部屋に戻ったリーゼは、椅子に座ったまま動けなかった。
エルザが温かい飲み物を持ってきてくれたが、手が震えてカップをうまく持てない。
「リーゼ様、ご自分を責めないでくださいね。力が暴走するのは珍しいことではないのですよ」
「でも、アルヴィン様が……」
「公爵様は大丈夫です。あの方は戦場でもっとひどい怪我をなさったこともあります。それよりも」
エルザがリーゼの手をそっと包んだ。
「公爵様がお怒りにならなかったでしょう? それどころか真っ先にリーゼ様を庇われた。あの方がそうなさるのは、よほどのことですよ」
リーゼは俯いたまま、頷いた。
あの瞬間、アルヴィンは迷わなかった。リーゼを守るために、自分の体を盾にした。氷の公爵と呼ばれる人が。
「怒ってくれるのか」
あの時の声が、耳の奥で繰り返される。まるで、誰かに心配されること自体に慣れていないような。
リーゼは目を閉じた。明日、必ず謝ろう。そして、もっと強くなろう。暴走するのではなく、制御できる力を身につけよう。
この人を、二度と傷つけないために。
12
あなたにおすすめの小説
【完結】婚約者は自称サバサバ系の幼馴染に随分とご執心らしい
冬月光輝
恋愛
「ジーナとはそんな関係じゃないから、昔から男友達と同じ感覚で付き合ってるんだ」
婚約者で侯爵家の嫡男であるニッグには幼馴染のジーナがいる。
ジーナとニッグは私の前でも仲睦まじく、肩を組んだり、お互いにボディタッチをしたり、していたので私はそれに苦言を呈していた。
しかし、ニッグは彼女とは仲は良いがあくまでも友人で同性の友人と同じ感覚だと譲らない。
「あはは、私とニッグ? ないない、それはないわよ。私もこんな性格だから女として見られてなくて」
ジーナもジーナでニッグとの関係を否定しており、全ては私の邪推だと笑われてしまった。
しかし、ある日のこと見てしまう。
二人がキスをしているところを。
そのとき、私の中で何かが壊れた……。
私に価値がないと言ったこと、後悔しませんね?
みこと。
恋愛
鉛色の髪と目を持つクローディアは"鉱石姫"と呼ばれ、婚約者ランバートからおざなりに扱われていた。
「俺には"宝石姫"であるタバサのほうが相応しい」そう言ってランバートは、新年祭のパートナーに、クローディアではなくタバサを伴う。
(あんなヤツ、こっちから婚約破棄してやりたいのに!)
現代日本にはなかった身分差のせいで、伯爵令嬢クローディアは、侯爵家のランバートに逆らえない。
そう、クローディアは転生者だった。現代知識で鉱石を扱い、カイロはじめ防寒具をドレス下に仕込む彼女は、冷えに苦しむ他国の王女リアナを助けるが──。
なんとリアナ王女の正体は、王子リアンで?
この出会いが、クローディアに新しい道を拓く!
※小説家になろう様でも「私に価値がないと言ったこと、後悔しませんね? 〜不実な婚約者を見限って。冷え性令嬢は、熱愛を希望します」というタイトルで掲載しています。
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です
流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。
父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。
無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。
純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
神託の聖女様~偽義妹を置き去りにすることにしました
青の雀
恋愛
半年前に両親を亡くした公爵令嬢のバレンシアは、相続権を王位から認められ、晴れて公爵位を叙勲されることになった。
それから半年後、突如現れた義妹と称する女に王太子殿下との婚約まで奪われることになったため、怒りに任せて家出をするはずが、公爵家の使用人もろとも家を出ることに……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる